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【No.1370】老いて語り得る昔むかしの古い話





「時は老いをいそぐ」ではなく「老いは時をいそぐ」が思い過ごしではない、ここ数年。1週間や1か月、1年すらが飛ぶように過ぎてしまい、まさに「光陰矢のごとし」。
自分がこういうシミや白髪が気になり、「あれ、あれなんだけど」と感じた言葉がすぐに手繰り寄せられない初老の女になってしまう日が来るのは、もっとずうっと先だと思っていたのに……。

そう情けなくはあるものの、しかし今さら、他の誰の人生でやり直したとすれば満足が行くのか良い考えが浮かばない身に、しみじみ響いてくる文章が2篇めの「ポタ、ポト、ポッタン、ポットン」にあった。
引用は、未読の人にとって先の出会いの喜びをそぐものと申し訳なくも思うが、書き出すことにする。

あんたは自分が賢いってわかっているし、そんなことは考えたこともないかもしれないけど、子どものときの記憶だと思ってるものは、もう大人になってからの記憶なんだ。そんなに昔のことは思い出せるもんじゃない。そのころ大人だった人の手助けが必要なんだよ。(P41)

体に痛みを抱えた初老の男性が、小さな頃に母親代わりを務めてくれた叔母の重篤で病院に駆けつける。
叔母に乞われ、ささやき声に耳を傾ければ、上のおしゃべりの後、これまで打ち明けられていなかった昔話が始まる。男性が5歳当時のことで、それは彼の一生を左右する叔母の発見であった。
叔母にしてみれば、大切な甥の将来を、輝ける光の中に送り出すことに成功した非常に嬉しい発見だったのだろう。しかし、病に倒れた彼女には、もはやその出来事を生き生き表情豊かに語る力はない。「けど死にそうだなんて思わないでよ」(P40)と断わりながら、かすかな声で、実の息子のようにいとしい甥の耳に語りかける。

幼い子どもは、まだ自分についての「昔むかしの話」を持っていないから、昔むかしの話を不思議なものとして面白く聞けるのかもしれない。
いつのまにやらうっかり年を重ねた大人は、自分自身の「昔むかしの話」を多すぎるほどに蓄えてしまったため、自分の話ばかりしようとする。世の中には、そういう大人が多くはないか。
自分の昔むかしの話を、まるで人ごとのように、誰にでも通ずることのようにうまく語れる大人なら、この話に登場する「叔母」のように煙たがられない。けれども、自分の経験したことが、さも重要なことだと押しつけるようにしゃべりたがる者はイタい。

『時は老いをいそぐ』は詩的響きに満ちた切ない題名だから、読む前から人は、タブッキという作家(和田忠彦という哀切が分かったイタリア文学者が訳したタブッキ)の魅力に吸い寄せられ、そこに漂う情緒をまといながらこの本をひもとき始める。
そして、タブッキが現代イタリア文学のみならず世界の現代文学においても得難い作家のひとりだと知っている者なら尚のこと、本書の文学的位置づけ、文学的価値をしっかり語ろうとする。そこで題名に含まれる「時」「老い」がタブッキ文学にとってどういうものなのかを解き明かそうという気持ちになるのだろう。

そのような読後の知的営みは、文学という世界において必要なものには違いないが、「時」「老い」によって得られるものを、自分の過去を振り返りつつ思い巡らせながら、すべての人の「人生の収穫」として全霊で読んでみるのが、この短篇集にはふさわしい。そのように感じられて仕方なかった。

身内や友人はじめ過去の自分とともに生きた人びとについての記憶、彼らにまつわる言及、そして過去の出来事への思いといった私的な部分の価値が、はっきりとどういうものなのかは説明されずイメージのように語られ、時という幾千、幾万もの場面のシーケンスの中に広がっていく。
そして、そうした私的な部分の価値を遠巻きにしながら、人間の遺産としての文学の数々の価値もまた、時のシーケンスの中に広がる。過去の文学作品を連想させる断片が、そこかしこに見受けられ、文学に生きたタブッキの「しるし」を確認させられる。
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【No.1369】アイスランド発、さすがに世界的ベストセラーのミステリ




本に巻かれた帯の惹起文句で、堂場瞬一氏が「警察小説」、大森望氏が「警察ミステリ」という言葉を使っている。カバーをかけていたものだから読み終わって気づいた。
海外小説が好きだが、それが文学かミステリか、SFか幻想物なのかをよく区別せずに読んでいってしまう。「そういや、警察の犯罪捜査の立場で書かれていた」と思い、ふっと高城高の「函館水上警察」が浮かんだ。と言っても、私が読んだのは『墓標なき墓場』(創元推理文庫)だけ。だが、「ああ、インドリダソンの世界と高城高の世界はとてもよく似ている」と、脳に麻酔がきいたようにくらくらしてきた。

