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【No.1111】心霊の住む部屋…12月6日



上野の国立西洋美術館にて、ヴィルヘルム・ハンマースホイ「静かなる詩情」展を観る。
最近不勉強で、美術雑誌も美術番組も見ない。「室内の絵が多い」「北欧のフェルメールと言われることがある」「デンマークの巨匠」といったぐらいの予備知識しかないままに出かけた。新聞記事ぐらいは読んだかもしれないが、とうに忘れている。
しかし、絵も映画も本も、人の価値判断を先入観として持たずに実物に触れることは幸いなのである。

都内を走る電車の中の広告や駅貼りのポスターなどに印刷された作品をひと目見て、これは自分のテイストにかちり当たる世界だろうと確信していた。果たして、期待を上回る透徹した美の世界であった。
企画の充実ぶりはさすがに国立西洋、すでにロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでの展示を成功させての巡回だそうである(出品数はロンドンを上回るそう)。個人蔵が多く、ヨーロッパのあちらこちらで所蔵される作品が集められている。
したがって、今回見られなかった人にとっても、そして、これから先の自分自身にとっても残念なことに、これだけの規模の展示はもう見られないのではないだろうか。何となく、フェルメールほどに人気が出そうだとは思えないし……。


今回の企画者である学芸員や美術愛好家が失礼に感じないと良いのだが……と思って書くが(どうせ、そういう人が気にして見るブログではないから遠慮はしないものの)、作品のほとんどから私が感じ取ったのは「霊気」であった。
幽霊の類いは見たことがない。幻想的なものは好きだし、「幻視」と言うよりは幻想的イメージが多く脳内に立ち現われては消えるものの、リアリストなので幽霊は見られないのだろうと自覚している。
しかしながら、心霊や霊性の存在は信じられるので、ハンマースホイは「見ていた人」なのだろうと、それを意識しながら絵を描いていた人なのではないかと思えて仕方なかった。
上に出した本は、全部読んでいるわけではないが、ハンマースホイの表現した世界は、まあ、こういった小説によって書かれた世界と類似しているのであろうと挙げてみた。

ことにヘンリー・ジェイムズ。
彼の短編小説に「友だちの友だち」というものがある。語り手がこの世で引き合わせなかった男性と女性がいる。男性の方も、女性の方も、相手のことを話に聞き、話題がとても合いそうだから「会ってみたい」と互いに思っている。だが、語り手の嫉妬もあるのか、会う機会なく、心を残したまま2人とも死んでしまう。その2人が霊となってから逢い引きがかなうという筋である。
筋を明かしてしまって申し訳ないが、ヘンリー・ジェイムズ独特のわけがわからないような文体で書かれている。読んだ本の日本語訳が悪いのだということはなかろう。ジェイムズは読み手の娯楽を考えて親切に書くのではなく、心理の壺のようなものに自分の霊を閉じ込めて創作したような書き方をする。そのような文体を確かめながら読む小説であるから、ネタばれしても作品に当たる興が冷めきってしまうことはなかろう(勝手な言い草かもしれない)。

薄暗い室内で、妻の後ろ姿ばかり追ったハンマースホイの作品群は、ジェイムズのそのようなゴシック――人物が閉じられた空間で気が変になっていくようなものとは違って、作者の精神状況そのものがゴシック性を帯びるような――に通じるものがあった。
「静寂」「詩情」という見方は、私にはどうもピンとこない。
どこか不気味であり、それが観る私の正常を歪めながらも、美に誘ってしまう。そういう危険で良からぬ魅力に満ちている怖ろしい世界であった。

妻イーダは、同じ家で毎日暮らしを共にする実在の人物でありながら、ハンマースホイがキャンバスに写し取っているのは、彼女の霊なのであろう。
第一、本来描かれるべきはずのピアノの脚が2本なかったり、扉の取っ手が捨象されていたり、ロイヤルコペンハーゲンのパンチボウルの模様が描かれていなかったりというのは、また、椅子の脚の落としている影が1つの方向に向かわず、あり得ない方に向いているのは、果たして美術的な意匠として片付けられるものであろうか。
「象徴主義」ということの中に、霊的なものの象徴という意味もすくい取れば納得も行く。画家自身の心霊の働きがあって、空間や物体に宿る霊的なものを表現するようにして制作はされたのではないだろうか。

フェルメールの絵も謎が多い不思議な絵である。画家のプロフィールがあまり明らかではないということも相まって、絵の中に込められた意味の謎解きがいかようにもできるから不思議なのであり、その意味では饒舌で、鑑賞する者、批評する者に解かれるのを待っているような感じもある。
一方、この画家の作品はあまりに寡黙であり、描かれるべき人間世界の饒舌な情報が鑑賞者から奪われてしまっている。不思議さは謎めいているところから生じているわけではなく、霊気が漂うところから、もっと言うならば、現実の空間ではなく、霊たちが居る空間として異界が描かれているからこそ生じている。したがって神秘的なのは当然のことなのではないか。
そのようなことを考えながら陶然として、恍惚として眺め入っていた。
そう、ちょうど、自分の霊をそこに移入するようにして……。
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Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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