スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【No.1167】水脈を探し、羽根を待つ…6月30日


両方とも、少し前に読み終えた本なのだが、何かとても似ているところがある気がするのに、それが何なのか、じっくり考える作業になかなか辿り着けない。

「『渚』と『雨』だから、水関係で通じている」やら、「人類の破滅を考えたSFと人格の破壊行為に触れた詩人の作品集だから、『果て』を見たということで共通している」やら、本の紹介ならば、そのようにお茶を濁して終えてしまっても良いようなものである。
しかし、試みたいのは本を人に紹介していくことではなく、本について考えて自分が楽しむことなので、それを後でじっくりやろうと思う本については、ここにあまり詳しいことは書かないでいる。
そういう意味では本当に雑記で、情報を積極的に発信する良いログではない。

考えながら書くということには物凄い集中力が要り、良いひらめきが舞い降りてこないと面白くも何ともないので、余裕ある贅沢な時間が必要なのだ。
残念ながら、なかなかその態勢を整えられないでいるので、手っ取り早く手元にある本を読んで、とりあえずは「消費」でスッとしているだけになっている。それで一日実世界に生きた疲れは取れるので有難いが、せっかく読んだ良い内容の本について、自分の受け止め方はどうなのかということを掘り下げて考えていけないのはもったいないことだと感じるのである。本を沢山読むと充実感があった若い頃とは、かなり感覚が変わってしまった。

ネヴィル・シュート『渚にて』については、幸いにしてすでにタイミング良く書けた。
ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』というこの見事な詩集については、雨粒の間からひらりひらり舞い降りる羽根のように言葉が到来するのを待って、何か書けると良い。梅雨の明けるまでに……。

ローゼ・アウスレンダーは現ルーマニアに当たるオーストリア領に生まれ、同胞の多くを失ったユダヤ人詩人。
第二次大戦後、米国に移住し、同胞を迫害した者たちの言語であるドイツ語で詩を書くのをやめ、英語で書き始めた。
しかし、パウル・ツェランとヨーロッパで再会したことにより、1959年に再びドイツ語で書き始める。
ドイツの一般読者にその存在を知られるようになったのは1976年、彼女が75歳になってから。
1972年デュッセルドルフのユダヤ人老人ホームに入居。人を避けるようにして詩作を続け、1988年に死去。生年は1901年のドイツ語圏を代表する現代詩人の1人であった。
スポンサーサイト

【No.1166】As you know…6月27日

昨日はたまたま銀座に出る用事があり、銀座教文館書店内にある子どもの本の専門店ナルニア国に少しだけ立ち寄った。ナルニア国は今年で10周年を迎えたそうだ。
この書店の特徴は、厳正な審査を行って選考した本だけを棚に並べるということ。したがって、いくら押しの強い営業担当が売り込みに行っても仕入れてはもらえない。そしてもう1つの特徴は、その枠とは別に、この1年で出た子どもの本を全部並べている棚があるということ。1年分全点棚は、前は別の階にあった。私はナルニア国に行くのがとても久しぶりであり、同じフロアに1年全点棚を移動させてから初めて行った。ワンフロアに子どもの本が揃ったのは、とても便利である。
購入したのは下の2点。岩波ジュニア新書の新刊『図書館で出会える100冊』とカルヴィーノ『マルコヴァルドさんの四季』の新訳である。きょうの話は、左の本についてだけ。

『図書館で出会える100冊』は、各図書についてのあらすじが主で、それに「こういう本である」というポイントが付されている内容のブックガイドなので、すっ飛ばし読みで、ものの30分ぐらいで読み終えた。よく考えると、椅子に座って読んで帰ってくれば良かった。
下に並べたような、私も読んだことのある本がリストアップされていたので興味深く読んだり、読んだはずなのに忘れていた筋を思い出させてもらったり……。
好みの本が重複したり、「これ、面白そうだな」と思える知らない本が何冊も出ていたりで、自分には十分有意だったのだが……。ジュニア新書で出ているけれども、実際このガイドブックを活用するのは年配ご婦人の児童文学愛読者が中心かと思える陣容と言えそうだ。

リチャード・ペック『ホーミニ・リッジ学校の奇跡!』(東京創元社)
グロリア・ウィーラン『家なき鳥』(白水社)
レイ・ブラッドベリ『さよなら僕の夏』(晶文社)

スティーブン・キング『トム・ゴードンに恋した少女』(新潮社/こちらの単行本は品切れだけど、リンク先に自分が書いているので貼ってみた。ジュニア新書で紹介されているのは流通している新潮文庫版の方)
シュピーリ『ハイジ』(福音館書店)
長田弘『本を愛しなさい』(みすず書房)
とまあ、こういった感じの本が紹介されているけれども、少なくとも拙宅の愚息やその周りの友だちが読みそうな本の選択ではない。

