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【No.1363】退屈でない絵画

セザンヌ
1906年、67歳で亡くなったセザンヌが、1899年頃に描いた「りんごとオレンジ」。

「セザンヌ―パリとプロヴァンス」という展覧会名で分かるように、画家が行き来した二つの場所を意識して構成された企画。乃木坂の国立新美術館にて開催中で、同画家の個展としては過去最大だそう。

この静物画はオルセー美術館から借りてきた目玉作品の一つであり、他にもパリ市立プティ・パレ美術館所蔵の「四季」四部作やら、マティスが長年手元に置いていた「3人の水浴の女たち」やら、晩年に画家の世話をしていた庭師の肖像画やら、母の死後よく描いていた骸骨の絵の一枚など、興味深い作品が、あちらこちらから集められていた。

人気画家の一人なので、観に来ている人は確かに多い。だが、広い空間にゆったりと作品展示がされており、普通なら「休館日?」の月曜日の夕方近くということもあったためなのか(休館は火曜日なのである)、無心に絵の世界に入れる良いひとときが過ごせた。

20代前半、やや長いヨーロッパ旅行を二度ばかりした時、多くの美術館でむさぼるように絵を眺めた。でも、当時はエキセントリックなもの、尖っていて挑発的なものが好きだったこともあって、どの静物画・肖像画を観ても「退屈だ~」と感じていた。

きのうを含め、ここ数年そうなのだけれど、絵画というジャンルに関係なく、自分が味わってきた文学、音楽、演劇、彫刻、工芸品、映像、写真ほか、人びとが生み出してきた偉大なものに触れたとき、そこに結晶化されている制作者の美意識・世界観といったものに、自分が得てきたものの結晶が確かに反応することの喜びを深く感じる。

それを思うと、きちんと反応できず、作品の価値を十分に受け止めることもできず、ただ絵画の前を通り過ぎていた若い頃の愚かな鑑賞も無駄ではなかったのだという気にさせられる。そういう経験もあって、自分の感性が培われてきたわけだ。そして、何も芸術体験だけではなく、多くの自然や人と対峙する中で、苦悩や失望も含め、ありとあらゆる感情を体験してきたことも大きな意味をなしている。

「円熟」とは、人が他者を論じるときに使う表現には違いないが、幸福か不幸かということに関係なく、自分が積み重ねてこられたものに、このような形で「実り」を感じることができるのは意外である。


セザンヌ関係の本は、さすがにいろいろ出されている。
右端は、ゾラの書簡集。セザンヌがパリに出たのは、友人のゾラの誘いがあってのことだったという。
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テーマ : 芸術・心・癒し
ジャンル : 学問・文化・芸術

【No.1362】新しい母たちと楽しんだ絵本



集まってくれた顔ぶれを見わたすと、ようやく「はいはい」ができるようになったぐらいの赤ちゃんを抱っこしたお母さんたちが4人、後ろの方にも赤ちゃん連れの親御さんたちがいた。子どもたちは2歳ぐらいから小学低学年ぐらいまでというように、年齢にかなりばらつきがあった。
これはこれ、年上のおはなしをよく聞ける子の様子に引き摺られ、小さい子も長めのおはなしでも聞けてしまえる可能性があって、良い感じなのである。

赤ちゃんたちが1冊でも2冊でも良い反応を見せてくれ、お母さんたちがちょっとだけでも「おはなし会に来て良かった」と満足して帰れるようにしないといけない。それでいながら、おはなしの世界を味わえる、おにいちゃん、おねえちゃんたちに「赤ちゃん向けの絵本ばっかりで、何かつまらなかった」と思われないようにしなくてはならない。こうしたミッションを負ったおはなし会を、午後にこなしてきた。

最初に打合せておいたプログラムが集まった顔ぶれで変わってしまうことはしょっちゅうだけれど、きょうも1冊終えるごとに、「次、これでいい?」と目や小声でパートナーと相談し合いながら、手探りで進めていく。
結果、パートナーが2冊、私が3冊と紙しばいを1巻、途中の手遊びの音頭取りもしてしまい、ややでしゃばり過ぎの感じの会になってしまった。反省。

