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【No.1396】あいまいなニュアンスを豊かに表す日本語

ツイッターの方に少し書いたのだったかな。
暮れも押し詰まった一日、英語絵本のリーディング活動をしているJPIC読書アドバイザー仲間と、英語と日本語絵本のジョイント読みきかせをする機会をいただいた。
「ジョイント」なんて書くとカッコいいけど、つまり両者をちゃんぽんでやってみたというわけ。
パートナーとなった方が、とてもエネルギッシュで知的で、いろいろな経験が豊富だったので、実に楽しい試みだった。

英語絵本には少しだけ思い出がある。ホームステイをしながらイギリスの英語学校に5週間だけ通った時、書店で何冊か絵本を買い求めて読んでいたら、教師をしているというドイツ人のクラスメートに「絵本を読むって、英語の勉強にとてもいいと思うわ」と言われた。何のキャラクターだったか忘れてしまったが、確か名の知れたキャラクターの絵本だったので、ドイツ語版で読んだことのある彼女が、嬉しそうに話しかけてきたのだった(こういう言語を超えた交流ができるのも絵本の魅力!)。
物語のペーパーバックは学校にも置いてあり貸し出し可能で、薄っぺたいのを何冊か読んでいた覚えがある。だけど、そこに絵本の収蔵はなかった。

さて、読みきかせ。
英語絵本とのジョイントは初めてだったので、充実の絵本コレクションがあるパートナー宅にお邪魔し、「これはこういう本」という説明をしてもらいながら選書したりプログラム作りをしたりの打合せになった。何かとても贅沢なひとときを過ごした。
彼女は、3年間の英国滞在歴があり、それがちょうどお子さんと絵本を楽しむ時期に当たっていたらしい。そういうわけで英語絵本がどういうものかやら当地の子育て事情やらに詳しいのだけれど、若い層に英語を教えるため、つい最近、大学で英語を学び直したということ。

英語の絵本でどういう動物が使われているか、日本語の絵本では、この動物はどういう役回りかなどという両者の違いについて話している時、「擬音・擬態語」についての違いも分かって面白かった。
日本で出版されている赤ちゃん絵本、幼児向け絵本を調べれば「おお、確かに」と納得できると思うが、擬音・擬態語が実に多い。

ぴよぴよ、よちよち、がたがた、ばんばん、そろりそろり、ひゅうひゅう、すいーっ、にょろり、ぴょーん

その一語だけで、絵が鳴き出すような動き出すような、そういう場面があふれている。
そして、上に挙げた語を見ていただけば分かるように、畳語、つまり同じ音を重ねるのが多いのが特徴である。

ところが、英語では、どうも話し言葉で若干の擬声語(擬音・擬態語をまとめて)があるようだが、書き言葉では、ほとんどそれを用いないらしいのである(この辺、私が後から調べたことも含めて書いている)。

犬が鳴くのはbow wowだが、繰り返しの音にはなっていない。
紙しばいに『みんなで ぽん!』という楽しい作品がある。観客が皆で手を打つと、ブタやケーキが大きくなっていく。子どもたちが集まる場で、外れのない紙しばいの一つである。
この「ぽん」に当たる英語はなく、「訳すとなるとClapよね」と言われ、「そうか、そういうことになるか、なるよね」と新鮮な驚きがあった。

自然や物への注意深い観察から、感覚的に引き出した日本語の音による表現。
この豊かさ、ユニークさについて、あれからずっと考えている。

また、赤ちゃんは上下の唇を触れさせて出す「両唇音」が好きだ。それは、赤ちゃんが最初に出しやすい「マンマ」「ママ」「パパ」といった音との関連があるのだろうか。
「ぷるん」「ぶーぶー」のような「ぷ」「ぶ」といった音がテキストに出てくると、顔をぶるっと震わせるような反応を見せることもある。

下の絵本2冊は、いずれも「ふしぎなたね」という、小さな子に科学の芽を育てる福音館書店の絵本シリーズである。
『かぜフーホッホ』は、あちらこちらで聞こえる風の音を様々な音で表現しているし、『でんしゃはうたう』は擬声語オンリーで作られた絵本である。
どちらも読みきかせをするのは、なかなかに難しい。何度も繰り返し読み、音が選ばれた意図をしっかり感覚でつかみ切ってから臨まないと失敗してしまうだろう。

英語では、こういう絵本は出てこないのだろう。そして、これらを翻訳するとなると難しいのだろうなと思いつつ、微妙であいまいな状態を「音」に頼って表そうとする日本語の独自性について、幾度も感心している。
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テーマ : 絵本
ジャンル : 本・雑誌

