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【No.1399】「あの素晴らしい愛」は母の愛?

1月の25日から3週間にわたり、朝日新聞別刷りの「逆風満帆」(日本経済新聞「私の履歴書」みたいな感じ)に精神科医:北山修=作詞家:きたやまおさむの取材記事が載った。
ちょうど、そのしばらく前、北山氏の九州大学における連続最終講義ほかをまとめた『最後の授業 心をみる人たちへ』(みすず書房)を読んだばかりであったので、興味深く目を通した。

京都府立医科大在学中に加藤和彦らと結成したザ・フォーク・クルセイダーズ「帰ってきたヨッパライ」が大ブームとなり、同グループ解散後、キャンパスに戻ってからも「風」「花嫁」「あの素晴らしい愛をもう一度」「さらば恋人」「白い色は恋人の色」等の数々のヒット曲の歌詞を手がけた。この才能を、世間が気にしないはずはない。

音楽活動仲間のような身の回りの人たちのために書いたはずの詩がヒットによってひとり歩きを始め、マス・コミュニケーションに乗って思わぬ広がりがもたらされる。そのことへ違和感を感じたり、ヒットメーカーだからとマスコミにつきまとわれ、研究活動や臨床等を阻害されることに苦しんだりしながら、いかに医療と音楽に取り組んできたかという点がインタビューで明らかにされていた。

北山修氏の研究で面白いと思うものに『共視論 母子像の心理学』(講談社)がある。浮世絵に描かれた母子像を分析すると、母と子は同じ対象を見ていて視線が重なっている。そこに日本の親子関係の特徴を読み取ろうというもので、発達心理学者や江戸文化学者を巻き込んだ共同研究として一冊の本にまとめられている。
浮世絵の指南役は、以前から美貌の誉れ高い江戸文化研究者の田中優子氏。この春から法政大学の学長に就任予定ですね。

共視については先般、小児科医でお茶の水女子大大学院教授、榊原洋一先生の講演を聴いた時にも指摘されていた。
西洋の親子が描かれた画(その多くは聖母マリアと幼子イエス)の場合、母子が共通の対象を眺めるというという感じではない。ばらばらの方向を見ている例ばかり。

あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度

これを書き出すとJASRACに断らないといけないけれど、まさにこれが「共視」なのかと思ったりもする。
「あの素晴らしい愛をもう一度」は、もしかして日本ならではの母との思い出を恋う歌なのか。

『最後の授業』から、面白いと思ったところをいくつか抜き書きしてみる。
ここには、将来、人の心を見ていくために学ぶ学生たちに向けたメッセージが集められているわけだけれど、心のコントロールに苦労が多い現代人たちにとって、得るところが多い本だと感じられた。

不特定多数の心を取り扱うテレビをはじめとするマス・コミュニケーションに対して、私たちは一人のパーソナルな心を取り扱う専門家であること。(P38)

鏡はお母さんの瞳の中にあって、子どもに一番最初に体験されるのです。その種の体験の重要性を、フランスの精神分析家ラカンやイギリスの精神分析家のウィニコットが指摘しています。
赤ん坊がどのように見えているかをお母さんが照らし返して(リフレクトバック)、照らし返された子どもはそれを内省(セルフリフレクション)の起源とする。これを<鏡としての母親の機能>といいます。
私たちの仕事はこの機能に関わっています。
(P66)

この関係性を重ねてみたとき、テレビはどこに置かれるかというと、この魚の位置にある。ふたりでテレビを見ているという構図になるでしょう。この二者間外交流が行われているときに、つまり文化の継承(共視)あるいは言語の習得(名づけ)という大事な母子関係の二者間外交流がこの場面で内的になにを経験しているかというと、同時にお母さんとの間で情緒的交流、二者間内交流をしているのです。「世界は面白いよ」って、「世界は次々と面白いものが見つかるのよ」って。
「面白い」という言葉の語源は、「面」つまり顔が同じ方向に向かって、なにかを見ていることにあると言います。テレビと言う光を見ていたり、昔だったら囲炉裏端の火を囲んで面白い話をしたものです。
(P82-83)