新緑の野山を思わせるような絵本、お弁当の絵本など、この時季向けの絵本を持ち寄ったが、きょうが母の日当日ということもあり、振り返ってみれば、上に書影を掲げた4冊が「母」がらみなのである。

『くろねこかあさん』は、早世した東君平さんの切り絵が楽しいロングセラー絵本。パートナーが持ってきてくれた1冊で、とてもうれしくなる。なつかしい作家だからだ。
東君平という作家を知ったのは、中学生のとき。パステル画のアンパンマンをやなせたかし氏が連載していた「詩とメルヘン」という雑誌に、君平さんの作品もよくお目見えしていた。圧倒的な個性だった。
おはなし会のオープニングからモノトーン絵本を持ってくるのはチャレンジだが、すっきりした画面で母ネコと白い子ネコ3匹、黒い子ネコ3匹が動き回るのに、子どもたちの目は釘づけ。「モノトーンだから」という、おかしな先入観は不要だったことになる。

つづいて、あまり読むつもりはなかった『ひよこ』を2番手に持ってくる。
「きょうは、赤ちゃんたちが多いから、赤ちゃんのご本を1冊読みますね」と大きな子たちに声がけをした上で……。
「あれ?」とか「あ」とか「とことことこ 『あら、ひよこちゃん。どこいくの?』」ぐらいしか各画面に文字がない。たっぷり間を取り、ゆっくり絵を見せてあげる。
この絵本は、空色、白、黄色、赤というように、色がはっきりしていてグラフィックに優れた絵柄なので、大きめの子たちは、それに退屈しないし、赤ちゃんたちは、前に身を乗り出し、目をキラキラさせて、実に良い反応を見せてくれた。
その勢いで、次の紙しばいも聞いてもらえる。幸い、紙しばいは、子どもたちにも声を出してもらう参加型のものであった。
続けて、手遊び。導入にも手遊びをしているので、ここまでで15分ぐらい。

実は、赤ちゃんたちは、このあたりで抜けてもらってもいいような組み立てにしてみたのだけれど(このような流れは、いつも心がけてきたこと)、お母さんたちは、赤ちゃんたちの反応が良いのがとてもうれしい様子。少しご機嫌が悪くなった赤ちゃんをあやしあやししながら、続く絵本3冊も聞いていったので、びっくりしてしまった。
「えーん」「うーっ」と声を上げる赤ちゃんたちが近くにいると、おはなしを聞く子どもたちは集中力をもたせにくい。それで、いつもよりメリハリをつけ、やや芝居がかった読みきかせをした。

パートナーが1冊お弁当の絵本を読んでくれ、その次は、もうフィニッシュの大型しかけ絵本『おかしなかくれんぼ』にしてしまおうかとも考えたけれど、大きい子たち向けにセンダック『かいじゅうたちのいるところ』も思い切って入れてみた。正直に言うと、センダックが亡くなったばかりなので昨日、思いつきで急に持参することにし、声を出して読む練習はしていかなかった。久しぶりに読んでみたら、「こんなに長かったかな。まずい……」と途中で思った。
プログラムの中では長めだけれど、「この語り!」「この絵柄!」と改めて感心しながら、どう伝わっているかなと、聞いてくれている子や大人の表情を確認しながら読む。最後に思わず「一番好きな絵本かもしれません」と言葉を添えてしまった。

『ひよこ』も最後の方にニワトリのお母さんが登場する。『かいじゅうたち~』はお母さんの姿は出てこないけれど、主人公のマックスは、最初に、いたずらが過ぎてお母さんに怒られて夕飯抜きで部屋に閉じ込められるし、かいじゅう王国で過ごしてから戻る気になるのは、「やさしいだれかさん」のところへ帰りたくなるからなのだ。そして、部屋に戻ると、そこには、ほかほかの夕飯が用意されている。
母親の影が、ファンタジーの「入口」「出口」で用意されていることになる。
だから、子どもたちに楽しんでもらうとともに、聞いてくれているお母さんたちに、マックスのような子どもにとっての母親の存在の大きさが十分に伝わることを願って読んだ。

かくれんぼをしている友だちの体の一部がハンバーガーやサンドイッチ、ホットケーキなどの食べものに見えてしまう、大型のしかけ絵本『おかしなかくれんぼ』(大型だけでなく普及版もあり)も、最後は、くまのお母さんが出てきて、おやつの時間になるという内容。

