スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【No.1374】足の指を洗いながら

先ほど、風呂で足の指と指の間を洗いながらつらつら考えていた。
どこかで「専門的関心」だったか「専門的興味」だったかという表現を見かけた。これがやや、ささくれ立ったような感じを受けたので「なんじゃろなあ」と……。

その表現を使った人は、どうも「一般的」「日常的」、あるいは「下世話な」といったものから、自分のごく周辺に位置するものを囲い込みたい意図、限定したい意図があるのだと取れた。そこまでは分かる気になったが、ではかんじんの「専門的」という言葉が示すところが何なのか。それが、
・どこか曖昧で面白い
・日本語の持つ曖昧さ、ほのめかしのような独特なニュアンスを含んでいて味わい深い
と惹きつけられた次第。

専門。
これは教育機関や研究機関ならば「学術的」ということになろう。しかし、「ジャーナリスティックな」やら「論壇界隈で」といったものもありそうだし、「科学的」「芸術的」とも解釈可能。芸術の対極にある「商業的」というのも、一般や日常から区別される専門性はある。
となると、「オタク的」「偏執狂(パラノイア)的」なんてのもありだし「スピリチュアル」もありかと、とりとめなくなっていく。
さらに、「空想的」というのは専門性が感じられないけれど「SF的」とすればどうだ、専門性が出るじゃないかっ……と発見までした気になった。

そのぐらいに発展させていったところで、「やべ。足の指をこすり過ぎたのではないか」と心配になってきたものだから、洗うのをやめた。

足の指で思い出すのは、学生時代の男性の先輩(ちなみに現在、日本を代表する一流企業勤務)が、当時つき合っていた彼女との艶っぽい話を宴席でしていたとき、ふいにこちらへ「なっ、足の指、大事だろ」と水を向けてきたことだ。それに対し、「おいおい、またか。かんべん、かんべん」と一瞬ばつの悪い思いをしつつ、そういう話をひらりかわすのが苦手ではない自分がどうにかかわしたはず。しかし、どうかわしたのだったかを思い出せなくなってしまっている。
確かに当時も足の指は大事だと分かっていたが、それを客観的に確認させられたのが丸谷才一の小説『輝く日の宮』の記述だった。『源氏物語』読解の成果を盛り込みながら、読みやすく読みごたえある愉しい小説に仕上がっていて、そういう中であられもない性的なエピソードをけろりと入れていた。まさに名人芸。そういうエピソードこそが『源氏物語』を読み解く醍醐味なのだと教えてくれるかのように……。



足の指に関しては、さらに別の話もある。乳児だった息子を連れて公園デビューをしてからしばらく経ったころ、「ママ友」とまでは言えない「ママ知り合い」ぐらいに囲い込める人が、ある時言ったことが印象的だった。
ベビーカーの中の赤ちゃんをあごでしゃくるように指しながら、「わたし、きのう、この子の足の指と指の間を、ちゃんと洗ってやらなかった気がするの」と、さも困ったような、悔い改めるような不思議な表情をしたのだ。それに対し、自分がどう反応したのだったか。それも、すでにすっかり忘れ去ってしまったけれど……。

「子育て」「育児」というものは、それこそ一般的、日常的であり、且つ下世話な局面も多々あるが、ところ変われば学術的にも芸術的・科学的にも商業的にもなる。専門的に語り得る対象なのである。

そんなこんなをいろいろ思い巡らせてみて、くだんの「専門」という言葉の意味に戻る。それが受け手に託されている風だということ、「専門」と表現した人々を中心とし、周縁に当たる領域が遠ざかっていき一般化、日常化していく段階的なところで、中心にいる人が抱いている限定と、周縁にいる者が抱く許容への期待との間に乖離やせめぎ合いがあることを、ますますもって面白く感じたのであった。

テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

【No.1364】写真修正ボランティア

非常勤で仕事をするようになってから、決まった曜日の読み聞かせボランティアができなくなり残念に思っていた。したところが、今の生活に無理なく取り入れられるボランティアに参加できることになった。
先週、少し作業をしてきたのだが、震災で傷んだ写真の修復である。

汚れた水をかぶって色が部分的にはげ落ちてしまったもの、がれきによって無数の傷がついてしまったものなどを、なるべく元の形にする。フォトショップ・エレメンツを使い、角度補正やトリミングをしたり、ブラシやスタンプの機能で、汚れの上にきれいな地色を移植したり、明るさや彩度、色相などを加減したりで完成させていく。
えらそうに書いているが、エレメンツはフォトショップを一般ユーザー向けにしたソフトで、それを使ったのはまだ4~5回程度の私。それでも何とかやりおおせる。

