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【No.1145】文学の生まれてくる風土のつづき…4月26+29日

美しい絵画の話のはずなのに、強烈に残酷なノンフィクションを持ち出すのはズレている気がしないでもない。
しかし……。

ブラコフの経験では、被害者の眼にわざわざ傷をつける殺人犯はほとんどいなかった。生殖器に損傷を加えるケースのほうがはるかに多い。四体の死体はほぼ同じ地域で発見され、同じ年に殺され、しかもいずれも眼に傷を負っていた。同一の犯人の仕業だと考えてまちがいなかった。ブラコフの頭には古いロシアの迷信が浮かんでいた。それは、殺された人間の眼には殺人者の姿が焼きついている、というものだった。ことによると犯人はその迷信を信じていて、証拠湮滅(いんめつ)のために犠牲者の眼球を抉り出したのかもしれない。(P45/広瀬順弘・訳)

書影のリンク先で、『子供たちは森に消えた』がどういう本なのかを説明してみている。50人を越える子どもや保護者が犠牲になった1980年代のソビエト連邦~ロシアでの殺人事件について、ソ連に10年駐在した米国人ジャーナリストが著したのである。そこで私が最も注目したのは、この「迷信」についての記述だ。
ネタばれに近くなってしまうが、捜査官ブラコフの推察は、いい線を行っていたのである。ブラコフはプロレタリアートから身を立て、ブルーカラー労働者の理想として尊敬を集めたあと、不本意にもならず者の集まりである「民警」に選ばれ、この連続殺人事件の解決に心血を注いでいた。

ソ連という国家は、言い換えるならば共産主義国家というものは、伝統や土俗性、地域色や民族性といったものを排除する。それは、すべての人民を公平に受け止めた上で、富を公平に分配することを理想としているからだ。その理想の下、科学的合理性に基づく生産を行っていくという姿勢があるからだ。
そのような国家で起きた信じ難い連続殺人事件が、共産主義の理想の網の目をどんどんくぐりぬけながら展開していったところに注目して、作家はノンフィクションを仕上げている。理想は高くても、あらゆるシステムが機能不全に陥っていたソ連という国家を象徴するかのような事象が分析されていく。
その中で、人の行動や意識を規定する「迷信」という極めて土俗性の強いものが事件の特徴となっている。そのことが注目すべき点だと思えたのだ。

今回のトレチャコフ美術館展は、そのような科学的合理主義と土俗性が消化し切れなかったソ連、その前史に当たる時代の絵ばかりが見られるわけなのである。
迷信や語り伝えといったものや風景がかもし出す詩情が満ち満ちた、古典的なロシアの日常や眺めだと認識して一つひとつの絵の前に立つと、何とも言い表し難いロシアの趣きや香りが伝わってくるのであった。

[以下29日に付け足し]
迷信が社会に生きているかどうか、人の生き方をどう左右するのかどうかといったことを上のように考えていたところ、昨日書店でこんな本を見つけた。

書き手が、在野の哲学者から出発し、里山に関する社会活動をしながら東大や立教大で教えるようになった内山節氏なので興味深く読んでいる。内山節氏の著作を教えてくれたのは、地味ながら良質な著作活動を行っているノンフィクション作家Y氏である。
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』は、1965年を境にキツネに化かされるという話が少なくなってきたという人から聞いた事実に注目し、日本の社会と日本人の精神のありようの変化を探っていこうというものである。

では、伝統や土俗性、地域色や民族性がないものは文学ではないのかということになってしまうが、そういった要素が濃いか薄いかは、ジャンルという要素にも密接に結びつくので、すぱんとは言い切れない。ただ、書き手の個性を規定する要素が何なのかといったとき、氏育ち、生い立ち、情報力、人間関係といった属性が大きな部分を占めるが、それを外側から支えているのが土俗性や民族性なのだろう。
迷信に代表される土俗性や民族性が文学作品なり芸術作品から消えて行き、グローバル化していく流れを、新たな可能性に満ちた土壌と捉えるのか、文学的・芸術的土壌の退化と捉えるのか。

