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【No.1101】医療を支える言葉…11月15日

日本薬剤師会会長の児玉孝氏は、大阪にある薬の神さまを祀った少彦名神社のすぐ近くにある薬局を営む家に生まれ育った。小さな頃からその神社のお祭りに出かけるというように、薬と縁深い人生を送ってきたという。

以前、薬屋は「町の科学者」と言われ、「何か分からないことがあったら薬屋のおじちゃんに聞くといい」と近所の人から慕われる時代があった。それが今、薬店はドラッグストアや調剤薬局のような形態が増え、地域のためにあるというイメージからは遠ざかりつつある。
治療行為とは異なり、予防のために患者予備軍が訪れるという特徴も持つ薬局は、本来、地域の人びとが訪れ、健康や病気予防の情報を得る場所でもあった。「最近の薬屋は冷たい」という声がしばしば聞かれるが、マニュアル化された処方箋をただ渡すのではなく、個別の理解や求めに応じた情報提供を心掛けていくのが望ましい。それを実践しやすくするため、カウンターを低くしたり、ブース化したりする指導を協会では行っているということ。

平成18年から薬学部は6年制に移行した。
従来の4年制の場合は1年生からいきなり専門課程の学問が始まったが、医療人としての教育を行ったり、4年生で模擬患者に対する説明を実践する授業が入ったり、コミュニケーションを大切にしていく教育が端緒についたばかりだという。
ただ、コミュニケーションは学問で教えられるというものではないので、抗がん剤のように非常にデリケートな薬が増えた現在、その使い方をいかに伝えるかということは大きな課題となっている。
話の内容に前後するところはあるが、骨子はだいたいこのようなことであった。

3人の医療者側の話を受けて、エッセイという言葉の仕事に携わる立場として、また、がん体験者という立場として、岸本葉子氏が患者側にとっての言葉という切り口で語った。
医療者の言葉を一方的に受け止めるだけではなく、言葉を発する者としての患者にも注意を払うべきだというのが彼女の提言である。

自分の体験から、言葉を発することで、患者としての痛みは消えなくても、疑心や不信感が消えて不安がなくなることがあり、それが安心して治療に専念することにつながる場合があるという例を語った。
「こんなに痛いが、本当に手術は成功したのか」「もしかすると何かが起こっているのではないか」といった疑念を持つようなとき、心の内にたまったものを我慢してそのままにしておくのではなく、言葉として発して医療者に伝えることが大切なのだという見解である。それが「伝わった」と感じられるとき、患者は大きな力を得ることができるという。

医療と訴訟に関する研究者であり、このディスカッションのコーディネーターである稲葉一人氏からは、医療者側と患者側の立場の差異を端的に表す構図が説明された。医療事故に際して、その差が問題としてどう顕在化するかという内容である。
医療者にとって患者はone of themであり、彼が口にする手術の成功率は確率の問題で、合理的思考の上に立っている。50パーセントの成功率は、10人受けたら半分は成功するという確率なのである(これ、四谷大塚の模擬テストの説明を思い出した。80パーセントの合格率は、10回受けたら8回受かるということではなく、その偏差値の子が10人受けたら8人は受かるよ、ということらしい)。
しかし、患者側にしてみれば、わが身はone of oneであるから、合理的思考で片付くわけがない。失敗して命を失うようなことになれば、「では次は、うまく行くようによろしく」とはいかないのである。半合理性、非合理性、つまり感情的な話や思考になってしまうのは当然で、この両者の差が、何か事故があったときにむき出しになり、紛争や訴訟の原因になるという。

このように各人から様々な関心や問題意識に基づく「医療と言葉」に関わる材料が提起された。
共通項をいくつか拾いながらの擦り合わせがなされたが、医療コミュニケーションを取り巻く大きな問題の根底にあるのは、疾病構造がドラスティックに変化してきている点にあるということのようだ。

昔、医師は「患者の痛いところに手を当てよ」と言われており、目で見えたり、手で分かったりする範囲が医療を施す対象であった。それが、現代の医療は「見えない」「分からない」部分も対象とするように変化した。したがって、医師の専門的判断が問われることになり、また、抗生物資のような「魔玉」を用いるということで、医療者がある種、傲慢化したという流れがある。
しかし、今、多くの患者は、医療で一発で直してもらう伝染病の類いよりも、慢性疾患で苦しんでいる。闘病が長引くのである。これは、手術でがんを除去した人が、再発を防止するというような例も当てはまる。
患者のあり方が変わったことに伴い、医療者の役割も、話をよく聞きながら長期的に付き合う医療を施すようにと変わりつつある。そこでコミュニケーションが問われるようになってきており、その変化に医療者が追いついていけないということがあるのではないか。

医療者は患者と一体になってしまっては医療は施せない。しかし、患者に対面で物を言うのではなく、患者の傍らに添うようにしてうまい距離を取りながら、言葉による場作りをして、患者の最後の砦である「自己治癒力」「免疫力」を引き出すようにすべきである。同時に患者は、自らを治そうという主体性をもって治療の場に臨むべきである。
共通の認識としては、このようなところへと辿り着いた。
お互いの思いや意志を伝え、受け止めるものとしての言葉のやりとりをセンシティブに行っていけば、医療にも良い効果が出るという見解であろう。

病気や怪我で治療を受ける患者というものは平常とは違う精神状態にあり、ただでさえ混乱や失意のなかにあるわけで、ましてや口下手であっては、医療者と「個」対「個」のコミュニケーションを図っていくのは困難であろう。日常からリテラシーを鍛えている場合には、口にして気持ちを整理したり、自分を支えてくれるスタッフにリアクションをもらったりで前向きになっていける可能性もある。
問題はやはり、言葉をどう発すれば良いのか戸惑う人びとで、おそらく患者のほとんどはその状態に置かれることになると思う。
このディスカッションのなかでは、言葉だけでなく、体全体のコミュニケーションということにも触れられたが、私も医療機関での活動では、絵本を読んでいながら、実は相手が視力や聴力に障害がある場合もある。時に、意志伝達がほとんどできない相手と対峙する場合もある。となると、言葉を超えたところにある肌感覚、自分の人格や体から発する「気」のようなものに頼らざるを得ない。言葉によって信頼関係を築いていけない場合、どう相手の領域に入って関わるべきかという課題が残される。
一般の人間関係でもそうだが、気脈が通じ合った上で交わされる言葉のやりとりがコミュニケーション成功の秘訣であろう。相手が医療者であれ、患者であれ、いかに相手の求めるものに心を寄せられるのかということが、結局のところ、理解や協力や融和にとっての必要になるということだろうか。
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中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
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http://biwa.blogtribe.org/を、
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