数日前、ある店で軽くお昼を食べていたら、隣に座っていた高齢のご婦人2人が「最近、図書館で子どもの本を借りて読んでいる。今もムーミンのお話を返してきたところ」「環境問題について知りたいというときに、子どもの本だと字も大きいし、分かり易く書いてあっていい」というように話していたけれども、そういう層にズバピタのガイドブックだという印象を抱いた。

それをさらに確信したのは次のような書き方である。
スタインベック『チャーリーとの旅』(ポプラ社)について紹介した文章のところ。

もう一つの旅の仲間は、トラックの「ロシナンテ号」です。この名前は言うまでもありません。ドン・キホーテの愛馬からとったものです。(P78)

こういう書き方、カッチーンと来るんだな。「この名前は言うまでもありません」という上から目線。
著者は長年、東京杉並エリアで司書として仕事をしてきた人で、そりゃあ、本のプロなんだろうけれども、「何か面白い本はありませんか」と尋ねてくる子どもの相手をしてきた人が、As you know的な、「当然の教養よ」という表現はないだろう。ドン・キホーテのお話を読んでいない子の方が圧倒的に多いでしょうが。
無論、こういう書き方で、「ドン・キホーテぐらいは教養として読んでおいた方がいいわよ」という情報提供をしていると、良きに解釈できる。しかし、相手の知識や好みなどが分からない不特定多数の相手をする時には、「相手が知っていようがいまいが恥をかかせないような配慮」をして話をするのが心得であり、人徳、人品というものではないだろうか。
自分ペースで書いているブログじゃないんだからさ、そういう意味でのリテラシーが必要だよね。
つまりリテラシーというのは単なる言語技術ではなくして、そういう気持ちの入った言語を使えるかどうかということで、あたしゃas you knowやらyou knowという米語的押し付けがましい表現は嫌いです。
自分も同様の間違いは結構犯しているかとも思うが、評論をするときに、人口に膾炙していないにも拘らず「よく知られたことだが」「周知の事実だが」「誰もが知っているように」などとしゃあしゃあ書いている人がたまに目につく。特に、女性の気の強そうな有識者に多い気がするが……。
気をつけたいものである。

このガイドブックはそこ一箇所が気に入らないという理由で、いずれ処分、処分。
杉並は隣の区なので、そこの図書館に寄付してしまうのも面白いかもしれぬ。

[追記]2日連続で、人聞き悪く根性の悪い記事で、気分を悪くした人がいたら済みません。

【No.1165】楽園への完全うんちく武装…6月26日

名古屋ですでに、やや異なる内容で催されていたみたいだが、いよいよ名品中の名品「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」を引っ提げて、竹橋の東京国立近代美術館にて7月3日から「ゴーギャン展」が始まる。
それが目の前にちらつき出したこともあって、1年半近く積んでおいたバルガス=リョサ『楽園への道』読了。
池澤夏樹個人編集「世界文学全集」の中の名品中の名品ではないでしょうか。
と言っても、実は私はこのシリーズはようやくこれが初めての読了。他の本を買うのは『楽園への道』を読んでからにしようと禁則を設けていたため。

この小説は、株式仲買人として高給取りだったのに、その仕事と家族をなげうって画業に専念し、ユートピアを夢見てタヒチへ渡ったポール・ゴーギャンの半生を描いた伝記的小説であり、それと並行させて、ゴーギャンの祖母である社会思想家フローラ・トリスタンの半生を描いた小説でもある。技巧も凝りに凝った現代文学の大作。
「豊饒」とか「ふくよか」とか「シズル感」とか、ラテンアメリカ文学の傑作は、色鮮やかで大玉で水分たっぷりの果物みたいな感じがする。それに比べ、日本の文学をどうたとえると適当かは、眠いので省略。

『楽園への道』のついでにゴーギャンが書いた『ノア・ノア』と、古典的文学作品であるモーム『月と六ペンス』を読んでおけば「うんちく武装」としては完璧かと思う。
『月と六ペンス』は岩波文庫と角川文庫でも出ている。土屋政雄氏訳ということが分かると、何となく光文社版のものを並べてみたい気になった。私自身は、小学館の地球人ライブラリーで読んでいて、はて、あれはどなたの訳だったかしら。
さらに徹底化したい向きには、『オヴィリ』という研究書もある。それで野蛮人の彫刻についても勉強していくと、その像の一つも展示されるみたいなので、十分に知ったか、いや、教養の深さをかもし出せる。

『楽園への道』を中央に置いて、「左(社会主義なので当然、左!)」にフローラ・トリスタン他女性社会思想家の本、右にゴーギャン関係なんぞで書店フェアをやると面白そう。誰が買っていくのかまでは責任を持たないけれどね。

