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【No.1085】心に荒野をさ迷わせて(3)…10月11日

マッカーシー『ザ・ロード』のように子どもがつらい目に遭う小説、人びとがしんどい思いをする小説など、楽しめばいいはずの自由時間に何でわざわざ手に取って読むのか。
心が安らぐようなきれいな場所に出かけて行ったり、おいしいものを食べに行ったり、気の利いたものを買ったり、エステやマッサージで気持ちよい思いをしたり、友だちと飲み食いして騒いだり遊んだりすればいいじゃないかと思えなくもない。もちろんそういう楽しみも持つわけだが、「そうそう毎日楽しいことばかりなくても良い」とさえ感じるのは、比較的平和で物に困らないところにいる者の「エゴ」や「物好き」なのだろうか。

「違う世界を知りたい」という好奇心なのか、「感性を鈍らせたくない」という「きれいになりたい」と同じ顕示欲なのか、「確かなものをつかみたい」という熱意なのか、「思索が自己同一感をもたらす」という精神安定効果なのか、「芸術的価値に圧倒されたい」という人類への希望なのか……。
おそらく、そういったものすべてが渾然一体となっている。

折々に、道をよりシンプルにできる選択、苦を排除していく選択はあったのではないかと少しばかり悔いることもあり、だが、求めるものに近づくことでこうむった苦労を割り切れないわけではない。

求めていれば近づくことができる証しの1つとして、この本で得た価値観が挙げられる。
ここには、ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクの授賞スピーチが収められている(書影のリンク先にもごちょごちょ書いています)。

パムクは、この世の幸せからかけ離れていても、「いい人生」と言える生があることを述べている。その人自身が「幸福な人生だった」と感じられなくても、「いい人生」と思えるものがあるというのだ。
「幸福」と「いい人生」との間に断層があるという考えが私には、良き音に響いた。

では、「いい」と思えるには、どうすれば良いのか。
―-それは、持てるものを惜しみなく尽くすということなのではないだろうか。
書いていることが徐々に説教めいてくることが嫌なのだが、恥じずに書くなら、「力」そして「真」を尽くすことなのだろう。そのとき、自分にできることをきちんとやっておけば、たとえ選択に誤りがあったとしても悔いは残らないだろう。
もちろん、個人の選択というものはちっぽけであって、それが意図せず、人知を超えたところにある大いなる非業や悲劇に結びついてしまうことは少なくない。選択や行為の結果として、その苦さを突きつけられたとしても、できたことをきちんとやっておきさえすれば、「ああしかできなかった」と自分を納得させることはできる。納得できるとき、幸福からかけ離れていたとしても、「それでよかった」「いい人生だった」と思えるのではないだろうか。
そう納得できることが幸福だと思える、どこか禁欲的な人間もいるということなのだ。

心を敢えて荒野にさ迷わせる。さ迷わせれば、その先にこういう金の言葉が転がっていることもある。それは力強く人間を支える。
選んで、本を読んでいく。そしてそれに自分なりの「読み」を擦り合わせていく。
荒野の先に楽園を期待するのではなく、荒野で金を拾うというのはいいものですよ、とても……。

*きょうはひとりでまったりしているので、午後の仕事に行く前に、茶漬けすすりながらきちんと完結させられて、よかった。
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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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