【No.1395】きょうという日の覚書

目覚ましは5時20分に鳴るも、寒くてしゃんと起きれず5時40分に起床。
夫の弁当作りと朝食作り。いつものトマト入り野菜スープを煮込むが、材料は夕べのうちに刻んであった。
朝食、片づけ、ゴミ出し、洗濯物干し。
40分ほど仮眠。
二度めの洗濯でシーツのような大物洗いをしながら、トイレ2ケ所・洗面所のそうじ、部屋に掃除機かけ。階段他の床拭き。
神社へ正月飾りをお焚上げに持参。薄謝を渡し、神事を少し見学したのち、お参り。
帰宅して、昼過ぎに塾へ行く息子のため、カレーうどんの下ごしらえ。
母を連れ、徒歩で下高井戸シネマへ。「ベニシアさんの四季の庭」鑑賞。

ファミレスで昼食。いつも通り、母からいろいろネガティブな話を聞き、それを何とか前向きに考えられるよう、おしゃべりの相手。
少し遠回りして帰宅。
洗濯物の片づけ。シーツはベッドメーキング。
自転車で、図書館のブックポストに絵本・児童書など返却。
図書館と方面の違う商店街に出向き、スーパーマーケットで買い物。
帰宅して、午前中できなかった息子の部屋そうじ。風呂そうじ。
頼まれ事の書類を一枚作成。
夕飯の支度、明日の弁当のおかずを少し作る。朝食用スープの材料刻み。
夕飯、片づけ。

今ここ。BSでセリエAを見るともなしに見る。

たぶん入浴して、本を何ページか読むと、ばたんきゅーだと思う。

テーマ : 日々のこと
ジャンル : 結婚・家庭生活

【No.1394】行間にひそむもの

「行間」という言葉は、「本は行間を読むことが大切」「まったく行間の読めないやつ」といった文脈で使われることが多いように思う。そこには、文章に表現し切れなかった書き手なりの思いがあるという意味が込められているのではないだろうか。
確かに、書き手が言葉で表し尽くせなかったものがひそんでいるという考え方には納得が行くが、私がきのう絵本を人に読んでいて発見したのは、「行間は、受け止める人が自分の経験や想像世界をそこに読むものだ」ということだ。
そうでなければ、あんなに文字の少ないテキストで、目を潤ませる人がいるはずがない。

『ぼくのおじいちゃんのかお』は、昨年亡くなった広告界の重鎮・天野祐吉氏が写真家の沼田早苗さんと組んで1986年に月刊絵本の形で出した絵本だ。その6年後に上製本となった。
「おじいちゃん」」は名脇役として日本映画界を支えてきた加藤嘉さん。デザインは奥脇吉光氏が担当している。
加藤嘉の着ている白シャツは、デザインがとても素敵だ。シャツの下にかすかに腕時計がのぞいているし、途中で眼鏡が出てくる。スタイリングは誰がしたのだろう。俳優の自前か、天野祐吉か周辺のスタッフが用意したものなのか。

福音館書店の月刊絵本が、悪くないギャランティーで制作されていたことは知っているが、それにしても、脂ののった専門家たちのギャラがその予算内で収まったとは考えにくい。「皆でいい絵本を作ろう」という一種のボランティア精神がそれぞれに発揮されて制作されたのだと想像に難くない。

年末やきのうのおはなし会にこの絵本を用意したのは「帰省シーズン」を意識してのこと。
読む前、子どもたちに「みんなは、おじいちゃんやおばあちゃんといっしょに住んでるの?」と問いかけると、三世代同居の子はいない様子。
「じゃ、お正月に、おじいちゃんやおばあちゃんに会ってきたのかな?」と聞くと、そこにいた子たちが皆、手を挙げた。「そう。おじいちゃん、おばあちゃんは、どんな顔してた?」とたずねると、特に返事はなかった。
なくていいのだ。言葉が出てこなくても、薄ぼんやりと頭の中で思い出してくれるだけでいい。
そのまま引き取るようにして「きょうは『ぼくのおじいちゃんのかお』というご本を読むね」と前振りを結んでから、読みきかせに入った。

子どもたちの後ろには、保護者たちがいた。実家に帰省したのは、つい先日のこと。記憶に新しいだろう。日ごろ子育てに忙しいパパ&ママたちは、久しぶりに自分の父母と会い、親のありがたみや自分の子ども時代を思い出したことだろう。
絵本を人前で読むときは、それが保護者にどう受け止められるかも意識する。できれば子育てに忙しい人たちのリフレッシュになればいいと考えて選書する本もある。読みきかせのパートナーと直前にプログラムの流れを打ち合わせ、3冊ずつ読むことを予定したが、自分が担当した最後の2冊は、親と子へまるごと働きかけられる絵本を組み入れたつもりだった。
『ぼくのおじいちゃんのかお』から、【No.1392】で紹介した『でんしゃでいこうでんしゃでかえろう』へつなぐ。大型絵本で用意した後者は、山の駅を出発して雪の野原、雪の山、冬枯れの谷に架かる鉄橋などを経由し、海辺の菜の花畑を通って海の駅へ至る。暗いトンネルの画面に入っては、そういった景色に出て……を繰り返す二拍子の展開で、この本も、いやがおうにも「帰省」「故郷」「田舎」を思い起こさせる内容なのである。