トレチャコフ美術館展では、何枚もの風景画からびりびりと霊性、霊的なるものが飛び交っているオーラが伝わってきた。
それとは別に、クラムスコイやレーピン、ツルゲーネフ、チェーホフ、トルストイといった芸術家、文豪たちの自画像や肖像画が印象深かった。
チェーホフの顔が、池澤夏樹氏と堀江敏幸氏の顔を混ぜたような感じであったのには苦笑したが、そのような戯れ言はさて置き、トルストイの肖像画の前に立った私は、両手を合わせて頭を垂れたい気分になったのである。
ロシアの魂の象徴のような、その作家の前で、日本人読者たる私がとても日本的・伝統的身体所作で接したくなった。その瞬間は、今思い出してみると、何かとても不思議な巡り合わせの交流であったと感じる。

【No.1144】文学の生まれてくる風土…4月17日

きのうは渋谷Bunkamuraで「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」を観てきた。
この展覧会、6/13-7/21に岩手県立美術館、7/28-10/18広島県立美術館、10/24-12/13郡山市立美術館を巡回する予定。
分かりやすい絵で、古い時代のロシアの田園地方と人びとを訪ね歩く旅をしているかのような気持ちになれる。さらに、分かりやすさだけではない「何か」を感知することも可能。良い絵が何枚もあり、質高い企画展示だったと思うので、機会あらば……。

トレチャコフをモスクワのどこかの地区か何かの地名だと思っていたのだけれど、バーンズや松方、川村などと同じ収集家の名前であると知り、苦笑いしてしまった。自国の絵画にこだわり、それも画家から直接買い取るということを大切にした、目利きとして別格の人物であったということだ。彼は博愛主義の商人であり、それゆえ実は今回の看板作品は、その絵の持つ意味を良しとしなかったトレチャコフの死後初めて、コレクションに加えられたという。

門外不出のバーンズ・コレクションが来たとき、絵の具の色があまりに生々しく、つい最近描いたようだと感激したが、このトレチャコフ美術館のコレクションもとてもきれいな状態だと見受けた。コレクションが膨大だから順番に飾っていてこうなのか、ほこりが少なく寒冷な土地柄であることが保存に向いているのか、帝政ロシアが立派だったから良い画材が使えたのか、何が原因なのかは分からないけれども、とても19世紀後半、20世紀初頭に描かれたものとは思えない感じがした。

ポスターを飾る美人画は、私【No.1134】で「忘れえぬ人」と書いてしまったが、日本では「忘れえぬ女」、ロシアでは「見知らぬ女」――これも上野の国立西洋美術館だけでなく、北海道にだけ来たこともあるようで、世界のあちこちに貸し出されているのだろうが、ほこりをかぶっている形跡がない。良い状態の名画を間近に観ることができ、嬉しかった。
どこかのフェルメール展と違い、Bunkamuraはいつも絵との距離をあまり置かずに見られるので、とても良い。東急はカルチャー教室もやっていて、五島(強盗と揶揄されていた人)のプラネタリウムもあったし、昔から文化事業に貢献高いグループだから、絵を描く人、絵を見たい人がどう観たいのかをよく心得ている展示だと感心する。
関係ないけど、何か今度、傘下に大学もできたって?(ではなく、東京都市大学に改名した武蔵工業大学が東急グループとの連携を強めるとかいう話で、就職に有利になるらしいと塾や予備校で盛んに勧めているみたい。ムサ工は昔から就職はそう悪くない印象だけどね。メリットが出たのは、むしろ東横学園の方でしょう。グループ企業で働く人のために保育士さんが必要になるのかな)

Bunkamura、昨日はさほど混んでいなくて(「世界的な景気悪化」の影響もあるのだろうか。オーセンティックな品揃えの東急本店は、確かに鉄のカーテンの中にあった国の美術館かっと思える人気なさであった)、「忘れえぬ女」も1人きりで見られるタイミングがあった。一度通しで観てから、再度見直したいものをいくつか見るのが私のスタイルなのだが(だから正直、人とは行きたくない)、2度めに彼女のところへ戻ると、70がらみのスーツを着た男性が、近寄ったり遠ざかったり舐めるように眺めていた。
その男性、出口でも一緒になり、カタログを買っていたのだけれど、代金をお財布から出すのに2分はかかっていて、会計の女性をやきもきさせていた。後ろで精算を待っていた私は、「日本の貴婦人は、この後、メシ食ってからバーゲンに行かなきゃいけないのだから、早くしておくれ」と思っていた。まあ、これはどうでもいい話。