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テーマ : 読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

【No.1398】家族の困難、教育の困難

昨年暮れのこと、久しぶりに教育学者・汐見稔幸先生の話を聞いた。
教育学者にはスター的雰囲気をまとった魅力的な存在が多い。それが「この世界、面白そう」と私を専門的な学び・研究の場に引っ張った強い磁力の一つである。
東京大学大学院教授を経て白梅学園大学に移り、今は白梅の学長の要職にある汐見先生も、その一人。

こども未来財団と、地域の子育て支援活動で長年の実績がある「目黒子ども劇場」共催の講演会の題は「ひとりじゃない!! ココで子育て ココから子育て ~地域で生きる乳幼児親子のための子育て支援のあり方~」というもの。
会場は、子育てのスタートを切ったばかりの若いお母さんでいっぱいだった。
当然ながら、テーマを訴える汐見先生は、乳幼児を持つ若いお母さんたち一人ひとりの目を見ながら話をする。しかし、始まってしばらく、私やら私の回りにパラパラいた年配のお母さんたちにも目配せしながら、「年を取っても人間は発達します」と力強くお気遣いトークをした。「さすがだなあ」と苦笑と共に思わせられる一コマであった。

「地域」がキーワードの会であったから、「地域に住む人びとのいろいろな知恵を借り、ひとりで閉じこもるのではなく、わいわいがやがやの子育てで楽しく育てよ」ということなのだが、「不幸にして現代は、人類史で今までの子育てが初めてできなくなった時代だ」という指摘があり、そのような肌感は日ごろからあったであろう若いお母さんたちに、なかなかに厳しい現実が突きつけられた格好になった。

人類が長く営んできた子育てとは、
①家事や仕事を手伝わす…祭りも含めて、村には村の一人前として覚えるべきカリキュラムがかつてはあった。
②あたかも「放牧」されるように、地域社会で群れて遊びながら頭を使って工夫する力、社会性、企画力を育てる発達保証集団があった。
③帰る家庭には団らんの場があり、いやしがあった。
という環境で成されていたという。

小学校の低学年で親が働いていれば、春夏冬の長期休暇、土曜日などは学童クラブに行くことになる。
ちょうどそのぐらいの年の頃、私は盛岡市で過ごした。母は専業主婦で、私たち姉妹が学校に行っている間、「映画を好きに観に行けて天国だった」という不届き者であったが(笑)、それは置いておくとして、放課後、私たちの居場所は家の前の大通りであった。
ランドセルを家に放って通りに出ると、たいてい5~6人の違う学年の子どもたちが男女入り交じり、マンホールをベースに野球を始めた。蝶やトンボが飛んでくる季節にはそれを追い、雪が降ってくれば角度の急な坂道でスキーを楽しんだ。坂の上には、楳図かずおや水木しげるのマンガを安く貸してくれる貸本屋があり、こそっと立ち読みしていると、奥から店主の咳払いが聞こえてきた。

野球の他に興じたのはゴム跳びである。持ち手が腰のところや脇の下でゴムを支え、高く上げていくという競技的なものもあったが、地面近く低く構えて♪しばしも休まず つち打つ ひびき~♪と皆で歌いながらのゴム跳びもあった。
持ち手は子どもだけだと長続きしない。
母や午前中の内職を終えてひと息ついたお母さんたちが加わり、持ってくれ、歌ってくれた。
疲れるとお母さんたちは中に入り、お茶を飲みながら、茶受けの漬物をぽりぽりかじり、亭主の愚痴をこぼしたり、若い時の話などをしていたという。
先日、母に聞いたら、その漬物は、午前中に訪ねてくる行商のおばさんから買ったもので、おばさんはよく、上がってひと休みをしていった。そこにも、家族の話題があったに違いない。