『ぼくのおじいちゃんのかお』は、表紙を開けるとまず、感情をフラットにした横顔が扉に小さくあしらわれている。つづく最初の見開きは、にらめっこの「あっぷっぷー」の「ぷー」みたいに口を結んだ表情で、「ぼくの おじいちゃんの かお。」と文字が添えられる。
次の画面は「おじいちゃんは、よく わらう。」と優しい笑顔。それから「あんまり わらうと、ないてる みたいだ。」と、いきなり「何が始まるのか」とトリッキーな調子に転化する画面が出てくる。

全部で24ページ、たった11画面の後半にさしかかると、「あ、また ねてら。」「おじいちゃんは、よく ごはんを こぼして しかられる。」と、「老い」を意識させる内容が出てくる。
クライマックスは、「おじいちゃんは、ときどき とおくを みている。」「ないている とき もある。」――ゆっくりゆっくり間を取りながら読み進めてきてはいるが、この展開は、どういう間を取るか、どういう声の調子で読むか、読み手の感覚が試される勝負どころでもある。
しめっぽくならないよう、演歌じゃないのだから感情を入れ込み過ぎないよう、どこかからっとした調子を心がけた。そして、「まだ、めくらないのか」と苦情が出るのではないかと思えるぐらい、ページをめくらず、写真を見てもらう時間を設けた。

連れ合いに先立たれたのか、戦争で亡くなった大切な友人を思い出しているのか、老いていく寂しさを感じているのか、加藤嘉さんの表情を読み解こうとする人もいるであろう。あるいは、自分の祖父、介護の大変さなど、生活をすり合わせながら見てくれている保護者たちが、おはなし会に参加していたのだ。

この絵本がロングセラーであることは、かなり前から知っていた。
数年前、私が参加していた保育園でのおはなし会ボランティア・グループのメンバーが読みきかせの実践をした。彼女は、遠く離れた故郷に戻り、何年かにわたって介護をした経験がある人だ。そういう人になら、無理なくすぐに入っていけた世界である。
しかし、私は、いつか自分も人前で読んでみたいが、機が熟すのを待つべき本だとなぜか思っていた。
この数年で、割に急に、母の老いを意識し始めた。そんな折、昨年12月初旬に書店をのぞいたら、春に増刷されていたこの本が棚に差さっていて、「あ、これが読むべきめぐり合わせなのかも……」と思えた。

そこまで読んでいたカラフルな絵本と様子の違う、モノクロで地味な本をじいっと見つめる小さなお目々も忘れがたい。そして、ベビーカーのそばにたたずんでいた若いお母さんの目からあふれた涙も、私には忘れがたい体験として深く刻まれた会であった。

テーマ : 絵本
ジャンル : 本・雑誌

【No.1393】カノンの水先人

「カノンの水先人」という見出しで書こうとして、「しかし、これ、傲慢な題じゃないか。文学の現人神のような沼野充義先生を『水先人』にたとえるということは、自分を大型客船かタンカーの船長に奉るみたいなことになる。失礼千万な話!」と、ちらと思う。やはり、沼野先生が控えめに書いているように、

しかし、全体像を把握しきれないほど膨大な数の本がごちゃごちゃと積み重ねられてしまったのが現代ですから、それを前にして「あなたは自由ですよ」と言われてもとほうにくれる人は多いに違いない。そこで文学探索の道筋のようなものを少しでもお見せすることもまた必要ではないかという気がします。私がこのところ目指しているのも、結局その道案内なんですね。(『世界は文学でできている』P100)

そう、「文学って面白そうだけれど、どういう人が、どういうものを、どう書いているの」と思っている人には、実にありがたい道案内。
ちなみにカノンというのは、上の引用部分の1ページ前に、「ある時代に読むべき価値ある古典と見なされているものの総体」と定義されている。

どうも私は読了本について書くと、読み終わって興奮した勢いでダラダラした長文が「あしひきの山鳥の尾のしだり尾」のようになるので、きょうは2冊同時に読み進めていて、半分ずつぐらいのところにさしかかった連続講義録を紹介してみることにする。

