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【No.1129】ベルリオーズの幻想物語(3)…2月10日

人が物語を作ろう、物語ろうとするというのは、日常生活が思いがけずうまく運んだときや、何ともうまく行かないときではないかと思う。つまり、ほどほどの良いこととほどほどのストレスがもたらす、平々凡々たる安定感や納得を欠くときである。

期せずしてうまく行ってしまうようなときには、それを大げさに語って、より一層運気を盛り上げたい気持ちやら、このぐらいのことで喜んでぬかってはいけないと自分を戒めたい気持ちやらで、物語を借りて自分のなかで脈絡を整理しようという働きが起こる。
この脈絡整理こそが人間の根源的な欲求で、これは別に筋が通っていなくても破綻していても、その人なりに納得できる「流れ」が作れれば良いのだ。流れを認識して、それにより次の行動へ移っていければ、それで物語は十分な働きをすることになる。
物事があまりうまく運ばないというときであれば、当然、「悲しい」「辛い」「悔しい」という感情の落ち着き先を求める。

ベルリオーズがやったのは後者で、痛手を音楽物語という形にし、脈絡をつけ、自分を深い淵から救い出したのであろう。
「幻想交響曲」は「幻想」というどこかロマンティックな響きの題とは異なり、怪奇な悪夢の物語だ。それはベルリオーズ自身も服用していたというアヘンが見せたグロテスクな夢でもある。ここには、トマス・ド・クインシーの小説の影響があるとも言われているようだ。ラリった芸術家は何もヒッピー文化に始まったことではない。

芸術家として立とうとしている若い男性が恋に破れ、毒を飲んで自殺を図る。しかし、毒の量が十分ではなかったために死には至らず、悪夢にうなされるというのが「幻想交響曲」の設定である。全部で5章に分かれているが、音楽界ではこれが「ハイファンタジーなのか、ローファンタジーなのか」的な2種類の解釈がある。

ハイファンタジー的に、5章がまるごと夢の中の出来事だとするもの。つまり、彼は5つの場面の悪夢を見ているという解釈で、それがそれぞれ楽章に対応している。
恋人に対する情熱、一緒になりたいという夢や、その思いがもたらす苦悩が最初の章には表現されている。つづく2章では、舞踏会で見かけた彼女の姿がワルツで奏でられる。3章になると、田園地帯に遊び、角笛を吹く羊飼いと恋人の姿を見て、自分の愛する人のことを思い出す。そして4章で、彼は苦悩の余り女性を殺し、捕らえられて断頭台に送られてしまう。
この首の落ちる音、処刑の見物に来た民衆の騒ぎも音楽で表現される(何か、この断頭台へのマーチ曲が、どこかの局のスポーツ中継で使われていなかったろうか。サッカー日本代表の試合の中継のときによく聞く気がするのだけれども)。最終章、これは19世紀にはあまりにも奇異な表現だったようだが、魔物たちによるサバトの場面。魔界に堕ちた男性が、清純さを失い、あばずれと化した愛する女性の姿をそこに見つけ出すという物語。

ローファンタジー的な解釈の方は、田園での出来事を描く3章までが彼の現実世界で、殺人以降が悪夢だというのである。こちらの解釈だとしても、19世紀というどっぷりキリスト教世界の中、殺人からサバトに至る物語を、神をたたえたり君主をたたえたりすべき音楽で展開したというのは異端児扱いだったらしい。単に音楽家・芸術家として異能の人だっただけでなく、「行っちゃっている」という意味でも異能の人だったようなのである。
ましてや、オペラの形式ではなく、交響曲の形式でベルリオーズが幻想物語を扱ったのはなぜなのか。1つには、まあ、オペラにしてしまえば、破綻なく落とし所を踏まえて物語を構築しなければ評価されない。したがって、もやもやしたもの、どろどろしたものを楽曲に流し込むことで、より自由な表現を目指し「脱・物語化」したと言えなくもない。
薬を服用しての芸術への取り組みだけでなく、「枠」物語や物語の解体に手をつけたという意味でも、ベルリオーズは現代文学に先んじて実験的な作家だったと言えるのかもしれない。

それから、やはり「ラ・マルセイエーズ」と「幻想交響曲」を同じCDに収めたバレンボイムの意図は、「革命、民衆、主君による支配抑圧、国王と王妃の断頭台での処刑、悪夢、魔物の跋扈」という感じで、何となくドストエフスキー『悪霊』などにもイメージが広がり、「苦悩による抑圧、悪夢、殺人、断頭台、民衆、魔物の饗宴」という内容の響き合い、音の響き合いに鑑賞の味わいを求めたというところなのでしょうかね。
組み合わせて一枚のCDとして物語性をふくらますことに成功している気がする。フランス語の歌詞が分かれば、またさらなる心象の強さにもつながると思う。どの作品とどの作品で本を編むかというところにも、もちろん通じる。
(この記事の書き出し、受験を戦いの体験のように書いておいたのにも、一応それなりの響き合う意図を含めたわけなのだが)
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