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【No.1375】2012年、読めて幸運だった本


マーセル・セロー『極北』(中央公論新社)とレオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』(国書刊行会)の2冊は、ファンタジーだということが分かりやすい共通点で、前者は現代のSF文学であり、後者は60年前に書かれた古風な香りの幻想歴史小説。どちらも想像力の「涯て」を極めている気がしたので並べてみました。
『極北』は全米図書賞やアーサー・C・クラーク賞の最終候補に残ったそう。『夜毎に石の橋の下で』の方は世界的な再評価が進んでいるということです。だけれど、日本では新刊として割に渋めの受け止められ方だったような気がします。そういう地味さ加減だと、読んだ後に他者の見解で自分の本の印象が改ざんされる可能性が低く、有難いと言っちゃ有難いとも言えます。

『極北』は村上春樹訳だからなのかなあ……。
「村上さんは小説でどえりゃあ儲けているから、翻訳ものまでリスペクトする必要なし」という経済バランスのためのブロックが、市場の仕掛け側(出版社群や評論家などで成り立つ業界)で働くのでしょうか。私は『海辺のカフカ』あたりから村上春樹の小説は読まなくなってしまったけれど、訳業もとっても素晴らしいですよね。『極北』も安心して身を預けられました。
この本は説明するとまずいだろうから、どうでも良い話ばかりしています。
少しだけ内容に触れます。「うそだろ?」という読者裏切りが最初の方で二度あります。驚かされます。文句なしのエンターテインメントでありながら、東日本大震災を境に、近未来SF世界のような社会を内包することになった日本では、深い傷跡として残る読書です。だからこそ尚さら、読む体験が貴いもののように思えました。

『夜毎に石の橋の下で』は題名で感じ取れる通りセンス抜群の洒脱な小説です。愉快さもあります。読んだ後、何か自分の品が増したような気にさせられます。錯覚です(笑)。
身分のある男女、しかし結ばれることが許されない男女の悲恋が16世紀の魔都プラハを舞台に繰り広げられ、その背後にある秘密が終盤明かされるのですが、「人間の想像力って何て美しい」とため息が出ました。大人のための上質なおとぎ話です。


小説読みのために捧げられたような2冊が、ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』(新潮社)とアン・マイクルズ『冬の眠り』(早川書房)です。人生の円熟、小説の職人としての円熟に達した作家たちによる馥郁(ふくいく)たる文学作品。
『終わりの感覚』は出たばかりなのですが、ネット上で見つけた若い人のコメントは、年配向けで今ひとつ面白みが分からないというようなものでした。先ほど、ぱらぱらと文章を拾いながらの再読をして、「確かに、この本、教養のベースとまではいかなくとも、ある程度物を知っていたり察しがついたりしないと味わえないのかもしれない」と思えました。
若い日々への悔悟がサスペンス仕立てで明かされていき、筋に癖がなく、文体や構成に実験性もなく追っていきやすい物語です。ただ、語りの中に、主人公の人格形成に役立った思想や芸術、文化などが織り込まれているところがあり、それが独特の情感をかもし出す働きをしています。そうしたコードに反応できなければ、楽しみも半減かもしれません。
謎解きのように現れる小説的真実が最後の方にいくつかあります。そのことごとくがショッキングで物悲しく、思いのほか早く年を重ねてしまったと感じる昨今の私には共鳴の度合いが大きすぎ、気が遠くなりました。

『冬の眠り』は、ここに注がれた作家の思いの深さとエネルギーの大きさに圧倒される堂々たる文学の逸品です。歴史と空間というスケールの広がり、丹念に編まれた言葉と構成、深い思索に基づく文明観や自然観などを前に、全身全霊で読み解いていくことを求められました。強烈で甘美な読書体験ができました。


表紙が黒く、装丁に工夫があるので並べてみたのがカルロス・フエンテス『誕生日』(作品社)とカフカの名言集『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社)です。と言うのは半分冗談で、時代を経ても古びない前衛的なものとして、足を踏み入れたら最後、ずっともてあそばれてしまう迷宮的なものとしてのイメージでくくってみました。
しかし、『絶望名人カフカの人生論』はむしろ、そういうカフカ作品への先入観を取り払おうとする企画の本です。不条理で、ともすれば分かりにくいとも受け止められるカフカの小説ではなく、彼の書いた手紙や日記の中から、現代人の生活感覚にも響く言葉を集め、カフカ研究者である頭木弘樹氏が編訳を試みました。
名言を挙げるだけでなく、それを発したカフカがどういう状況に置かれていたのか、どういうつもりでそんなことを書いたのかといった説明が加えられています。
私が入手したのは初版本ですが、若い層に大きな反響をもって受け入れられ、版を重ねたようです。自分が読んで楽しむと共に、好きな作家がこういう形で次の世代に読み継がれていくことを嬉しく感じました。

「ミルクのコップを口のところに持ちあげるのさえ怖くなります」(P28)という表現がありますが、これに関して私は頭木氏と解釈が少し異なります。「ささいな行為の間にでも、どういう不幸に見舞われないとも限らない恐怖」というものも確かにあると思いますが、鬱的な症状が昂じてくると、起き上がったり歯を磨いたりするのもだるく感じることがあります。そのように行動しようとする自分を、世の中の誰一人とて理解してくれない、必要としてくれていないと思えたことがありました。そういう自己否定感に引き摺られる恐怖が、ここに読み取れました。
さらに言うなら、そのような鬱状態は環境不適応からくるものばかりではなく、人間という個体の存在に影として常につきまとうものなのかと思えます。それは常に用心深く管理していくべきものです。
もしかするとプリンセスも、この管理の仕方に問題を抱えているのかもしれません。

