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【No.1073】Gifts for You…9月21日

つまり、自己抑制というのは行儀作法に譲歩するだけではすまされないものだ。(P48)

「しかし、不幸ってものは、ぼくらをもてなすために遣わされるんだぜ。ぼくらはそいつを貪り、いやというほどそいつを楽しむようにできているんだ」(P46)

たぶん、わたしたちの病気はただひとつ、お互いに作り出す虚構に安住できなくて、耐えられそうもない真実を欲しがることなのね(P70)

「あらゆる幻想のなかで、もっともやさしくて、もっとも悲劇的なのは、たぶん、私らは行為によってこの世の善悪の総量を増やしたり減らしたりできると信じこむことだろうな」(P84-85)

ぼくが時間のことを口にしたのは、自分の内部で成熟しかけている作家が、時間の捉えそこねたあの不毛の空間に住みつくことをついに学びはじめたから――いわば、時計が時を刻む音の合間に生きはじめたからである。それは継続する現在だ。人間の記憶というあの逸話集合体の真の歴史だ。過去が死に、未来は欲望と恐怖で表すしかないときに、予測することもできず無視することもできないこういう突発的な瞬間をどうやって捉えたらいいのか。(P10)

「愛に酬いてくれる人から学ぶものは何もないのよ」この言葉は外科用アルコールのように傷口に染みたが、しかし清めてはくれた。真実とはすべてそんなものた。(P34)

これらの言葉に表出しているニヒリズム(あるいは、より深刻な姿勢)に全面的に心酔するものではないが、P100まで読み進めないうちにこれだけ詰まった思索の濃密さに圧倒される。
ロレンス・ダレルの4部作、最終巻『アレクサンドリア四重奏Ⅳクレア』(高松雄一・訳)からの引用です。

第二次世界大戦前夜のアレクサンドリアに集った男女の交流を、幾分ミステリー仕立て、めくるめく表現で描いた小説……と第2部まで油断させておいて、第3部になると一転。読み手をエジプト社会の内奥に放り込む内容になっている。さすがに元外交官である作家のたくらみのしたたかさか、と感じ入らなくもない。
ファラオの血を引くコプト人を中心に、エジプトの風土、文化、社会の流儀などをじっくり描きながら、人間関係の有機的結合を増幅させるスケールの大きな小説に化けさせている。

「1920年代からの英国のパレスチナ政策」「パリ落城~ド・ゴールの自由フランスと英国の関係」「北アフリカ戦線」など、太平洋戦争エリアの人間には馴染み薄い情勢が舞台になっている。別にそれらをあまり知らなくとも読めるけれども(私の場合はちんぷんかんぷん)、当時のアレクサンドリアの雰囲気を肌で感じにくいところがあるので、英国の読書人に比べると不利なのかと思い、悔しい。

本の内容についてはさて置き――
つい最近、ある短い英文を見ていて、英語ってやはり「自分が何をしているか」「何を考えているか」「相手に何を望むか」をごまかさずに伝える構文構造になっているのだなと再認識した。主語の次におおむね術語がくるという、その構造一つに限った解釈だけれども……。
私など長文癖なので、文を結ぶ術語を用意するまでに、気分が変わったり何を書いているのかを見失ったりしてしまう(脳の弱さが原因という話もある)。最後に来る術語を濁らせたり省いたりしても成り立つことが可能なのだ、日本語は……。

英語では「I」「You」という人称の表現にも面倒がない。上下関係や親しさの程度を使い分ける必要もない。選んだ人称に応じて語尾を変化させる必要もない。「ぼくら」なら「~だよ」、「おれ」なら「~だぜ」のところを「わたしたち」なら「~なのよ」みたいに……。
人称をどうするかは、翻訳の世界においては基本中の基本の課題になると思うので、それをもって高松雄一・訳の自然さ、美しさに感謝するのは程度の低い話である。だが、日本語に直したときに、語り口からどうしても匂ってくる人物像に、物語での性格設定のブレがないため、この訳業のすごさは相当のことではないかと思えた。

私が見ていたという英文は、人称や語尾といった日本語的な尾びれ背びれが当然はぎ取られていたというのに、確かにその人物のポライトな印象、精神力、体温などが母語と同様、それ以上にストレートに表れているように感じられた。それがとても面白く、且つ好ましい感じであった。

たぶん、ここに挙げてみた気になる言葉のいくつかをはじめとして、訳文から漂ってくるダレルの品性や精神のありようもまた、ブレなく原文から置き換えられたものなのだと思う。それもまた好ましいものだ。
この人がどれほどの大作家でどういう作品を残したか、作家になるまで外交官でどういう業績を残したかといったことにではなく「何に痛みを感じたのか」――その悲しみのありように惹かれる。言い換えると、「その人物が何に心を動かすのか」という指標で、私は人を判断しようとしているということになる。
同じようなことについて同じような悲嘆をする人に、「同じ血を感じる」とするのは僭越に過ぎるのだろうか。「それは幸せな勘違いなのだ」という弁明が許されるよう望む。
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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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