「忘れえぬ女」の他に、見どころはいくつかある。
全体の構成が「抒情的リアリズムから社会的リアリズム」「日常の情景」「リアリズムにおけるロマン主義」「肖像画」「外光派から印象主義へ」の5部に分かれていた。クラムスコイ「忘れえぬ女」は「肖像画」のグループに入れられていたみたい。
素晴らしかったのは「リアリズムにおけるロマン主義」の風景画のいくつかで、この何枚かに「ロシア異界幻想」を抱いた。
江原某氏ではないが、最近、霊感の高まりを自覚する私は、何枚かからビリビリッとくるものを受け止めた。

ロシアは民話の宝庫であり、迷信や語り伝えが多い。そういったものや風景がかもし出す詩情が、絵画に限ったことではなく、偉大なる芸術作品の数々を生み出したことは想像に難くない。
そういえば、最近読んだこの本でも、一番興味深く感じたのは「迷信」である。
<つづく>

【No.1134】ロシア美人…2月25日

『ロシア文学の食卓』で思い出したが、こちらの「ロシア美人」が4月に久しぶりに来日されるみたいで……。東急文化村へ。
昔、上野で公開されたときは、2時間待ちというような行列ができていたように記憶する。そのときに私は見ていない。

ロシアで一番の美人だと思うが、私よりはちょっと落ちるか……(爆笑)。
「忘れえぬ人」という邦題がついていたかな。ナボコフの小説の挿絵になりそうな女性である。

このところ少しだけロシアづいていて、『ロシア文学の食卓』を読むしばらく前、ロシア系のやや贅沢なアクセサリーを手に入れた。
ロシア夫人のおしゃれというと、毛皮にびろうど、そして金やその宝飾品というイメージだ。

『ロシア文学の食卓』を書いた沼野恭子氏も、近影を見ると、そういうものが似合いそうなワイルドっぽい美人。
ご主人(ですよね。お兄さんではなく)は、ああいう教養のある美人においしい料理を作ってもらうから、良い仕事ができるのかなあと思った。ご主人も黒のタートルネックにチャコールのびろうどのジャケットが似合いそうな感じ。かっこいいご夫婦である。外大でロシア語科にいた人を前にちらと知っていたのだが、もしかすると生徒だったのかもしれない。その人はロシアの女性を奥さんにもらったと聞いている。

写真は、ずっと前に誰からかもらったポストカード。いや、もしかするとヨーロッパから帰る時にでも、モスクワ空港で自分で買い求めたものなのだろうか。名画が30枚ぐらいセットになっていて楽しめる。

【No.1103】毒を持て!…11月17日


ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。
矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。
その姿はほとんど直視にたえない。
この悲劇的な、いやったらしいまでの生命感を、感じとらない人は幸か不幸か…。
感じうるセンシーブルな人にとって、芸術はまさに血みどろなのだ。
最も人間的な感情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫版P180-181/同書、中村の紹介文はこちら)

渋谷には井の頭線で出る私にとって、大歓迎の場所に岡本太郎「明日の神話」が設置された。息子も井の頭線を使っての通学である(週6日登校なら、1週間に計12回見られることになる)。
きょう午後1時前に通り過ぎたときは、まだ白い幕に覆われていた。
午後5時前、帰りに通りかかったときは、セレモニー(通路であることを考え、ごく簡単な除幕式だったよう)のあとだったようで、ご覧の通り公開が始まっていた。
原爆をテーマにし、メキシコで制作された作品。5.5×30メートルという大きさゆえ、どこでどう展示するか、招聘先が求められていた。
作品についての公式HPはこちら

渋谷駅が開いている時間帯ならいつ行っても眺められる芸術だ。
ピカソの「ゲルニカ」が3.5×7.8メートル。大きさでは負けていない。
西の「ゲルニカ」、東の「明日の神話」というように、戦争をテーマにした20世紀の東西の巨大絵画(壁画)の双璧として扱われるようになるだろうか。
「ゲルニカ」はそれを設置する美術館が建てられ公開されているが、「明日の神話」はお金を払わず、誰でもずっと鑑賞できる場所に置かれた。
「ゲルニカ」もすごかったけれども、「明日の神話」も下にいると圧倒的なパワーが伝わってきて、SUICAかPASMOになったかのようにチャージされますですよ。