左の『世界は文学でできている』は、JPICという私がお世話になっている財団法人が主催、古典新訳文庫で波に乗りまくる光文社が共催、東大文学部現代文芸論研究室が協賛で行われた「<新・世界文学入門>沼野教授と読む世界の日本、日本の世界」という連続講演を元に再構成されたもの。
こちらのコンテンツは、
(1)越境文学の冒険…リービ英雄×沼野充義[2009年11月/光文社]
(2)国境も時代も飛び越えて…平野啓一郎×沼野充義[2010年1月/京大会館]
(3)「Jブンガク」への招待…ロバート・キャンベル(さっきBSプレミアムで芭蕉の番組に出てた)×沼野充義[2010年2月/神戸商工貿易センタービル]
(4)詩を読む、詩を聴く…飯野友幸×沼野充義[2009年11月/東京大学]
(5)現代日本に甦るドストエフスキー…亀山郁夫×沼野充義[2010年5月/東京国立博物館平成館大講堂]
私は(1)と(5)を生で聴いている。

右の『やっぱり世界は文学でできている』には、紀伊國屋書店とリブロ池袋によるイベント二つも含まれているが、他の四つがやはり同じ主催・共催・協賛で、コンテンツは下記の通り。
(1)あらためて考えるドストエフスキー…亀山郁夫×沼野充義[2012年3月/紀伊國屋ホール]
(2)「美しいフランス語」の行方…野崎歓×沼野充義[2012年4月/池袋コミュニティ・カレッジ]
(3)「世界文学」の始まりとしてのアメリカ…都甲幸治×沼野充義[2012年10月/東大本郷法文2号館]
(4)太宰とドストエフスキーに感じる同じもの…綿矢りさ×沼野充義[2012年9月/光文社]
(5)日本語で書く中国の心…楊逸×沼野充義[2012年11月/明治大学紫紺館]
(6)母語の外に出る旅…多和田葉子×沼野充義[2013年2月/東大本郷法文2号館]
私は(6)だけ生で聴いた。

当初、これから文学読みの海へ漕ぎ出そうという中高生向けに企画された連続講義は、私の今働いている世界でも同様、結果として「中高年」で大にぎわい的状況を呈し、この先にも続いている。
先般は、谷川俊太郎氏と、谷川氏(ん?「谷川詩」と言うと簡潔)作品を中国語に訳している詩人・田原氏を招いての講義が新宿は安与ホールで催されたので聴いてきた。

正直、文学の門前にいて、ここに出てくる固有名詞のほとんどが分からないという人には、もしかすると十分に楽しめない内容かもしれない。
ただ、夏目漱石作品を一つとしてきちんと読み通したことのない人であっても、その名前ぐらいは聞いたことがあるだろうし、日本文学を代表する作家というぐらいは知っていると思うから、彼が英語のとてもよくできた人であり、漢籍の素養深く、漢詩が作れたため中国語もできた人なのだというエピソード(『世界は文学でできている』P16)には「へえ」という発見があるのではないか。
そういう種類のエピソードがいくつも出てくるから、学歴の高いタレントさんたちが難しい漢字問題を解いたり、地歴の知識を披露している番組を見る時間があったら、たまには、こういう刺激をいっぱいもらえる本を読むのもいいんじゃないかと思いますですよ。

「文学が何に資するか」という価値を明確にする必要があるかどうかは知らないけれど、いろいろな作家が書いた多様な社会や、多様な人びとが頭の中にいくつかあると、
「自分が直面している、この情けない問題は、あの小説のあの設定に似てやしないか」
「この小悪人は、あの悪漢に比べたら、かわいそうなぐらい小者かも」
「この人の思いやりは、数年前に読んだ作品の聖女を思わせる」
「子どもの無邪気さは、こんな世界の果てでも共通するものがあるのだなあ」
などと、現実とフィクションの往還ができる。その面白さがしょぼかった一日を豊かなものに変えたり、へこんだ気持ちを浮揚させたり、明日への元気をもたらしてくれる、私の場合。
だから、文学と沼野先生に感謝!!!
そして、作家や翻訳者、出版人、情報をもたらしてくれる読書人たちにも感謝!!!

(ごにょごにょ…単位互換制度があるようなので、「現代文芸論研究室で何か講義を受けさせてもらって2単位♪」と甘いことを考えついたのだが、どうも専攻が違うと、よっぽどの理由づけや意欲でもない限り難しいみたいだ。ムリだろうなあ)

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

【No.1392】冬の子どもの本


12月中のおはなし会で利用した大型絵本を図書館に返しに行った時、『楽しいスケート遠足』という小学中級以上向け童話の背が目に入り、借りてきて読んだ。お話を書いたオランダ出身の作家が挿し絵も描いていて、その味わい深い絵が、15ミリ幅の背の部分にも見えるようレイアウトされている。棚差しだったが十分なアッピール。

オランダの国じゅうの運河や水路が凍りつくと、村から村へ町から町へ、スケートやそりで移動できる「氷の道」ができる。だから人々は便利に行き来するし、テントを張った飲食店も出る。少し昔の時代のうらやましい楽しみの世界だ。