お母さんネタ尽くしの会となって、「母」というキャリアを積み始めたばかりの若いママたちの楽しそうな笑顔がいくつも見られ、きょうのおはなし会も魔法のようなひとときを過ごせた。

テーマ : 絵本
ジャンル : 本・雑誌

【No.1361】わくわく天体ショー

昼休みに、この本買った。



まえがきに書いてあるけれど、著者の竹内薫氏は「アマチュア科学者<兼>プロ作家」であるが、日本で科学書を書くほとんどの人が「プロ科学者<兼>アマチュア作家」だということ。

だから、この『ざっくりわかる宇宙論』(ちくま新書)は、ふつうの宇宙論の本とちがっていて、現役の科学者や科学者のための本ではなく、「科学好きの一般読者」のために書かれているんだって……。

何でまた宇宙の本かというと、そもそもは来たる5月21日の「金環日蝕」だ。
文部科学省がこちらにアップしているように、日蝕当日の注意を教育機関に申し送りした。
それを受け、息子の高校では、当日3時間目から登校する指示が出されたと昨日聞いた。

したところ、きょうの午前中、職場で理科関係の講座を担当している人が「Newton」に目を通していて、その日蝕ほか、今年は天体観測の当たり年だということを教えてくれたのだ。
どういう面白い現象があるのかひとしきり話をしていて、日蝕関係の本が何かないかなあと、ふらふら昼休みに書店に出かけたら、この本が目についたということさ。

余談だが、最近、自分と同じ職種の同僚が6人いる職場、皆の興味関心や能力が本当にさまざまで実に有難く、面白い。まだ新年度の事業が回り出したばかりで、心に余裕があるから話が弾んでいるのではないかと皆も認識しているみたいだけれど、物の見方やパーソナリティの多様性から日々学ぶことばかり。

「この人の持っている、こういう力を自分も身につけたい」と思うことがきょうもあって、明日は、その話を振り込んで、コツを伝授してもらおうかと考えている。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

【No.1360】闇に射す光が求められる理由

前に美輪明宏さんの本を読んでいたら、仕事が来ないとぼやく人に「そういう黒い服ばかり着ているから」と指摘し、運気を呼び込む色の服を着るよう助言したと書かれていた。その人は助言に従い、明るい色のものを身につけるようにした。
ほしたら、仕事に恵まれるようになったんだと。とっぴんぱらりぃのぷぅ。

……これじゃ、終わっちまうじゃないか。

それはそうと、最近、大学に入ると共に、男子も女子も黒っぽいスーツを用意するようで、よせばいいのに、そういうスーツを就職活動で再び持ち出してくる。生き生きした若い人たちが、黒服ばかり着ているのを見ると、美輪さんの指摘を思い出し、「だから景気悪いんじゃね」と思ったりする。

車の色についても、景気が良い時代には、さまざまな色のものが売れるけど、景気が悪いと、白やグレーのようなモノトーン系が売れるという話も聞く。確かに、ここ数年、そういう傾向にないですか。

本も、そういうところがあるのかな。
最近読んだセロー『極北』も白っぽかった。私自身は、キッチュな色合いのものより、シンプルで白っぽいジャケットの本を選ぶのが、ここ数年の傾向だ。ジャケ買いばかりするわけではないものの……。
ごちゃごちゃした主張過多なものは、社会の低迷からくる虚無を引き摺る者には、どこかしんどい印象を与えるのよ。

きょうのメインは絵の話だ。

景気が良かった時代、日本で好まれるのは、画面全体に光が回っている印象派の絵だった。
日本人が一番好きなのはルノワールという定説があったと思う。
今は、やはりフェルメールですよね。今年も、もうすぐフェルメールの絵がやってくる。

この絵画の好みも、社会をとてもよく反映している気がしてならない。
屋内の暗がりでじっとしている人物たちに、窓から淡い光が降り注いでいる絵画――私たちが置かれた状況を象徴するものとして、フェルメールの光の表現が好まれているのだと言えないか。

前置きばかりで、かんじんの本の中身を紹介する気力がきょうはないのだけれど、宮下規久朗『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』(小学館ビジュアル新書)が、とても良い。

