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【No.1381】『雲をつかむ話』への親しみ




多和田葉子『雲をつかむ話』がかな~り面白かった。日常世界の延長線上にある不思議であやしげな世界が書かれた、ミステリめいた小説だった。
「日常世界の延長線上」というのは、どこか分かった風な表現であいまいだ。これは、誰にでもある勘違いや早とちり、妄想や被害者意識、思い込みといった頭の中の世界のこととして私は考えている。それらが、あと少しだけ過剰になってしまうと、人格に破綻をきたす。「狂った世界」「こわれた世界」の一歩手前あたりなのだが、実は、そのあたりが一番くせもので怖いんじゃないかとつねづね感じている。

自分の意識の中の勘違いや妄想、思い込みもさることながら、各種人間関係の中で、ふいに誰かがあらわにするバイアスがかった内面世界に対し、不安や困惑、果ては恐怖さえ感じ取ることがある。それは、おそらく誰しも時々感じることではないか。
リアルに私と過ごしたことのある人なら、かなりひんぱんに感じているのではないかと気の毒にもなってくる。
バイアスがかった意識、ふつうから少しずれた意識が呼び起こされるのは、作家が「芋づる式」ではなく作中で「雲蔓(くもづる)式」と表現する思索のあり方による。目の前に見えているものだけを書きとどめようとしても、過去がずるずると引き出されてきて、それが止められない。そういう意識の働きに身をあずけ、「犯人」について書き連ねていった小説なのだ。

語り手はドイツで暮らす日本人作家で、作家その人を思わせる。その人物が、これまでに出会った犯人のことをいろいろと思い起こしたり、夢を見たり、旅をしたり、人に会ったりする。「犯人」の人となりや行動が奇妙で印象深いし、いろいろな犯人が描かれていった後で、終わりがどうしめくくられるのかに引きずられていく。面白さは、そういうところにある。

『雲をつかむ話』は読売文学賞に選ばれた。日本の小説として高い評価を得たわけだが、作家はドイツにもう30年近くも暮らし、日本語とドイツ語で創作をする特異な人。彼女の名と作品はヨーロッパでよく知られ、それはどうも村上春樹をしのぐ勢いらしい。
そんな経歴や評判もあり、文学の世界では亡命作家や、亡命以外の理由により母語でない言語で創作をする作家の列に連なり、「世界文学」「越境文学」といった位置づけをされる。
文学論はさて置き読んでいくなら、ドイツが主な舞台だから外国人の名が出てきて、外国の地名が出てくるものだから翻訳小説っぽいのだけれど、それにしては妙に翻訳が自然な日本語ではないかと時々、思ったりする。美文というのとは少し違うかもしれないけど、ずいぶんこなれた日本語じゃないか、などと考えるのである。しかし、日本語を母語とする人が書いたのだから当たり前である。
「世界文学」「越境文学」と言うより、味わいは、そういうくくりが出てくる前の時代によく言われた「無国籍風」である。カフカや安部公房みたい。

雲蔓式で私の頭に去来したのは、森忠明という児童文学作家(寺山修司に大切にされた人)が、彼の「マコンド」(ガルシア・マルケスの小説舞台)「ヨクナパトーファ」(フォークナーの小説舞台)「高密県」(莫言の小説舞台)である立川、基地があった頃の立川を描いた一連の童話の中で、昭和によく見かけられた看板について書いた部分。さし絵で表現されていたようにも覚えているが、「スグソコ」という表示だ。
矢印と共に、質屋やら病院やらの場所を示すのに、「すぐそこにある」という意味の道案内が、看板の隅に書かれていることがあった。
多和田葉子の書く小説が、ボーダーを越えて作られ評価されていくものなのか、ボーダーを無として諸国の読者の手に届けられていくものなのか、広がり方は、いざ読む者にとっては、どうでも良いことのようにも思える。
日常を問題なく、つつがなく暮らしていくためのふつうの意識からの「スグソコ」、「狂った世界」「こわれた世界」のすぐ手前――マコンドやヨクナパトーファ、高密県のように存在する場所に、彼女の小説の領土があるとするなら、それは何やら、とても親しみ深く私には感じられるのである。
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