通りで遊べていたのは、車がまだ少なかったからだ。
遊んでいて車が来ると、「車、来たよ~!」と誰かが言う。すると、窓から顔を出したドライバーが「済まないねえ」と声かけながら、道を通って行った。
ええかっこしいの父は流線型の新車を買い、「岩手県でまだ数台めだ」とご満悦の様子であったが、それなのに私たちが社宅として住んでいたアパートはトイレが外で風呂がなく、夕飯の後に銭湯を利用していた。
銭湯に行くと、そこにまた、大通りの友だちがいたものだからお互いの裸も知っていたし、湯上りに瓶に入ったりんごジュースやコーヒー牛乳を飲みながら、実に多くの地域の人たちと話をした記憶がある。

今、思い出すと、トイレも風呂もない、あのアパートと大通り、そして小学校が楽園のように思える。
良いことばかりでなく、十勝沖地震に襲われ、皆で夜中に通りに飛び出した夜もあったけれど……。

よくは覚えていないのだが、きっと私はああいう場で「元気のいい子だねえ」「ほっぺたがぴかぴか光っているよ」「はきはきしている」等、ちょっとした言葉をかけられながら、いろいろな人にその存在を肯定され、毎日を支えられ、「自尊心」を育ててきたのだろう。

2009年に出版された汐見先生の『子どもの心自尊心と家族』(金子書房)にも、子を放牧すべき地域がなくなってしまった問題が書かれている。
地域の人々の手を借りにくく、夫が労働力として職場に吸収された状況で、母親が孤軍奮闘しなくてはならない育児の傾向を、氏は「人類で初めて」の大変な事態だと捉え、21世紀型の子育ての知恵と工夫をしていく必要を訴える。
それは、政策としての必要性でもあるのだ。
以下、感じ入った部分のごく一部を抜粋してみる。

学力というのは、簡単にいうと、臨機応変に考えることがてきて、しかもできるだけ的確な判断を下せる知的な能力のことだ。そこには柔軟性と同時に原則性、そして深さが要求される。「生きる力」ということが教育界でよく言われるが、その中心は、社会に出たとき生じるさまざまな問いや課題に、可能な限り的確な判断が下せ、しかもその線で行動できるという力、つまり知的な能力だ。生きる力は道徳心や社会性にのみ還元されるものではない。(P10)

私は今日の「学力」低下は、かなりの部分が学校で生じているのではなくて、家庭や地域社会での生活の中で生じている生活現象だと考えている。(P60)

言葉がとげとげしくなり、しゃべりたくなくなるのは、共有する文化が目の前になく、頭の中の観念をもとに非難がましいことを言いあうからである。けれども、いっしょに家庭の文化を共有しているときにはそれが少ない。言葉に双方の真心や愛情が込められやすい。
しかし、現代の日本では、そうした家庭文化の共有という機会が少なく、その場にはないことがら--学校でのことや塾でのこと、部活のことや他人のことなどなど--が話題になったりすることが多い。そこに親の期待の感情がまぶされると、その期待に沿った行動をしているかどうかを訊き出そうという言葉がどうしても多くなる。
(P108-109)

テーマ : 読んだ本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

【No.1397】びっちゃんびがつく びすけっとみつけた

おはなし会の導入に、この『あっちゃんあがつくたべものあいうえお』が楽しく使えるということを教えてくれたのは、松本市で「ちいさいおうち」という子どもの本の店を長年経営している越高夫妻の奥様の令子さん。JPIC読書アドバイザーの大先輩。
確か医療センターのボランティア研修会でのことだった。
地域でふんばっている子どもの本の専門店は全国にいくつかあるが、そこで暮らす親子や教育関係者にとって、文化の香りする本の専門店があることは生活の満足度に少なからず影響があることと思われる。
それは、はるか昔わたしが子どもだった頃、地方暮らしをしていたとき、県庁所在地まで出張に出る父に、母が童話の本をおみやげに買ってきてほしいと頼んでいたことからも想像できる。
オンライン書店が多くできたにせよ、子どもに渡す本をまずは手に取り、「どういう大きさか」「どのぐらいの文字の大きさか文字量か」「内容はどうか」といったことを確かめたい親は多い。そして、それを子といっしょに「これ、ください」と買う喜びを味わいたい親は多い。