印象派というのは、実は日本の絵画の影響をショックとして受け止め、光が全体に回るように描かれるようになったものだ。この本は、西洋美術の闇の系譜を辿っていこうという意図の下、書かれた論考なのである。

本当は、もっと大きな本に仕上げられる予定だったらしいが、新書というコンパクトな体裁だから、手軽に読めた。手軽だったけれど、闇があるからこそ光が意味を持つということ、それに様々な表現で取り組まれてきた西洋美術の歴史が分かりやすく、それでいて深く書かれている。
カラー図版も多く、お値打ち感がある一冊。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

【No.1359】そうは言われても……


昨年の秋口に出たル=グウィンの評論集『いまファンタジーにできること』(河出書房新社)に、「おおっ」と身を乗り出してしまうような記述があった。「ファンタジー」と「SF」というジャンルは十把一からげにして語られがちだが、その違いを明確に説明しているのだ。

私なぞは、「どちらも空想物語だけれど、科学技術のガゼットがあるかないかの違いじゃないの?」ぐらいに考えていたけれど、「そうか、そういうことね」と、すんなり納得できた。

リアリズムのフィクションは人間中心主義に向かって引っ張られていく。ファンタジーは人間中心主義から離れる方向に引っ張られていく。ファンタジーの緑の国は、まったく人間の想像力によってつくられたもののように思われるが、人間が王や主人ではなくて、中心にはおらず、重要ですらない実在の王国に隣接していて、それに近い性質を帯びている。この点で、ファンタジーは、SFと比べると、厳密な諸科学のもたらす世界観にぐっと近いところにいる。SFはおおむね、人間の知識と支配をよしとするある種の帝国主義、宇宙に対する植民地時代的態度に陥っている。(P60)

「SF者」と自らを称する愛好家にとっては、耳が痛い指摘かもしれない。
しかし、「帝国主義者」と言われても、ひるむことなかれ。実は、この記述に先立ち、「マルクス主義者」も批判されているからだ(笑)。
彼女は、真のファンタジーは寓意物語(アレゴリー)ではないから、神学的・心理学的・政治学的等の秩序を反映しているものとしてファンタジーを論じることの愚を突っ込む。ファンタジー作品を、社会や政治等の観念から説明しようとする合理性を批判している。

ファンタジーは説明するものではなく、ファンタジーにふさわしい読み方をすることで「読者はファンタジー作品の道徳的な立場や社会との関わりが少しずつわかりはじめるのだ」(P54)と主張する。そして、マルクス主義や新マルクス主義の批評家の多くが、ユートピア小説やディストピア小説として読めるものには価値を見出すが、社会的問題に関わらないファンタジーは下らないものだと片づけがちだと続ける。
 社会的な意識でファンタジーを読むのは可だが、イデオロギーにこりかたまった読み方は、いかんと……。

よく考えてみると、ル=グウィンは「読み方」「批評の仕方」だけを批判しているのではない。ファンタジー作品が社会的意識をもって読めるものであること、道徳や社会との関わりをもっていることを求めている。

魔法を使えば世界を変えてしまうから、「ゲド戦記」の登場人物たちは安易に魔法を使わない。ここには、一つの道徳がある。けれども、ハリー・ポッターやそれに類似したファンタジーはどうか。そういうこともほのめかしているのだ。

さらに付け加えるなら、「魔法」を「権力」と置き換えて読む自由、物語世界に行って還った後で、そのような想像力を働かせて考える自由を期待しているのだと思う。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

【No.1358】生きることの素敵を肯定する文学



スタジオジブリのアニメーションは楽しんできたし、角野栄子『魔女の宅急便』、ル=グィン「ゲド戦記シリーズ」、ノートン『床下の小人たち』といった優れた児童文学を映像化した仕掛け人として、宮崎駿氏はいつも気になる存在。
けれども、氏が絶賛していたデイヴィッド・アーモンド『肩甲骨は翼のなごり』が、どうもピンとこなかったことがあってから、読書家や本の紹介者としての宮崎駿をあまり気に留めずにきた。