この活動の中心になっているのは、社会貢献学会の中の「あなたの思い出まもり隊」プロジェクト。

関西の他、工学院大学新宿キャンパスにも活動の拠点があり、お世話になっているパソコン教室の先生が、そこと連携し、教室の生徒の有志と参加しているのだ。
「勤めに出るに当たり、エクセルのスキルを上げておいた方がいいかも」と思い、小学校と少年サッカークラブの保護者仲間だった先生に、エクセルの集中レッスンを数コマお願いした。
私のイメージでは、「パソコン教室というのは、ワードやエクセル、アクセスのような仕事に必要な技術を身につけるところ」だったが、そこの教室に集まる人たち(多くは主婦)が何をしているかというと、写真編集を習ってアルバムを作ったり、好きな素材でオリジナルカレンダーを作ったり、うちわにメッセージカード・年賀状、Tシャツや布バッグへのプリントなどに取り組んだり、何かこう手芸みたいなことなのである。

好きなことをそれぞれのペースでやって、先生がアドバイスをしてくれるというスタイルのレッスンがあり、そこで「生活を楽しくするようなものを作ってみては?」とお誘いを受けた。様々な経歴や情報を持つ人たちとおしゃべりできる休憩時間にも惹かれ、エレメンツを試したら、その面白いこと、面白いこと。
しかし、物作りをいろいろしていくだけでは何か物足りなさそうとも思った。

エレメンツに手を出してすぐ、テレビで「あなたの思い出まもり隊」の報道を偶然に見た。「被災した写真修正って、身近にスキルとセンスがあり、家族の思い出たる写真の大切さが分かる主婦軍団がいるではないか」と思った。パソコン教室の先生に連絡したところ、さすがに機転が利いて行動力のある方、さっそく事務局に連絡して打合せをし、生徒たちに呼びかけて実働部隊を結成してしまったのである。

生徒たちはレッスンの一部として、写真の修整方針を先生と相談しながら取り組む。通常のレッスンとは異なり、実践的な作業だし人さまのためになるものだから意欲的になる。ボランティアに取り組みたいからフォトショップ・エレメンツをやりたいという人も出てきたようである。

編集や制作の仕事をしていた頃、印刷会社の一台何千万もするレタッチ用スキャナーで写真原稿や原画の汚れを取ってもらったり色補正をしてもらったりした経験が過去にある身。だから、このエレメンツという1万円ちょっとのソフトがいかに驚異的なものだか分かる(実はまだ、自分のパソコンにはインストールしていない)。

先週取り組んだ2枚は、ある家族の晴れの日の写真であった。汚れがひどく不要なものが写り込んでいる部分をトリミングし、細かい汚れを取り去った。着ているもののハイライトを効かせて華やかにしたり、全体に赤紫がかった色調を、人々の顔色が健康的に見えるよう、肌色に近づけたりした。
飾ってあった花が、少し寝ぼけた感じだったので、ほんの少しだけ、花を足す創作もしてしまった。
しゃべらずに集中して取り組めば15~20分かければできる作業だろう。すっかり生まれ変わった写真に、驚いた。
他の写真に取り組んでいた人の中には、子どもの顔のアップの写真の周りが、あんまり汚れているので、プリクラ風に……と、かわいらしいモチーフの額縁をつけている人もいた。ひどく改変してしまうと、オリジナルを損ねることになりかねないが、思い出を少しだけ「よそ行き」におしゃれさせることは許されると思う。たぶん、その判断は、人生経験のある主婦たちの部隊だからこそ、ブレずにやっていける。

今は仕事で社会教育や生涯学習に関わっている。自分の興味があることを学んだり、けいこやレッスンでスキルを高めたりして、張りのある生活をしてもらうための支援である。これは超高齢社会を心身健康で過ごすためのキーとなる機会である。
だが、社会が様々な問題を抱えて逼迫してくれば、個人の生活に張りがあるだけでは不十分だ。
身につけたスキルや知識を社会にうまく還元していくようにし、それが、小さくなった政府・行政体で手が回らなくなった部分を補うようにしていくことが必要になってくるだろう。
ボランティア、つまりタダでやる人が増えると、正規労働の価値を下げてしまう面もあるが、税収が少なくなり、できる事業に限界が見えてくれば、人々は自分でできることは自分でしなくてはならないのである。