越高さんの情報をしばらく眠らせておいて、4年ぶりぐらいに「一度私も使ったるか」と先週の日曜、読みきかせを実践してみた。
東京で1回目の大雪が降った翌日の会であった。
子どもたちはそう集まってこないだろうと考えていたら、お出かけの予定を変更せざるを得なかったせいか、それで近場で我慢しておこうということなのか、思いのほか大勢いて、見守るパパママも多かった。育児熱心、教育熱心な土地柄の場所だったからだろう。
子どもたちは、「午前中に雪遊びしてきた」と言っていた。

この絵本は、見開きごと「あっちゃん あがつく あいすくりーむ」「いっちゃん いがつく いちごじゃむ」「うっちゃん うがつく うめぼし すっぱい」というように展開していく。向かって左ページにかるたの読み札のような文字、右ページにイラストという構成である。
びわちゃんの「び」が見出しの通り「びっちゃん びがつく びすけっと みつけた」になる。あいうえおの「わ」まで到達すると、「がっちゃん」と濁音が始まり、続いて「ぱっちゃん」という半濁音もある。
最後に「をっちゃん をがつく てを あらおう」と来て、「んっちゃん んがつく おやつの じかん」というのはやや苦しい感じの結びだが、最後の「ん」の見開きでは、全体を通して登場する動物たちが、登場したお菓子をずらり並べてパーティーしている。つまり皆でわいわいものを食べるという、子どもの本の黄金の手本みたいな場面で終わる。

全部読み通すと時間がかかる。したがって、その場にいる子どもたちの名前を聞きながら、「ああ、よっちゃん。よっちゃんはね。ちょっと待って」とページをめくり、「よっちゃん よがつく よーぐると」と披露。一人ひとりのページを開いて読むたび、「わあ」「〇〇だって」と場が非常に盛り上がる。
この実践の日は、たまたま国際的な家庭のお子さんが何人か混じっていて、名前のバリエーションがあったので、より一層楽しめた。
名前というのは、大人から子どもへの大きな贈り物だろう。そこに皆の関心が寄せられれば、参加している一人ひとりにとって嬉しい体験になる。
だっこされて眠っている、まだ小さな赤ちゃんの名前もママに聞いてみた。
「ねえ、みんな、あの赤ちゃんのお名前も聞いてみて、いい?」と声かけしながら……。

大勢がいた会だから、かるたの読み札に何が書いてあるかを楽しむような、つまり音声や言葉に集中する使い方になってしまったけれど、この絵本は、時間を割き、じっくりイラストを眺めてほしい。
「かっちゃん かがつく かすてーら」では切られたカステラたちから手足が生え、並んで電車ごっこをしている。
「さっちゃん さがつく さーんどいっち」では、かえるのコックさんたちが、マヨネーズをかき混ぜたり、パンを4匹がかりで運んでいたり、きゅうりのスライスやハムをしいたりしている。
「てっちゃん てがつく てまきずしくるりん」では、手足の生えた手巻き寿司たちがトゥシューズをはいてバレエを踊っている。
「ひっちゃん ひがつく ひなあられだよ」では、三人官女らが大粒のひなあられをぼーりぼりと食べている。

絵本作家さいとうしのぶさんの作品は、この本に限らず、どこか古き良き日本のひなびた雰囲気が漂っていて味わい深い。細かいところまで丁寧で、無骨なぐらい手作り感にこだわっているのが伝わってくる。だから、絵を見ているうち、手や思いを込めた「たべもの」のおいしさが舌に感じられてくる。

こんな絵本を一冊与えられたら、「あいうえお」は楽しく学べるだろう。
そして、グラタンの昼食を取る日には「まっちゃん まがつく まかろにぐらたん」、お寿司屋さんに行ったら「すっちゃん すがつく すし くいねぇー」と歌いながら、家庭の生活文化を面白く共有していけることになる。

ご参考まで、ボーカロイド「巡音ルカ」が、この絵本を歌っているのでリンクを貼りつけておく
「あっちゃん あがつく」



テーマ : 絵本
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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