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【No.1387】食欲のあまりない多崎つくると、彼の朝食のふやけたトースト

新作の内容がどうなのかということより、村上春樹という作家は、「彼が今、小説を書いて何をしようとしているのか」が気になってしまう作家。

偶然なのか当然なのか、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む直前に山中康裕『子どもの心と自然』を読んでいた。
山中氏は京都大学に心理療法家として勤務し、河合隼雄の仕事を継いだ研究者。単なる後継者というのではない。同書の中にもユング心理学について独自の解釈があり、面白いことに、その解釈が「多崎つくる」を読む私に、とてもよく響いた。
偶然、直前に読んでいただけなのかもしれないが、先進諸国の人びとが「心の故郷喪失者」として高度産業社会化やグローバル化に対応していかざるを得ない現状を見据えた時、本好きな人間のひと握りが心理学に一定の解釈や打開策を期待して手を伸ばすのは当然のことにも思える。
言うまでもなく、村上春樹という作家は、そういうところに早くからアンテナを張っている、稀有で鋭敏な感覚の持ち主だ。

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)という対談集があるように、作家はユング心理学の泰斗から多くを学んだ。
意識と無意識の関係、物語が人間の心にもたらすもの、宗教や哲学の意味、傷ついたり歪んだりした心を回復する仕方等について専門家の意見をじっくり聞き、二人で心理学と文学という切り口から人の心のありようや不思議について語り合う――それは創作活動の上で、大切な一つの糧とされてきたはずだ。
先般、18年ぶりに一般読者向けに語ったという講演会でも、河合隼雄氏との対話がかけがえのないものだったというカミング・アウトがあったと聞く。カミング・アウト――私は今、この用語を故意に使った。

読み始めてしばらく、「多崎つくる」の物語は『子どもの心と自然』の姉妹編か関連書かと思えてきた。心理的問題の解明や心理分析のように、人物の内奥へ内奥へと丁寧なガイドが行われ、われわれ皆の無意識下に眠る「普遍的無意識」という人類の共通遺産の層へと、魅力的な旅の世界が展開していったからである。

山中氏によれば、ユングは人間の無意識が層をなしていると指摘した。個人的無意識の深いところに「普遍的無意識」があるというのである。フロイトが神経症論で注目したところの、意識の中で都合悪いものの捨て場となった「無意識」ではなく、さらにその層の下にあるのが普遍的無意識で、その層と、私たちの日常的な意識の間に、通常は連絡がない。
しかし、「意識」と「普遍的無意識」との間には通路が二つあり、一つが「夢」、いま一つが「神話」。山中氏は、夢と神話の2つの方法で普遍的無意識が意識され、論じることも可能になると言う。

理想的な人間関係のユニットに収まっていた人物が、ある時、突然に理由も告げられずそこから切り離される。それがきっかけで常に死を意識する辛い状況に陥れられてしまう。何やらしんどいところから始まる「つくる」の物語には、「夢」と「神話」という普遍的無意識への二種類のバイパスがいろいろなエピソードで出てくる。
夢は、性欲を持て余し気味の若い男の子が、目覚めた時に「何であんな夢を見ちまったんだ。オレって、もしや変態?」と恥じる類いのものであったり、「お願いだからもう一度、同じ夢を見させてくれ」と、寝覚めの爽やかさがいつまでも続くことを願うようなものであったり……。
神話風の物語内物語も、ネット上のどこかに素人が書きつけたにしては妙に印象強く跡を引く的な様子で書かれていて、古代信仰やゴシック幻想に安っぽい都市伝説も混ざったような乗りもある。
ネットでありとあらゆる場所に導かれていく現代にあっては、どのエピソードもどこかで目にしたような「ありふれた」感がある。日常的に、ごく身近に感じられるものだ。

「エピソードがありふれている」と文句を垂れているのではない。ありふれたように、ともすればチープにも受け止められるように書かれているのが面白い。そのチープさは、多くの人びとの生活にしっかり根を下ろしている。
チープさが重なったとき、「こんなにつまらない、わが日常」という自覚や諦念があったにせよ、それはその人にとってまぎれもなくかけがえのない実存となっている。

昔、ある男性に、男には2つのタイプがあるという見解を聞いた。すなわち、「一人の女性に、多くの女性を重ね合わせて見る男」と「多くの女性の中に、一人の女性を見る男」と……。
こんな小説ネタにもなりそうなチープなことを書いてしまうと、何やらもったいない気もしないではないが(笑)、つくるの物語は、ある日のあの人の言葉を思い出させたのだから仕方ない。

この小説は、前者のタイプだとでも言おうか。多崎つくるという悩み多いウェルテルの中に、そして、彼と彼を取り巻くエピソードの中に、読者は多くの老若男女を重ね合わせて見る。
『若きウェルテルの悩み』を借りての表現を、ただいまは試みたが、ファンタジックな味も取り入れながら、この小説からはどこか日本的私小説くさいものも匂ってくる。
「今までにない新しい文学」として賛否両論だったデビュー作『風の歌を聴け』を昔むかしに読んだときにも、「新しい、だけどどこか私小説?」と感じたものだ。体験に基づいた身の回りの「ちまちま感」が旧来と同じで、そこから湿気を取り除いたような小説だという印象を抱いた。
つくるの話は、逆に、『風の歌を聴け』にはなかった湿気が取り込まれたような気がしてならない。湿気と称するものの正体がよく分かっていないが、それはもしかすると、村上春樹が、人物の内奥へ内奥へ、自分自身に深く深く、と穴を掘って下りていくうち、土からじんわりしみ出した水分が、まとわりついてしまった感触である。

アカ、アオ、クロなんて、ポール・オースター『幽霊たち』みたいな名づけだよなあ……と考えて読んでいるうち時間が経ち、さっきまであまり食欲がなく食べられそうになかったトーストを、食べられそうな気分になってくる。しかし、その日は表がどしゃ降りの雨ということもあって、目の前のトーストはすっかり湿気を含んでしまった。ぶよぶよになってしまった。ぶよぶよでも口に含んでかんでいれば、かりっとしたトーストと同じ小麦粉の味がしてくる。
 
冗長な言葉遊びで焦点を曇らせていても何の足しにもならないが、言いたいのは、私たちの日常意識が「夢」や「神話」とくっきりした対比を見せなくなったのは、「夢」「神話」によって育まれるはずの閉鎖系としての「普遍的無意識」が十分に耕されなくなってしまったというニュアンスの山中氏の問題意識である。

小説というのは、作家という非凡なる人、時にその狂気を帯びた知性が夢見る妄想なのであろうが、彼らが紡ぐ白昼夢や神話的ほら話に浸るしばしの時間は、日常意識ではなく、私たち個人の無意識にも、皆で共有する普遍的無意識にも思いの他の作用をもたらす。
日常意識を離れ、閉鎖された他者の妄想世界に遊ぶ時間は、日常意識と区別されるものであるからこそ、日常意識の健全なありようを支えるのである。
村上春樹の新作は、多くの人にありがちな日常意識と妄想を書きながら、「普遍的無意識」を地味に耕し、日常意識のバイアスや暴走を物語の力で抑止しようという意図の下に書かれてできたのだろうか。そういう意図があったのか、あるいはその意図が意識されていたのか無意識であったのか、知るよしはないけれども……。
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テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
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