原書は1934年にアメリカで出て、ニューベリー賞銀メダルに輝く。そして、しばらく入手しにくい状態が続いて、1994年に復刊。それを訳者のふなとさんが、不思議な縁で訳すことになったという。
ふなとさんは、この童話翻訳ののち、2011年に絵本『ピートのスケートレース』を訳しているが、それもオランダの運河でのスケートの話。ただし、そちらはナチス迫害を避けるため、ユダヤ人の子を主人公が庇護してくれる人の元へ送り届けるという社会性強い内容であった。

『楽しいスケート遠足』はエルスト村の16人の子どもたちが、先生に引率されてスケート遠足に出かけた日の話で、スケートシーズンならではの風物や、行く先々で出会った人々との交流、いくつか起こる事件などが書かれている。随所に美しいフルカラーの挿し絵、いきいきした動きのモノクロのさし絵があしらわれ、それが助けとなって、外国の古い時代の物珍しい体験が、まるで自分もしてきた体験のように感じられる。

氷が割れ、子どもの一人が冷たい水の中に落ちてしまう。それを近隣の親切な人が助けてくれ、そこから子どもたちに予期せぬ素敵な寄り道が待ち受ける。
辿り着いた町の小学校の生徒たちが出てきて、雪合戦が始まる。
せっかく来たのだからと立ち寄った15世紀の教会を見学しているうち、4人の子が置き去りになってしまう。
結構大変な事件が続けて起こるのだけれど、一日だけの遠足が子どもたちにとって何と大きく素晴らしい体験かと感心させられ、それを提案してサポートした先生の言動にも興味は惹きつけられる。

ちょっとした知識も得る。
木靴が水に強いこと、中にワラを詰めて防寒仕様にすること。オランダ国歌が世界で一番古い国歌だということ。
中身について書き過ぎた気がしないでもないが、読んでみないと題名にある通りの「楽しい」は実感できないだろうな。
オランダと言えば、過去に読んだチューリップ・バブルの本、小野伸二が活躍したサッカーリーグ、日本との交流の歴史、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏一家がデルフト近くに住んでいること等、いろいろ思い出せる。

私の滞在歴はトランジットのため、アムステルダムで一泊半日のみ。一ヶ所だけ観光できる時間があってゴッホ美術館に行った。泊まった民宿は実に快適でコストパフォーマンス高く、朝食が充実していた。しかし、夕飯のために入った運河沿いのレストランで危ない目に遭う。
一人で店をやっていたエジプト人男性が他のカップル客などを追い払い、「準備中」の札を入口に出し、窓のシェードを下げ、食事している私の横に座ったのである。少し会話して、それでつまり国籍を知ったのだが、ただならぬ雰囲気にて、うまくかわして逃げてきた。学生時代のこと。これも「体験」には違いない。

ついでに、この本を読むきっかけとなったおはなし会用の大型絵本、今度使う予定のものも含めて3冊紹介しておく。私にとって定番で頼りになる絵本たちである。


『もりのおふろ』は、くりかえし話で幼児にとても読みやすい。ライオンがからだを洗っていると、ぞうがやってきたので背中を流してもらう、ぞうが洗っているとワニが来るので背中を流してもらう、という具合に続いていく。「ごしごし しゅっしゅ」という擬音でリズミカルに読み進める。「おゆを ざぶーん」という画面、「おふろへ どぼーん」という画面の愉快さ。そして「ごくらく ごくらく」で結ぶ着地の安心感が気に入っている。

『にんじんとごぼうとだいこん』は再話者が書いていないから編集部で文章を用意したのか、それでも妙な言い回しがなく、日本民話のこなれた再話になっていて、『もりのおふろ』同様、もう何回か、おはなし会の最後に読んでいる。すっきりくっきりしていてお茶目な和歌山静子さんの絵が良い。
これもお風呂ネタで、「冬だからあったまる」「冬においしい根菜、鍋やおせちで大活躍」という理由で冬季に使いやすい。おふろのあったまり方で、根菜それぞれの色が決まったという、ほら話。

『でんしゃでいこうでんしゃでかえろう』は、雪景色から始まるので冬の会に有難い。トンネルを抜けるたび、野原、谷、海など、冬景色が変わっていく。そして菜の花ばたけで終わる。ところが、終わったところから「かえろう」ということで、今めくってきたページを元に辿っていける。つまり、前からも後ろからも読めるユニークな絵本。
ずっと前、小さいお子さんが「前で見ていたら、本の中に入っちゃった」と言っていた。
須賀敦子の著作に『本に読まれて』という題名があるが、絵本や挿し絵が多い童話は『本に飲みこまれて』『本に吸いこまれて』が容易にできてしまうのだ。それもまた、「体験」。