併せてご紹介の『自分の中に毒を持て』も小学高学年から高齢層まで、生きるエネルギーをチャージしたい向きには必読の書。
岡本太郎、こういう世のなかに蘇って演説をぶちかましてほしい。
この画伯なら、どこかでこそっと冷凍睡眠していて、いつか舞い戻ってきてもちっとも不思議ではない。
[追記]渋谷駅と渋谷駅の間、きょうはN響メンバーによる弦楽五重奏を聴けるという、それまた素晴らしい芸術体験ができた。学校行事だったのである。好日に感謝。

【No.1097】デルフトが見せた色(3)…11月3日

レンガ色や薄茶、砂色をしたデルフトの家並みがあり、壁や天井にさえぎられた薄暗い家内、室内に淡い光が注ぐ。
人の視力では、暗闇で色を判別することはできない。光が降り注ぐからこそ、そこに浮かび上がる乳白色の肌や表情、黄やゴールドや青色の衣服、そのひだの陰影やレース飾り、床の模様やコブラン織の意匠などが確認できる。

光は画家の「視界」と「絵画芸術」にとって決定的なものであったと同時に、西欧社会では「神」の存在を示す象徴的なものであったことも忘れてはならない。
光は神の恵み、すなわち慈悲(mercy)であり、静かな日常の空間たる家内に光が差すということは、そこが神に見守られた場所だということになる。

絵画の左端に描いた窓が果たして東向きか、西向きか、南向きか――それは画面に描かれた設定よって異なることと思うが、窓自体の形態もまた絵によって異なる。
普通の家庭婦人や娘、召使いたちの絵の場合、ごく自然な光が注ぐ簡素な窓が多い気がする。それに比べ、今回出展の「ワイングラスを持つ娘」が、小太りの男性に顔を寄せられながら言い寄られている風で、彼女自身は観衆の方を見て、何やら品のない「にたっ」とした表情を浮かべており、しかも着衣は派手な赤と金色――この絵の窓は割にカラフルなステンドグラスなのである。ドレスの色は、その窓の意匠の色と対応していて、どことなく背徳的なイメージを与えるのは偶然ではない気がする。
つまり、神の意志が降り注ぐ場所である窓が「透けたものでない」ということにフェルメールは意味を持たせていやしないかと思える。

そのように考えると、ケガの功名で出品となったダブリンからの「手紙を書く婦人と召使い」の窓も若干のステンドグラスで、少し色が入っていることが気になる。それを根拠に、あるいは手紙の相手が道ならぬ恋の相手だったのかもしれないと考え込んで、何回かこの絵の前に戻って眺めていたのは私ぐらいであろうか。

フェルメールは愛好家も多く、研究書や関連書も多く出ている。美術館には音声ガイドも用意され、今夜もテレビ番組があるようだ。
したがって私が感じた程度のこと、考えた程度のことは、もうすでにどこかで誰かが言い尽くしているのかもしれないが、それでいいのである。誰かがとうに言及している説明をインプットしていって、その確認かたがた本物を眺めるのではなく、こうして「遠望→家並み→家内(→内面)」というパースを自分で感じ取ったり、光や窓が何を意味するのかを自分なりに考えたりすること、そしてそういったものを元に広がっていく人びとの暮らしの小説的な部分に思いを及ばせるということこそが無類の楽しみになるのであるから……。

ということで、きょうは窓からほとんど光が注がない、恵み少ない休日(昔から好物のトップスのチョコレートケーキは食べられたけどなー)ゆえ、ようやくフェルメールについての項を書き上げることができた。

しかし、今回の展覧会、どちらかというと、1650年代のデルフト絵画に大きな功績を残したピーテル・デ・ホーホや、デルフト火薬庫の爆発で32歳の短い生涯を閉じたというカレル・ファブリティウス(自画像が息子の中学受験のときのお塾の熱血国語担当教師によく似ていた)作品の方を興味深く見た。
そして、ヤコブス・フレル「子供と本を読む女のいる室内」が読みきかせをする女性の絵だったので、「葉書があればこれを年賀状にしてもいいな、80枚は買っていくぜ」と思ったのに、人気作品の葉書しかなくて残念なことであったあるよ。
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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