前後しましたが、『フエンテス』は内容が説明できるはずのない実験的小説です。読んでいるうちに脳みそがメビウスの輪のように奇妙なねじれ方をしていく感じがありました。ツイッターに興奮して書き込みをしましたが、久しぶりにぶっ飛べた小説で、識閾に迫ってくるものがありました。それが全身の感覚を麻痺させるのです。薬物が体に入ると、ああいう感じなのでしょうか。
言葉の連なりで不思議な体感経験ができ、面白い読書体験となりました。


イレーネ・ネミロフスキー『フランス組曲』(白水社)はナチスドイツにより連れ去られた母親の原稿を、逃げのびた子どもが保存し続けており、60年以上を経て出版されたという奇跡の未完小説です。
もし完結されていたなら、ここに描かれた女性がスカーレット・オハラやアンナ・カレーニナ、マノン・レスコーのような世界文学史上に残るヒロインになっていたのではないかと思え、とても残念でなりません。この残念な思いは、隆慶一郎『見知らぬ海へ』という、世界を股にかけるはずだった海賊小説以来のものです。残念だったけれど、読めないよりは読めて良かった。
「フランス万歳!」「レジスタンス万歳!」として語られることの多いフランスの現代史を、新たな視点で見直すこともできる大きな価値ある作品でした。






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テーマ : 漫画
ジャンル : アニメ・コミック

【No.1374】足の指を洗いながら

先ほど、風呂で足の指と指の間を洗いながらつらつら考えていた。
どこかで「専門的関心」だったか「専門的興味」だったかという表現を見かけた。これがやや、ささくれ立ったような感じを受けたので「なんじゃろなあ」と……。

その表現を使った人は、どうも「一般的」「日常的」、あるいは「下世話な」といったものから、自分のごく周辺に位置するものを囲い込みたい意図、限定したい意図があるのだと取れた。そこまでは分かる気になったが、ではかんじんの「専門的」という言葉が示すところが何なのか。それが、
・どこか曖昧で面白い
・日本語の持つ曖昧さ、ほのめかしのような独特なニュアンスを含んでいて味わい深い
と惹きつけられた次第。

専門。
これは教育機関や研究機関ならば「学術的」ということになろう。しかし、「ジャーナリスティックな」やら「論壇界隈で」といったものもありそうだし、「科学的」「芸術的」とも解釈可能。芸術の対極にある「商業的」というのも、一般や日常から区別される専門性はある。
となると、「オタク的」「偏執狂(パラノイア)的」なんてのもありだし「スピリチュアル」もありかと、とりとめなくなっていく。
さらに、「空想的」というのは専門性が感じられないけれど「SF的」とすればどうだ、専門性が出るじゃないかっ……と発見までした気になった。

そのぐらいに発展させていったところで、「やべ。足の指をこすり過ぎたのではないか」と心配になってきたものだから、洗うのをやめた。

足の指で思い出すのは、学生時代の男性の先輩(ちなみに現在、日本を代表する一流企業勤務)が、当時つき合っていた彼女との艶っぽい話を宴席でしていたとき、ふいにこちらへ「なっ、足の指、大事だろ」と水を向けてきたことだ。それに対し、「おいおい、またか。かんべん、かんべん」と一瞬ばつの悪い思いをしつつ、そういう話をひらりかわすのが苦手ではない自分がどうにかかわしたはず。しかし、どうかわしたのだったかを思い出せなくなってしまっている。
確かに当時も足の指は大事だと分かっていたが、それを客観的に確認させられたのが丸谷才一の小説『輝く日の宮』の記述だった。『源氏物語』読解の成果を盛り込みながら、読みやすく読みごたえある愉しい小説に仕上がっていて、そういう中であられもない性的なエピソードをけろりと入れていた。まさに名人芸。そういうエピソードこそが『源氏物語』を読み解く醍醐味なのだと教えてくれるかのように……。



足の指に関しては、さらに別の話もある。乳児だった息子を連れて公園デビューをしてからしばらく経ったころ、「ママ友」とまでは言えない「ママ知り合い」ぐらいに囲い込める人が、ある時言ったことが印象的だった。
ベビーカーの中の赤ちゃんをあごでしゃくるように指しながら、「わたし、きのう、この子の足の指と指の間を、ちゃんと洗ってやらなかった気がするの」と、さも困ったような、悔い改めるような不思議な表情をしたのだ。それに対し、自分がどう反応したのだったか。それも、すでにすっかり忘れ去ってしまったけれど……。

「子育て」「育児」というものは、それこそ一般的、日常的であり、且つ下世話な局面も多々あるが、ところ変われば学術的にも芸術的・科学的にも商業的にもなる。専門的に語り得る対象なのである。

そんなこんなをいろいろ思い巡らせてみて、くだんの「専門」という言葉の意味に戻る。それが受け手に託されている風だということ、「専門」と表現した人々を中心とし、周縁に当たる領域が遠ざかっていき一般化、日常化していく段階的なところで、中心にいる人が抱いている限定と、周縁にいる者が抱く許容への期待との間に乖離やせめぎ合いがあることを、ますますもって面白く感じたのであった。

テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

プロフィール

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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