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【No.1022】青白い光(3)…6月1日

幹線道路を走り去って行く車の白光りするライトの列にも目を留めながら、白いものが目につく日だと思いながら自転車をスピードに乗せ、買い物を終えて帰ってきた。
玄関灯が照らし出している隣家との境の壁もまた青白く光っており、自転車のカゴから白い米の入った袋をつかみ出し、やはり白く光る玄関扉に向かおうとしたとき……。

壁の方から、白いチョウがひらひらと目の前に現れた。
一瞬、蛾なのかと思えた。夜の明りの中で、酔ったように乱れた動きをしていたからである。しかし、玄関扉に止まったとき、羽は閉じており、ごく一般的なモンシロチョウであることが確認できた。

チョウは再び、ひらひら、ひらひらと私につきまとうかのように周囲を飛び回り始めた。どうも動きがおかしい。よく見ると、羽がぼろぼろ……とまでは行かないものの、結構傷ついているのが分かった。
分かった瞬間、私はどきりと、ある気配をそのチョウに感じた。
――これは誰かの身代わりではあるまいか。

「この人、キティが入っているわ」
そう思われても仕方ないことを書いてみるが、私はこのような霊的な働きを迷わず信ずる。
それは、時、あるいは空間を隔てた遠い場所にいる人に思いを馳せるとき、自分が送る波が伝わっていった先で、何か私の身代わりの物が、その人の前に形となって現れているのではないかと思えるときがあるからだ。あまりにも強く、そうであってほしいと願うことが、おそらくそうなっているであろうという確信へと変わる。正気に障りを生じさせるほどに、思いが高ぶる瞬間というものがある。
何も、誰か男の人を恋しいと思うような気持ちだけではなく(過去にはずいぶん、そのような生霊を飛ばしていた気がする)、心の秘密を打ち明け合う手紙をやりとりした年上の信頼のおける女性、辛い闘病の上、ある日静かに亡くなっていったその人への感謝の気持ちであったり、大切な息子さんを亡くして悔いばかりが残るという、昔お世話になった人の、未だ会ったことがない奥さんに対する切ない気持ちであったりする。思い出すだけで「ああ」と嘆息が漏れるような人が何人かいるのだ。

羽の傷ついたチョウは、いったいどの時代のどの局面から、誰が私に遣わしてくれたものなのか。一葉の小さな葉書のようにひらひら舞うチョウは、どれだけの長い旅を経て、私の元に辿り着いたのであろうか。
もう少し目を細め、もう少し「脳力」と呼ばれる第六の感覚を懸命に働かせれば、チョウの背後にぼんやり誰かの姿が見えたのかもしれない。もしかすると、それは私がまだ出会ったことのない人物なのかもしれないけれども……。

このように自意識強く、自己都合的な感覚ばかり垂らしていることに、ある種の人には耐えられない薄気味悪さがあることと思う。
だが、物語るということは、その薄気味悪さを敢えて引き受ける覚悟あってこそのものだと言えよう。物語る主体が、自分の世界を表現しようというとき、そこに他者への遠慮や迎合があれば、形作られようという世界は曇ってしまう。語りとなって表される意識を肯定的に捉えずして、物語が息づくことはない。

幻視・幻想、そして幻覚は、過ぎれば日常生活の継続を阻む危険な代物である。けれども、そうしたものに浸されない人と深く交わることはできないと私は思う。日常のどこかに、日常を振り切るだけの幻想と物語を持つ人に私は共感する。そして、ときにそのような人を愛する。
その人がまだ、私同様、物語るにはまだ早い、未熟な力しか持たない「かけら」のごとき「物語の侍女」であったとしても、そして一生かかっても、かけらがついに物語という壺に形取られることがないにしても、幻想や物語を求めるありようは、喜びや悲しみをそれらに託して表そうという意欲は、青白い光のなかで、ときに自身の光を小さく放つこともあろう。



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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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