テーマ : 紹介したい本
ジャンル : 本・雑誌

【No.1391】教師の本

私は仕事運がいまひとつの人間だ。
自分で「これは好きだから意欲的に取り組める。自分に合っている」と思える仕事にせっかく出くわしても、いろいろな障害があって、「その道ひと筋」という感じで取り組めてはこれなかった。その運は、これから何とかして体と頭の働くうちに取り返したい。

しかし、小さな頃から教師運というのが驚くほど良い。
ざっと思い返すだけで「あの先生、素敵だったよね」という先生が大勢いる。
ちなみに私は、いい先生ばかりを揃えている名門大学附属小からずっと持ち上がったというような教育環境にあったわけではなく、昭和40年代から受け始めた学校教育では、あちこちの地域を転校して回った。
実は今日もちょうど、半分ぐらい「めんどうくさいな」と思いながら血縁たちと話をしている折、話題がないので、「自分が教わったあの先生は、こういう風に素敵だった。今になって、自分の興味関心は、あの時に形成されたのではないかと感謝している」という先生に関する前向きな話をし、その場を何とかやり過ごしていた。

十数年前に、中学2~3年時にお世話になったМ先生から年賀状が届いた。たまたま出かけた同窓会で、先生の気分が帰り際に悪くなられたから、東京に帰るために方向が同じだった私がご自宅最寄り駅までお送りしたのだ。最初にもらった賀状は、そのお礼であった。それからずっとやりとりが続いていて、今年の賀状には「古希になります」と書かれていた。誕生日を知らないから、バレンタインデーにでも何か贈るしかない。
それにしても、10代半ばの私たちが教室にいた時、この先生はまだ32~33歳ぐらいだったのかと驚く。

昔のこと、クラスのうちいくつかの家庭は、公立の先生宛てであっても、お中元・お歳暮を贈るという習慣があった。恥を忍んで書くと、我が家でも母親が気をきかせ、確かサントリー・ローヤル5,000円也を最初の夏に贈った。したところ、しばらく経ってM先生からLPレコードが2枚送られてきた。当時LPは1枚2,500円である。
忘れもしない、それは一大ブームとなった映画「かもめのジョナサン」サントラ盤と、ナナ・ムスクーリのベスト・アルバムであった。
「公務員なので受け取るわけにはいかないから、以後、お気遣いなきよう」という趣旨の丁重な手紙が添えてあったようだ。母親は、「先生が自腹を切って返礼をするような真似をさせてしまい、大変に申し訳なかった、愚かだった。それにしても、何と清廉で立派な先生だ」とひたすら恐縮、感激していた(この思い出は、古希祝いの手紙に書かねばなるまい)。

子ども心に強烈な印象を残すエピソードであるが、実は、こういうエピソードが他の先生に関しても、いくつもある。それだけで果報者なのであるが、学校教師のみならず習い事の指導者運もまたいいし、嬉しいことに、息子もまた先生運、コーチ運、指導者運が滅法いい。それがまた私にとっても貴重な財産となっている。

ところが最近、ある教育現場に立ち会っている際、とても残念なことがあった。
先生たちが子どもたちに指導している際、どうも子どもたちに落ち着きがなくなった。それも仕方ないことで、先生たちの「やる気」があまり感じられない時間帯が続いていた。
今、問題になっている「困った子」が中にいた。先生が話をしている間、何度も大あくびをしたり、きょろきょろしたり、椅子の上で体育ずわりをしたり、ポケットから何かを出したりという調子で周囲も徐々に引き摺られ、どんどんその輪が広がっていくという救いがたい状況を呈していた。

あまり気になったので、「ああいう局面で、子どもたちの気分を変える一言とか体を動かさせるとか、何か取り組みをして集中力を戻せないのか」と尋ねた。何せ私は、そんなひどい状況を、かつて目にしたことがなかったもので。おはなし会で落ち着かない子が出てくると、そういう工夫をしているもので。僭越ながら……。

すると、ある先生が「何が問題なんですか」と訊く。
「はあ?」と目が点になってしまった。
「何がって、そりゃ(あんた)、人が話している前であくびしたり、伸びをしてみたり、きょろきょろしたり、その雰囲気が周囲に伝染しているのに気づかれませんでしたか」と聞き返した。

「椅子から立って歩いてはいませんでしたよね」……と、先生。
「立ち歩いていなくても、集中させる工夫を講じないと、一種の妨害行為じゃないですか、あれ」と食い下がる。
「でも、あれ、今の教室って、だいたいあんなもんですけど」と言われ、もうあぶく吹いて卒倒しそうになった。

あれが日常なのかよっ!?

