スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【No.1080】目についた秋の新刊絵本中心に…10月1日

朝、家を出るときは書店に立ち寄るつもりはまったくなかった。重い荷物を少し遠くから引き上げてきて、一部某所に設置するという用事があり、残り分もそこそこ重いのに、絵本、海外小説、SF文庫各1冊をつい買ってしまい、さらに地元駅で食料品を買い出し。
この間の日曜、立ちずくめのご奉仕を長時間したあと、やや癖になりつつある右ひざ靭帯の違和感もあるので休養しようとして、きのう今日を休養日に当てるつもりが、「やはり体力はありす過ぎるかもしれない。このパワーは真っ当に社会に還元していかないといけない」と自覚した。

しかし、朝は弱い。もう半世紀近くを生きようとしているのに、血圧が低い。初夏の検査では上が100を切っていた。毎度のことなので驚くには及ばないけれども……。下が60台で間があいているから健康は健康なのである。健康だが、朝の機嫌はすこぶる悪い。
5時半起きでお弁当と朝食を作るというのが結構しんどく、最近、7時半から8時ぐらいまで、再び横になってから仕事に出かけたり、諸活動に入ったりするという悪い癖がついた。先日、午前中に予定がない日は、目覚めたら10時ぐらいで焦り、掃除を適当にごまかしてしまった。

左端の『ネコとサカナ』を買ってきたのだ。なぜ、『ねこはしる』『きつねのおきゃくさま』と並べたかというと、ベストセラー『あらしのよるに』シリーズもそうだけれども、「食うか、食われるか」――つまり、「捕食」の関係で、「食欲の秋」という線で面白いかなあと思ったのだ。
『ねこはしる』はハンディサイズの童話本で出ているけれども、これは24画面の紙芝居。24画面は、ちょっと厳しいように感じる。現物を見ていないので紙芝居としての処理がきちんとできているかどうかも未確認。
『きつねのおきゃくさま』は泣ける「自己犠牲もの」の定番で、前に紹介文を書いたけれども、もうそのリンクは切れてしまったみたい。
話が前後するが、『ネコとサカナ』の訳者は「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表の辻信一氏。
それから、『ネコとサカナ』で、最近読んだパワーズ『われらが歌う時』に大切なモチーフとして使われている「魚と鳥」についてのことわざを思い出した。

『パンプキン』は千葉茂樹氏の翻訳ということもあり、注目。去年出た『りんご~津軽りんご園の1年間』や『しょうたとなっとう』のような「できるまで」を紹介した写真ノンフィクション絵本の海外版。ハロウィンは最近、幼稚園行事で行うところも増えたみたいだが、ハロウィンに使うかぼちゃが育つまでを描いている内容がしっくりくるほど定着度があるのかどうかは疑問。日本のノンフィクション絵本とやや異なり、ファンタジー味が少しあるのに惹かれた。この本を検索していたら、関連本で『ハロウィンのランプ』が出てきた。日本の作家だが、登場人物には外国名をつけているみたい。
『いとしのおばけちゃん』『おばけやしきなんてこわくない』は、やはりハロウィン関係でこの時期出たものと見受けられる。
私、タブローは抽象画が好きなのだが、絵本に関しては、デフォルメが強いものはどうも苦手である。これはおばけだからまだ良いのだが、タイポグラフィも使われており、読み聞かせにはあまり向かないと見た。
『おばけやしきはこわくない』は、おばけ屋敷に潜入した子が、こわい話をしているおばけたちから身を隠して「こわくない」と言いながら中をうろうろしているのだが、最後に意外なものにこわがってしまうというオチ。絵は個性あり。小学低学年ぐらいが一番楽しめるかもしれない。園児さんたちは、こわがる子も多いと思う。

『パパがやいたアップルパイ』は絵がいいのだが、言葉の展開がいまひとつではないかという印象。季節的には、まさに今にぴったりなのだけれど……。
『あなたがだいすき』は、割に新しい出版社なのか、去年もちょっと目を引く絵本を出しているコンセルという版元の新刊。親がいかに子を愛しているかという、割によくありがちなテーマを扱ったもので、そうベタベタせず、いかにも「泣いて」風でもなくまとめている。
『ゆめみるリジー』は『ネコとサカナ』と同じ出版社で、同じようにオーストラリアの児童図書賞に顕彰されている。中身を見たことがなかったのだけれども、すごくいい絵だった。今までにあまり高い評価をされているのを見たことがない(私が知らないだけなのかも)。児童書出版社の協会に名を連ねてないと、チェックからもれてしまうのだろうか。おそらく、出版社でも評論家に献本を熱心にしていないせいだろう。

『ゆめみるリジー』については、ちょっと気になることがあった。扱っているのがオーストラリアの開拓最前線、つまりフロンティアの一家の話なのである。
野中の一軒家の暮らしを描いていて、想像を絶するような孤絶感、寂寥感が根にある。日曜なのに近くに行ける教会がない、買い物に行く市もない、子どもが通う学校がない、したがって遊び友だちもいない。リジーはそれらを全部、想像で補うという展開だ。
そこには、オーストラリアのフロンティアならではの特殊事情が背景にあるのではないかと感じた。つまり、オーストラリアの評判を下げる意図ではないが、この国でフロンティアにいた人たちは、米国とはやや事情が違いますよね。「ならず者」として、英国にいられなかった人たちが、初期の移住者には少なくなかったという歴史があったはず。政治犯やら。
オーストラリアの作家ピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』という小説を思い出したが(ケリーは時代が異なるけれども)、このあたりのことをオーストラリアの教育ではどう教えているのかと考えた。その辺のこともあって、こういう絵本の形で出てきた点に意義があるのならば、ただの「社会から隔絶した一家の深い絆の話」という受け止め方では足りない。そういう意味でのオーストラリアの評価を知りたい。……いや、ネットで検索すれば、何かに当たるかもしれないですけどね。
絵本って、そのように国や民族、社会の特殊性を知っていると厚い評価ができるものもあるのではないかと感じる。絵がどうだ、話がどうだ、両者のバランスがどうだ、翻訳がどうだ、誰に向いた内容かといったことばかりでなく――日本の絵本評はほとんどがそこで終わっているという印象だが、誰かがもっと広い視野で「位置」「価値」を論じてもいい気がするなあ。私にはできんけどね。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
最近のコメント
最近のトラックバック
RSSフィード
ブログ内検索
リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。