本の趣味ってまったく微妙なものだ。「あの人がいいというなら、信頼できるから読んでみる」という気にさせられる羅針盤的存在はめったに現れない。
海外文学好きの私は、須賀敦子という羅針盤を失ってから、さほど当てにならない自分の嗅覚を頼りに本を選んできた。外れたら仕方ないやと割り切って……。
今、海外文学の紹介者としては、翻訳家の鴻巣友季子氏やライターの豊崎由美氏の名を見かけることが多いが、正直、彼女たちのほめ方の癖が自分の好みには合わない。申し訳ない気がしないでもないけれど、2人の書くものは、つらーっという感じでしか目を通せない。
須賀さんの毅然とした姿勢、頑固さ、権威にすり寄っていかず、本の精髄をつかもうとする愛情に強く惹かれる。

話がそれた。 
岩波少年文庫が創刊60年を迎えた2010年、宮崎駿氏が50冊を選び小冊子にしたという新聞記事を目にした。私はそれが岩波書店の販促物だと思い、2軒ばかりの書店で尋ねてみた。「何ですか、それ?」のようなリアクションに落胆し、「いいや」と放置したが、どうもそれはジブリで出された冊子だったらしい。それが第Ⅰ部として編集され出版されたのが『本へのとびら』という岩波新書である。

少年文庫に限らず、岩波文庫も新潮文庫も昔は酸性紙であった。そのため何年か置いておくと、日焼けさせた覚えはなくとも、ページは周辺から何となく黄ばんでくる。1ページごとに1冊、書影つき宮崎コメントが入った岩波少年文庫紹介ページは全部カラーで、地は、その酸性紙の黄ばみになっているものだから、何とも切なく甘酸っぱく、懐かしさがこみあげてくる。
本の紹介は、なぜそれを50冊に入れたのかという理由づけだ。児童文学史の中での位置を説明したり、価値を論じる「書評」ではない。書評を書く人が敢えて避ける「素晴らしい」「愉快」「おもしろい」のような感覚的表現が多用される。自分にとっていかに大切な本かという内容だから、そうなるのである。

どういう暮らしぶり仕事ぶりの人が、その本をどう受け止めたのか、その本のどういうところに心を動かしたのかに、私はとても興味がある。
キラキラしたアニメーションをコツコツ職人として作り上げる人が、ファージョンの『ムギと王さま』の各篇を「ひとつひとつのお話が、どれもキラキラしていてクリスマスツリーのようです」のように書いたり、ファンタジーを大切にするクリエイターが『日本霊異記』を「迷信とか古くさい信仰と片づけてはいけません。ぼくやあなたの心の奥のもっと奥の方に、今でもふしぎなものが伝わっているからです」のように取り上げたりする。一冊一冊への思いがとてもストレートに伝わってくるのが感動的で、アニメーターとして挿し絵にどういう影響を受けたのかを明かしている点にも引きつけられる。

第Ⅱ部は、まとまった量のエッセイで、少年文庫や子どもの本との関わりについて書かれている。読書の効き目や効果といった発想はやめたほうがいいとし、「本を読むから考えが深くなる、なんていうことはあまり考えなくてもいいんじゃないでしょうか。本を読むと立派になるかというとそんなことはないですからね」(P146)、「要するに児童文学というのは、『どうにもならない、これが人間という存在だ』という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、『生まれてきてよかったんだ』というものなんです」(P163)「『子どもにむかって絶望を説くな』ということなんです」(P163)等、子どもと本の関係について踏み込んだ発言をしている。
この混迷の時代に、大人が子どもに何をしてあげられるのかというところに話が流れ込んでいくにつれ、目に涙がたまってしまった。そして、困難な時代の幕が上がった今、自分たちはファンタジーはつくれない、つくってはいけないと吐露し、今の子どもたちの中から新たなファンタジーが生まれてくることを期待するというくだりに、私なりの納得と共感が及んだとき、ジブリのアニメーションと共に子育てのできた幸福な時代を思い出とする覚悟が必要なのだと知らされた。

巻頭に、縁側で腹ばいになって本を読む男の子のイラストが口絵にはさまれている。はだしの足の裏は、窓の角の部分に当てられている。壁に足を伸ばしたり、カーテンを足にはさんだり、私もそんなことをしながら寝転がって児童文学を読みふけったものだ。
魔法のような時が本と共にあったことを思い知らされ、生まれてきてよかったという思いをよみがえらせてくれる素敵なガイドブックであった。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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