写真修正も、それを請け負える業者の商売の機会を阻んでしまうことになる。だが、業者に出す経済的余裕のない人も含め、修正してほしいと持ち込まれた写真点数は、数万に達しているという。
おけいこ事の先に、人前で発表という段階があるが、その先に、押しつけではない社会貢献ができたとき、それはミシン油のように少しずつ社会を潤すのではないか。

ここ数年、何人かの人を、その人に似合うボランティアにコーディネートすることに成功している。自分にできることは限られているけれど、人の力を社会の力につなげていくことに興味がある。



テーマ : やってみたこと、感じたこと、思ったこと。
ジャンル : 日記

【No.1356】明日に架ける言葉

何やら大仰な見出しをつけて書き始め、それに見合う内容にできるかどうか心もとないけれど……。

黄金週間初日の28日、一年がかりで支援していく子どもたち向け事業のオリエンテーションであった。
全体の大まかな流れは引き継ぎをしてもらえたけれど、細かな一つひとつの作業に落とし込まれたとき何が何だか分からない部分もあり、昨夜は準備に追われた。今朝も勤務先に着くなり、準備の詰めが甘い部分が気になってバタバタしてしまった。クールにこなしていきたいものだから、「カッコ悪い感」に自己嫌悪。

もう少しコンパクトなものならば、全容を頭に描き、いろいろなところに自分ならではの工夫を埋め込み(たとえそれが自己満足に過ぎないにせよ)、自分で上げたハードルに向かって着実に貫徹を目指していける。しかし、これに限ってはパートナーもいるし、自分に都合良いペースだけで進めていけるものでもないため、カタルシスにはもっていきにくい。

それでも、お子さん相手の仕事は、ちょっとしたひとときにも「明日につなげられた」と実感できる瞬間が訪れる。
「転校してきたばかりなんです」と話をしてくれた親御さんといっしょだったお子さんに、「それじゃ、学校のほかにも、ここでお友だち作れるね。お友だち増やそうね」ととっさに声をかけると、雲から晴れ間がのぞいたような愛らしい笑顔が広がった。

「転校してきたばかりなんです」と言われ、無意識に「それは大変ですね」なんて言葉が口をついて出てこないで良かったと思った。
何かの拍子に出てくる一言は、そこに至るまでの人の歩みを集約することがある。

オフィスに戻り、午後、同じような事業を担当している同僚と話をしていて、お互いに転勤族だったことが分かった。「後になってみると豊かな経験だけれど、転校するって友だちや好きな人と別れるのが辛いし、何気なくいじめられることもあるよね」という流れになり、「そうだ。自分には、友だちを早く増やしたいと実感した体験があったのだったな」と思い出した。
それに加え、ここ10年ばかり、絵本の読みきかせをしてきた経験も大きい。「そう言われたら、こう切り返す」というような丁々発止の局面も、おはなし会というパフォーマンスの中では訪れるのだ。

新しい職場は4人の島で、自分も含め、皆が相当にキャラが濃い。
最初は、こんなに濃い人同士で角のぶつかり合いのようにならないかと心配していたが、それぞれに「趣味」「志向」がはっきりしているので話を聞いていてとても面白く、洒落や冗談もよく飛んでいる。まったく違う仕事をしているけれど、「困ったら助け合おう」「曲がりなりにも我々は指導職なのだから、人聞きの悪いことを言うのはやめよう」などと声かけ合って過ごせる環境がとても有難い。
「ここ」に至るまでの、それぞれの多様な歩みを尊重し合いながら、それぞれの業務をうまくこなしていくためのルールを皆で形成しつつあるのだろうか。
自分自身もまた、「ここで友だちを作る。友だちを増やす」という思いがどこかにあるから、とっさにお子さんに、あのような明日に架ける言葉が飛び出してきたのかもしれない。

【No.1354】悩ましい夏

カフカをはじめとする不条理の物語を面白がって読んできたし、長年、人と仕事をしてきた中で、「何でこういう目に遭わないといけなのか」と、理屈や知性で説明のつかないところで不条理な出来事に巻き込まれたりしてきたけれど、今、「橋下市長V.S.関西財界」の構図に焦点の当たっている「脱原発V.S.原発再稼働」という社会全体が直面している課題は、何という不条理な悩ましさだろう。

マスコミがそのように報道するから「二者のいずれか」という争いの様相を呈しており、国民がどちらを応援するかという流れになってしまっている。これは本来、二者択一ではなく、皆で必死に別の知恵を出していくべき問題。
しかし、大半の人はうっすら気がついていて、「この夏」「来年の夏」のような近々の解決策は待ったなしの状態であるものの、有効な解決策を、どのリーダーも科学者も技術者も、それから賢者も、出し得ない。

