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【No.1081】紳士の残酷…10月2日


ダレルの「アレクサンドリア四重奏」4部作の表紙は、もうすでに、ここに何回か貼っている。
数日前、やっと4巻をひと通り読み終えて感じたことには、当然のことだが、「4部作は4部読み終えるまで真価が分からない」。
先日、【No.1073】の記事で、第4巻の前半部分から気の利いた表現の文章を大量に写していたときとも、読後の印象がまるで変わってしまった。

このシリーズは、「小説読み」、こと「文学読み」を自負する人には外せない作品であり、20世紀文学の頂点の1つという評価に間違いはなく、そういう人たちが賛美しきりなのはよく分かる。私も豊穣たる文学世界をひたすらに賛美したい気持ちがある。
しかし、ある1つの切り口がふっと浮かんできて、それによってこの作品を再確認、再認識したとき――それがここ数日の読後のことなのだが、何かとてもひりひりと心が痛んで耐えられないほどに、たまらなくなってしまった。

その切り口とは、ダレルはどうしてこうも、むごい要素を入れて作品を書いたのかという点だ。
具体的に言うならば、身体の破損。

容貌や知性、才能、富に恵まれている男女の交情(肉欲という狭い意味ではなく、漢字の字義通りの意味で)を描いた小説である。彼は、そのなかの数人に、身体的な破損を与えた。
ある者は滑らかな皮膚を失い、ある者は片目の視力を失い、そしてある者は……。

この作品を知る人には、違和感があるように感じられるかもしれないけれども、「ゴッドファーザー」を想起した。PartⅡだったか、PartⅢだったか、記憶が入り混じってしまっているが、教会権力とも結託して「望月の欠けたることもなしと思えば」という栄華を極めたコルレオーネ・ファミリーで、誰かが「敵は愛する者から奪っていく」というような発言をしたかと思う。物語はその言葉通り、かけがえのない存在を次から次へと奪っていく。実のきょうだいや義理のきょうだい、懐刀、娘など……。
血で血を洗う粛清であるが、しかし、そこにはコッポラ独自の映像美学、映像詩学があり、観客はそれを確認しに、そして、気づかない深層の部分で、誰がどういう死に方をするのかを確認しに見に行くわけである。あれはあれで、「仁義なき戦い」として奪われていくことが「マフィア的調和」であり、さらに言うなら、「ハリウッド的調和」であった。

しかして、この4部作でふいに出てくる身体的欠損の場合はどうか。
ダレルが目したのは「小説的調和」かというと、そういうことではないのだろうと感じる。
小説の舞台の中心はアレクサンドリアであり、エジプトの内奥にも行くが、ギリシアの島にも飛ぶ。くくってみれば地中海世界である。
容貌や知性、才能や富といった要素は、私には現代版「真・善・美」であろうと取れる。つまり、ギリシア的世界の至高価値が「真・善・美」であったのに対応して、現代的な至高価値、とまではいかなくても、重きを置かれる価値が容貌、知性、才能、富といったものだということである。
ダレルはそのような完璧に近いギリシア的世界、幸福であるギリシア的世界を、パンドラの箱から飛び出した数々の卑俗なものや邪悪なものを集めて、解体にかかったのではないか。その象徴が身体に与えた破損だと思えるのである。
何のために?
確信は持てないけれども、今のところ私が出した解答は、「まぼろしのように美しい世界を還俗するため」ということである。、結局それは、第1と第4の物語の小説家志望の青年、ダレルの化身である青年のイニシエーションということになろうか。
夢見る青年が現実にリンクしていくとき、人はそれを「大人になる」と言うわけでしょう?

イニシエーションのために身体の破損を用いるのは「死」を用いるより残酷であると思われるし、「大人になる」ことを書くこと自体、ある意味、とても残酷ですよね。

[追記]うん、きょうの文章はちょっと池澤夏樹氏に読んでもらいたいような感じ(笑)。いや、どうせなら、訳者の高松雄一氏に……。
この解釈、どうでしょう、と。
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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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