寒さが厳しい北の荒涼とした景色の中で、叩き上げの犯罪捜査担当者が動き回る、身を粉にし……。はじめは、どこかで聞いたような事件の一つにしか思えないものが、小さな糸口からこつこつ調べ上げられていく。
「そこを調べるべきなのだ」という捜査官独特の勘が入口だ。ここで忘れてならないのは、その勘が生得のものではなく、捜査官として彼らが不断の姿勢で積み上げてきた能力のたまものだということ。

糸口はやがて事件の真実へとつながる手ごたえ強いロープのように彼らをみちびき、辿り着けた事実の前に、それが大がかりな組織的たくらみの一角に過ぎないことを知らしめす。強力な後ろ盾のない一捜査官であれど、一つの事件の解決で区切りをつけることなく、彼らは巨大なものへも臆せず挑んでいく。

インドリダソン『湿地』(東京創元社)を読み終えた時、「あばく」という動詞が何度も頭の中でひびいた。「あばく」という語は「人々に隠されたものを白日の下にさらす」という意味で、ピラミッドのような墓をあばく場合と、正体や陰謀のようなものをあばく場合がある。前者は目に見えるブツであり、後者は目では見えない。
内容をばらすわけにはいかないけれど、読み終えた人なら、「あばく」という日本語が、このミステリを象徴するのにいかにふさわしいものなのか分かっていただけよう。

インドリダソン『湿地』も高城高作品も、現場の叩き上げの人間がこつこつ地道に働き、そこで手を抜かず、注目すべきものを見過ごさないから成果がもたらされる。すなわち、真相があばかれる。
警察小説を意識して読んできていない私が言うのも説得力ないが、おそらく私たち読み手が警察小説に魅了されるのは、内外の作品を問わず、このポイントだ。地道に積み上げた捜査が、犯罪の真実を「あばく」。それも組織的な大がかりな犯罪の首ねっこを押さえ、それまで不当な利益を得ていた権威を失墜させる。

『湿地』は、しかしそのようなパターンには収めきれない真相に到達する。
いたし方ないと納得すらできてしまう犯罪をどう受け止めれば良いのか。「殺人」の加害者と被害者の罪の重さが反転して書かれ、人の内面の複雑さに心を千々に乱しながら、読み手たる自分の内面の複雑さにも気づかされる。

アイスランドのレイキャヴィクにある半地下のアパートで70歳前後の男性が殺されている。紙に鉛筆で書かれた、意味をなさないメッセージが残されている点が変わってはいたが、現場の痕跡を隠そうともせず、部屋の扉も開けっ放しにされていた不器用な殺人。
被害者はなぜ殺されたのか、被害者がどういう人物だったのかを捜査官のエーレンデュルが探ろうとすると、殺人のあったアパートから、人目に触れないよう、ひっそりと隠された古い写真が出てくる。人物ではなく、ある場所を写したものだ。
そして、被害者が過去にある罪を犯したかもしれないという可能性が浮かび上がってくる。

読みやすく、手に取れば「どうなるか、これから先、どうなるか」と一気に進んでいく読書だが、プロットが分かっていくことだけに満足させられる消費じみた時間にならないのは、読みやすい文体の奥に、深い広がりが感じられる小説だからだ。
犯罪捜査に並行し、エーレンデュルの私生活が描かれる。彼自身が抱える問題、彼の子どもの問題などが、アイスランド社会全体が倦む問題の一例として挙げられているかのよう。主人公の生活と彼の従事する仕事を通し、アイスランドの地理的条件、歴史、結婚と葬式、社会の病理科学技術の受容等が表されている。

本来、からりと乾いているべき場所が湿り気を帯び、不快な湿気やら害虫やら、地盤沈下などの問題の原因となってしまう。そういう土地は、人の暮らしに影を落とすに違いない。
揺るぎない大地で悠々と暮らす人びとに憧れながら、置かれた場所の不安定さに、気と生活を蝕まれ、吐息つく人の哀しみを、インドリダソンはミステリというジャンルの中で、こつこつと地道に表しているのだろう。他の作品の翻訳が待たれる。