「申し訳ないけど、私は今まであんなひどい様子を見たことがない。子どものせいでなく、何かしら工夫するのが教師の務めなのに、それを怠っているのではないか。ざけんじゃない、あんた、何とか考えろよ!」とは声を荒げなかったが、それと同じ内容をできるだけやんわり伝え、お知恵とお力を貸していただくように頼み込んだ。

ここに挙げた本のほか、たまたまその前から、素敵な実践をしてきた教師の本を何冊か読んでいたこともあり、もう現実と理想の乖離たるや、戦時と平時の差に等しく思えた。

尾木ママとして知られる教育評論家・尾木直樹氏の『教師格差』は「ダメ教師はなぜ増えるのか」というサブタイトルが過激だけれど、教師をめぐる社会状況や教育行政の分析をし、教師崩壊がなぜ起きてしまうのかを冷静に説明、それでいながら、現場で一人きりで闘わざるを得ない教師の姿に愛情を寄せて書いている好著である。

アメリカやフランスのように教えることに特化されず、「校務分掌」という形で、児童生徒の生活指導や教室のそうじ、各種行事、事務作業まで広く器用にこなさなくてはならない日本の教師の特殊性を指摘する(P109-110)。また、高学歴社会、高度情報化社会になり、社会全体の文化水準や知識、情報水準、学力水準が上がってきているため、相対的に教師の地位が低下していることも指摘する(P64)。それに加え、「教員評価システム」が、いかに同僚や職員一同で支え合っていけない状況を作り出しているかという問題もあるという。

新しい進学校として定着した海城高校や公立中学の教師経験がある尾木先生が分かりやすく鮮やかに説明してくれる、今の学校の悲しすぎる実態(初版は2007年6月であるが)。それに対し、教師のバイブル大村はま『新編 教えるということ』や灘校を名門に育て上げた立役者、伝説の国語教師・橋本武による『<銀の匙>の国語授業』など、熱意が現出した教室は奇跡のような理想郷だ。

人と人が出会い、共に学び、共に「より良さ」を求めるからこそ未来があり、希望の光が射すのだということ、そこに社会や国家、民族、ひいては人類の明日がかかっているのだということを、教育の本を読めば読むほど実感させられる昨今である。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

【No.1390】意思の力で切り拓き、そして征する

暮れの仕事納めの日に書店に寄ったら、岩波文庫の棚に昨秋新訳で出たばかりの『ジェイン・エア』が上下巻面陳してあって、「いらっしゃい、いらっしゃい。いつもより少し長いお休みなんだから、読む時間を作れるんじゃないの? この世界名作は取りこぼしているでしょうが」と呼ばれる。
上巻の装画がチャールズ・ウェスト・コープ「黒板をもつ少女」、下巻がジョン・エヴァレット・ミレイ「霧に濡れたハリエニシダ」なのだが、ミレイ好きということもあって別れ難かった。
孤児となった少女が学問を修め、家庭教師として自立していくというぐらいの筋の流れは知っていた。苦難を乗り越えて先に進む女性の話というのが、これからの自分へのエールになりそうだと直感できた。

ヴィクトリア朝に当たる1847年刊だから、ざっと200年昔の小説だし、10代の女の子の心理描写が多い作品など、50を超えた自分がどれだけ楽しめるものかとも思ったけれど、「すげっ!」と興奮し、久しぶりの劇的な物語にときめき、気づけば上巻読了で大晦日が終わり、新年がはや50分過ぎていた。

両親が亡くなったため伯母一家に引き取られているジェインが、今風に言えば虐待を受けているところから物語は始まる。伯母には「いい子じゃない、かわいくない」と言われたり、おしおきで怖い部屋に閉じこめられたり。いとこたちは冷淡で、特に男の子は殴りかかってくる。精神的虐待と身体的虐待で深刻な状況だ。

子どもというものは、感じることはできても、その感情を分析することはできない。思案の末、少し分析に成功したとしても、その結果を言葉に表す術を知らないのだ。しかしながら、人に伝えることで悲しみを和らげることのできる初めてで唯一の機会を逃すまいとして、黙ってあれこれ考えたあと、貧弱ながら、できるだけ真実の答えをまとめようと頑張った。[上巻P42]

このような客観的で内省的な一人称の語りが信頼できるものであることにも引き摺られたが、次のようなヒロインの性質に、自分と共通するものがある気がして、何か嬉しく読み進めた。

これから先、あなたは自分から望むわけでもないのに人から秘密を打ち明けられることが多くなるでしょうから、そのつもりでいるといい。自分のことを話すより、相手の話を聞くのが得意な人だと、誰もがわたしと同じく、直感的に悟るからです。[上巻P269]
これは、寄宿学校から出たジェインを雇った屋敷の主人が口にした言葉である。

ジェインの人物像に惹かれ、そのけなげさを応援しながらの読書だったが、彼女の最大の魅力は、「留まるべきか向かうべきか」「従うべきか抗うべきか」を強靭で柔軟な意思により自分で決め、次々と行動していくことだ。
決断は無論、いざという時のものだけれども、そこへ向けて力を蓄えるため、日々、なすべきことに真摯に取り組む。
下巻になると、意思の力が切り拓くだけでなく、思いがけない偶然や幸運が増え、物語の都合よさが意識されたのは残念な気もした。それは翻訳者も指摘するところだ。
だが、そこで児童文学に造詣の深い脇明子氏の次のような言葉が思い起こされた。

