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【No.1097】デルフトが見せた色(3)…11月3日

レンガ色や薄茶、砂色をしたデルフトの家並みがあり、壁や天井にさえぎられた薄暗い家内、室内に淡い光が注ぐ。
人の視力では、暗闇で色を判別することはできない。光が降り注ぐからこそ、そこに浮かび上がる乳白色の肌や表情、黄やゴールドや青色の衣服、そのひだの陰影やレース飾り、床の模様やコブラン織の意匠などが確認できる。

光は画家の「視界」と「絵画芸術」にとって決定的なものであったと同時に、西欧社会では「神」の存在を示す象徴的なものであったことも忘れてはならない。
光は神の恵み、すなわち慈悲(mercy)であり、静かな日常の空間たる家内に光が差すということは、そこが神に見守られた場所だということになる。

絵画の左端に描いた窓が果たして東向きか、西向きか、南向きか――それは画面に描かれた設定よって異なることと思うが、窓自体の形態もまた絵によって異なる。
普通の家庭婦人や娘、召使いたちの絵の場合、ごく自然な光が注ぐ簡素な窓が多い気がする。それに比べ、今回出展の「ワイングラスを持つ娘」が、小太りの男性に顔を寄せられながら言い寄られている風で、彼女自身は観衆の方を見て、何やら品のない「にたっ」とした表情を浮かべており、しかも着衣は派手な赤と金色――この絵の窓は割にカラフルなステンドグラスなのである。ドレスの色は、その窓の意匠の色と対応していて、どことなく背徳的なイメージを与えるのは偶然ではない気がする。
つまり、神の意志が降り注ぐ場所である窓が「透けたものでない」ということにフェルメールは意味を持たせていやしないかと思える。

そのように考えると、ケガの功名で出品となったダブリンからの「手紙を書く婦人と召使い」の窓も若干のステンドグラスで、少し色が入っていることが気になる。それを根拠に、あるいは手紙の相手が道ならぬ恋の相手だったのかもしれないと考え込んで、何回かこの絵の前に戻って眺めていたのは私ぐらいであろうか。

フェルメールは愛好家も多く、研究書や関連書も多く出ている。美術館には音声ガイドも用意され、今夜もテレビ番組があるようだ。
したがって私が感じた程度のこと、考えた程度のことは、もうすでにどこかで誰かが言い尽くしているのかもしれないが、それでいいのである。誰かがとうに言及している説明をインプットしていって、その確認かたがた本物を眺めるのではなく、こうして「遠望→家並み→家内(→内面)」というパースを自分で感じ取ったり、光や窓が何を意味するのかを自分なりに考えたりすること、そしてそういったものを元に広がっていく人びとの暮らしの小説的な部分に思いを及ばせるということこそが無類の楽しみになるのであるから……。

ということで、きょうは窓からほとんど光が注がない、恵み少ない休日(昔から好物のトップスのチョコレートケーキは食べられたけどなー)ゆえ、ようやくフェルメールについての項を書き上げることができた。

しかし、今回の展覧会、どちらかというと、1650年代のデルフト絵画に大きな功績を残したピーテル・デ・ホーホや、デルフト火薬庫の爆発で32歳の短い生涯を閉じたというカレル・ファブリティウス(自画像が息子の中学受験のときのお塾の熱血国語担当教師によく似ていた)作品の方を興味深く見た。
そして、ヤコブス・フレル「子供と本を読む女のいる室内」が読みきかせをする女性の絵だったので、「葉書があればこれを年賀状にしてもいいな、80枚は買っていくぜ」と思ったのに、人気作品の葉書しかなくて残念なことであったあるよ。
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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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