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【No.1368】名画で追うキリストの生涯





昔、まだ文字だけでびっしりの本を読むのが苦手だった頃、挿し絵を追っていくのが楽しみだった。
幼年向けの童話が中高学年用の児童文学になり、挿し絵が数ページごとしか現れない本を読むよう勧められるようになると、ときどき出現する挿し絵のページが一時避難所のように思え、次の挿し絵はいったいどこなのだろうと探ったものだ。

後年、子どもの本を編集する仕事についた時、作家から預かったお話を一文字一文字写しながら、この見開きにはこれぐらいの挿し絵、ここには小さなカットというように、手作業で割付用紙にレイアウト案を作る作業をした時の何と楽しかったこと。
そして、こちらのイメージした絵などが及びもつかない素晴らしい原画が上がってきたり、「ここ、片側1ページより見開きでワイドにした方が効果的だから、上半分を使わせてもらったよ」などと、「さすが、納得!」のレイアウトが手練れの画家から手渡された時の喜び。それをお話を書いてくれた作家に見せる時の喜び。
自慢話のようで恐縮だが、私にはそのような特殊な本にまつわる思い出があるのだった。

イエス・キリストの物語を、文字だけで読んだならばどうだろうか。あるいは、誰か一人の画家が手がけた挿し絵つきの本で読んだならばどうだろうか。
そう考えたとき、さまざまな時代のさまざまな画風、さまざまな画風ゆえさまざまな思想の画家が描いた名画を挿し絵のようにしてキリスト教の発祥を辿れる本書『名画と読むイエス・キリストの物語』(大和書房)の価値は大きい。イエスの劇的な生涯のうち、いくつかのステージを、さらにインパクト強く胸に刻むことができる。
インパクト強くと言っても、十字架に掛けられたリアルなイエス・キリスト像の表紙は、いくら巨匠ベラスケスの手になるもので「最も美しいイエス像」と言われているにしても、あまりにリアルで痛そうで辛そうで直視するに堪えない。
これを表紙にするなど「悪趣味」「あざとい」と感じられもするから、書店で手に取るにも引いてしまう人もいるだろう。しかし、やはり「十字架」はキリスト教にとって特別なものであり、肉体がほろびる磔刑があってこそ復活の伝説があり、世界中への伝道があったのだと読後には納得できる。

見開きごとではないが、6~7ページに1枚ぐらいは絵が入っている。「幼子イエス」「洗礼」「荒野の修行」「伝道」「奇蹟」「女たち」「使徒たち」「エルサレム」「最後の晩餐」「ゲッセマネ」「裁判」「磔刑」「復活」という13章(これは「13日」を意識!?)立てで構成されていて、各章のメインになる絵と、それをめぐる逸話に関する絵が数枚配されている。

クリスチャンやキリスト教に興味ある人、美術愛好家でなくとも、前にどこかで見たような感じのする絵が含まれていることと思う。「これは、あの場面ね」「これって、何の場面?」と、どちらの受け止め方をする人にとっても、イエスの生涯の物語の中で、それがどういう契機だったのかを追いながら確認できるのは、その場面の絵1枚きりに出会うよりも、背景や歴史を帯びた表現の価値に触れることができるので、絵の深みに入り込んでいける。

例えば、第4章「伝道」にギュスターヴ・ドレ「イエス・水上を歩く」という、本書で唯一のモノクロ作品が掲載されている。聖書の挿し絵に使われたものだが、キリスト教に詳しくない人がこれ1枚にどこかで出くわしたとしたら、「水の上を歩くなんてできっこないし……。こういう奇跡のエピソードやイメージを作って、まったく宗教ってのは勝手なガセ」と思うかもしれない。
それが、この本では、淡水のガラリア湖で出会った漁師二人がシモン改めペテロとアンデレという最初の使徒となること、さらにヤコブとヨハネ兄弟という漁師もスカウトされることを経て、船による布教がされていたことが書かれ、暴風雨を鎮め制御するイエスの超人的能力が紹介される。巻頭の「はじめに」で、塩分濃度が異常に高い死海であったなら、水上歩行に近いこともできたかもしれないという筆者の推察を読んだ後なので、弟子たちがイエスの教えに心酔し、厳しい伝道の旅の中で、現実と幻の間に何を見たのか、絵が語りかけてくるものに寛容になってくる。

使徒たちが、あるいは画家たちが現実の先に見た幻なのか、幻の先に見た現実なのかははっきりしないが、絵が見せてくれる2000年もの昔の風景に、五体を投身してしばし遊ぶのに恰好の本だ。

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プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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