日本全体で一教団化し、「太古に還っていくよ」と、音頭を取るわけにはいかない。

財界の人たちだって、家に戻り、普通のおじさん・おばさんという立場だけで許される人生なら、「脱原発」を支持する方に回るのではないか。
幸いにして、私は普通のおばさんでいられる立場なので、「そりゃあ、脱原発に決まっている」と発言できる。結構なエネルギーを日々、消費しているくせに……。

ここのところ大手の電機メーカーを中心に、規模の大きな人員削減が報道されている。
高品質の日本のモノが売れなくなってきていたところに、東日本大震災の被害があり、タイの洪水で工場が被害を受けたり、円高で利益が目減りしたり、メーカーは満身創痍だ。新興国へ原発の技術移転をしていく動きも、矛先が鈍らざるを得ない。
当然のことながら、メーカーのリストラは、そこにつながっている人々の生活も危機に追いやる。それは、下請けの部品製造業者、運搬業者に留まらない。原発のある地元も同様で、飲食店や宿泊施設、日用雑貨の店、タクシー、清掃業、クリーニング業といったところにも響いてくるのが、よく想像できる。

企業がダメになっていくことは、ここまで築き上げられてきた日本の産業自体がダメになっていくことになるし、それに伴って、何人もの生活が脅かされていく。さらに言うなら、これから社会に出て行こうとする若者たちの就業機会も奪ってしまうことになる。

橋下氏とて、回り回って税収がどんどん下落していけば、どうなると考えているのか。
高い所得を保障された中高年の役人やら、OB・OGたちの年金を考えれば、行政には手をつけるべき部分が多いと思うが、「人件費削減」として実際に行われるのは、新規採用を見合わせ、能力ややる気の期待できる若年層の雇用を絞っていくことであり、そういう新人の雇用を「非常勤」という官製プアで補っていくことだ。つまり、晩婚化・少子化がさらに加速していってしまう。
今は、「官製プア」も民間のパート・非常勤も、私のような主婦層が多くいて、幸いに彼女たちはバブル期に企業研修を受けており、40代でも50代でも、気とカンを利かせて働けてしまうという、時代の「あだ花」的な緩衝材のような層である。そこが実は、息子や娘たちの雇用を微妙に奪っているのかもしれない。

夏の電力不足で逼迫するのは産業界だけではない。昨夏、私も間近で経験したことだが、公共施設の午後休館、冷房温度の調整が必要とされる。
エアコンが家にないので、あるいは家にあっても電気代がかかるので公共施設に涼を取りにくるという年金生活者の健康が心配されるところだ。そういう場所に集まって友だちと会ったり遊んだりという子ども・若者の大切なひとときを奪うことにもつながる。

東京電力は火力で手当てできたようだけれど、関西電力は火力で手当てできないのか。できないから大騒ぎになっていると思うけれど、ちょっと調べてみよう。

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

【No.1351】幸福感

先ほど、夕飯作りに入る前、30分ばかり本を読んでいた。一昨日買ってきた美術に関する新書だ。
読んでいる間は、「そうか、そうなのか」「そうか、そうだよね」と、知らなかったことを知った喜び、自分では言葉で表現し切れていなかったことを確認できた喜びで夢中でいた。

本を置き、立ち働き始め、手を動かしている間に、書き手の精神性の深さをつくづく素敵なことだと感じた。そして、その素敵さを何回も思い起こしているうち、「ああ、そういうものに出会えることが、やはり自分の大切な幸福の一つなのだ」と当たり前のことに気づいた。

音楽を聴いたり絵を観たり、そういう芸術に触れた時の感動は、一瞬の、たちまちのうちに訪れる。「雷に打たれる」という表現のように……。
しかし、言葉がもたらす感動というのは、電撃的というのではなく、じんわりと訪れる。たぶん、「感じる」だけではなく「理解」という過程を経る分、時間がかかるのだろう。

書き手の精神性が達した深みに、後追いで、自分も引き下ろされていく。
「ああ、あの人が来ていたのは、この場所だったのか」という気づきが、その時になって訪れる。
心の奥の秘匿された場所を、やわらかなぬくもりあるものでくるまれたような心地良さに浸る。

言葉の技による、そのような体験が自分にとっての幸福感の元なのだ。
だから、心して、そういう機会を作る努力をしなければ、自分は枯れていくだけなのだと思えた。
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
最近のコメント
最近のトラックバック
RSSフィード
ブログ内検索
リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。