お人好しな正直者は、自分の利害に無頓着なことが多く、現実社会ではたいてい損をする側にまわりますが、天の恵みというものがごくたまに降ってくるとしたら、そういう人にこそ降ってくるのではないか、というのが、私たちのごく自然な考え方ではないでしょうか。[『物語が生きる力を育てる』P33]


決して「すべて善し」のハッピーエンドではなく、むごい状況の変化も待ち受けているものの、世界文学には珍しく、嵐の翌日の快晴のような穏やかな結びが待っている。それがまた、新年を穏やかに迎えられた気分にうまく沿うもので有難かった。

テーマ : 読書感想文
ジャンル : 小説・文学

【No.1389】静かな冬のエアポケット

あけましておめでとうございます。
気軽にメッセージを残せるツイッターがネット上の主な活動場所になり、ブログはすっかりご無沙汰となってしまっていました。

それなのに、今朝手にした年賀状の中に、「ブログもっと書いて!」とメッセージを送ってくれた人がいました。
「そうだよね。140字ぎちぎちいっぱいのつぶやきに情報を盛り込もうにも無理がある。感銘を受けたことをうねりある長文で書いていきながら自分をそこへ投げ出し、感銘を強める気持ちいい営みから離れてしまっているのは良くない」と思え、各回そこには至らないまでも、「本」「人とのやりとり」「音楽会や映画ほかのアミューズメント」等の対象から受けたものを再び少しずつ書きつけていこうかと、久しぶりにログインしました。

最近、読む本のジャンルが変わってきています。
実は、この春から、働きながら「子ども」「人間の発達」などを学んでいくことになりました。そのためです。
これから本について書くときは、子ども、保育、教育、子育て支援、読書支援、絵本や童話、人間発達といったキーワードで拾えるものが多くなっていくように思います。しばらく海外文学や海外小説が好きで読んでいましたが、フィクションを手に取る際も、そういったキーワードにひっかかるかどうかが「読む」「読まない」を分けていくことになりそうです。

昨夏、物は試しで受けてみた、びっくりするぐらい天井の高い難関に受け入れられました。信じがたい結果でした。
家事や読書支援活動と非常勤の仕事を回していくのに、ひいひいしているというのに、あるいは、高齢の母の生活支援を今後どうしていくかという点も気になるのに、夜間やら週末に講義を聴きに行ったり、論文を書くための研究活動をしたりなど、とても続けていけるとは思えません。
ただ、それまで考えてもいなかった視座を得て、物事を新しい切り口で眺められるようになるという知的興奮は私にとってかけがえのない大きな喜びであり、楽しみであり、その学びにとって望ましい環境に飛び込めることは、人生後半の大きな財産になるはずで、諸々に抑え込んでいる自分を自分らしく生かしてやるのに大切なことです。
多少の無理がかかっても守っていきたいものです。応援してください。

きょうは、12月のおはなし会で取り上げたグラフィックの美しい、静けさをたたえた絵本を一冊紹介します。
作家は東京芸大卒業後、スウェーデンの工芸大学を経て、ミラノでイラストレーターとして活躍してきた、こうのあおいさん。
1972年にイタリアのエッメ出版で刊行され、2004年にコライーニ社から復刻された『ふゆ』です。


ほとんどのページが白と薄いグレーの世界。雲、雨、降る雪といった水蒸気が白地の上にグレーで表され、やがて積もった白い雪原で木々、動物たちの足あとがグレーで表されます。
最初は2つだけの足あと、それが連なっていき、別の足あとと交錯し、多くの足あとが乱舞。そして華やかな、しかし、茶色や黄色、橙や青など色数が控えめに抑えられた最終画面で、足あとの主たる動物たちが登場します。
言葉も禁欲的なまでに抑えられ、音を吸い込んでしまう静謐な雪の山の世界が再現されています。

じっくり絵を読めるお子さんでないと、読みきかせには、ちょっとチャレンジな感じでした。
静かな世界に入りきれなくて、落ち着かずきょろきょろしてしまう子もいました。直前に、どういう本を読むかというプログラムにも関わることなのですが……。
付き添っていた親御さんたちが、「ちょっと静かにしてて」と子どもたちに目で合図するようにして、その静かな世界を楽しんでいるような実践になりました。そういう読みきかせも、意図するところではあります。
絵本で子育てを楽しんでいる親御さんたちに、小さな宇宙たる芸術世界にひととき入り込んでもらえ、生活にちょっとしたエアポケットを感じてもらうことができたら、それはそれで実に嬉しいことです。

テーマ : 読み聞かせ
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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