こちらが東京のゴーギャン展のリンク。
ここでも、また石鍋シェフの展覧会にちなんだ特別メニューがあるということで失笑。アクアという店、ずっと前にランチを食べたけれど、そのときはあまりおいしくなかった。見た目は良かったけど。
こちらは充実の美術愛好家のブログ。私よりはるかに長い記事を書く人を見つけてびっくり。
国立近代、東京駅からゴーギャン柄(?)のバスを運行するとか。夏休みの旅行者にも丸の内近辺のオフィスワーカーにも便利そう。

ちょっといそがし…6月19日

やらねばならぬことがあるのに、きょうも仕事の帰り、ちょっとした人づき合い。
自ら首絞めた。
このようにして美容院に行く時間がなかなか作れず、頭やまんば状態。

ついでに一言。

サッカー日本代表のこの一年の課題について。
パス回しがどうとか、集中力がどうとか、そういう問題ではなく、
みんなそれぞれ5センチから10センチぐらいずつ背が伸びるように
トレーニングを積んだ方が良いと思う。
試合は闘莉王がヘディング決めたところまで見れた。
それから何が起こったのかを新聞で確かめて、真剣にそう考えた。

そういう発想が自然にできるようになる、なかなかナイスな設定のSFを
移動時間と寝る前に読んでいる。

【No.1164】200グラム680円のつづき…6月15日

【No.1163】の絵本を少し紹介しようと思っていたのだが、思いの他、仕事でへばったので改めて。
下は、やはりカラスに食べられなかった切り花。
腹がへっていると花も食べるくせに……。

天気悪く自然光入らなかったので色、悪い。
テーブルに掛けたクロスは黄緑、上の方の花は鮮やかな紅色なのに……。下の方の白はバラ。
この、つぼみの時は、色づいていないイチゴみたいな花の名が何というのか、セロファンに貼ってあったシールを確かめるのを忘れてしまった。
花瓶代わりにしたのは、アネモネか何かの花の絵がついたガラスのビアジョッキ。
活け方が無造作すぎて、バランス悪い。一応、「シン(真)、ソエ(副)、タイ(体)」(天地人に当たるらしい)の池坊の心得ぐらいはあるのだけれど、「無手勝流」が性に合う。

[追記]絵本の紹介をなまけている間に、『おとん』『だから?』がふさわしい父の日は過ぎてしまった。
『かばががばー』はプール開きが少し前にあったような季節なので、「水遊び」という引きでこの時季にとても良い。大型迫力写真絵本で、かばのユニークな生態が紹介されている。大口を開けたかばの見開きを、一人ひとりの子どもたちの顔に近づけてあげてゆっくり楽しんだ。
『えらいえらい』は、たまたま『かばががばー』に表紙の感じが似てしまったのだと思うけど、中身はまるで違っていて、かばだけでなく、靴やら傘が出てきて、そういったものがどうして偉いのかをごく短い言葉で説明していく。偉い理由を説明したら、皆に拍手してもらうような流れなので、おはなし会で使い良い。
『あめかな!』はグラフィックで素敵な絵本だけど、「赤ちゃん絵本枠で出すにはどうかな?」と疑問。雨の音だけで展開していくなら良いが、やや説明的な文が入っていて、それが赤ちゃん向けではない。それは、赤ちゃんとお母さんの前で実際読んでみて、説明的な文章のところで赤ちゃんの注意がそれた経験から言っている。赤ちゃんが反応し易いのは「ザーザー」「ぽつんぽつん」という音の響きなのである。抽象的な絵がきれいで、絵本の完成度としては高い。
『くまこちゃんのみずたまはんかち』は、ハンカチから逃げ出した水玉をどうつかまえるかという話だけど、これも水玉がどこに隠れているかという問いかけのできる参加型絵本と考えても良さそう。癖のない素直なお話なので、小さな子でも楽しめる。

【No.1163】200グラム680円…6月14日

月に一度のパターン的日曜日のはずだった。
おはなし会を某所で行い、パートナーとミスドでドーナツを食べながらお喋りを楽しみ、電車に乗って帰ってくる。駅構内のスーパーで買い物をする。そこには好物の「サクサクアーモンド」という菓子があり、よそでは見かけないので必ず買って帰る。
それから少し離れた公園に停めておいた自転車で家を目指す。
「自転車プラス電車」なので、ちょっと違うが一応パーク&ライドなのである。

しかし、よくよく考えると、きょうはパターンが少し崩れていた。
ミスドで頼んだDポップはリニューアルされたため、中身が違っていた。
お喋りを楽しむつもりが、「夕方は雷雨」という予報の通り、雲行きが怪しげだったのでかなり早めに引き揚げた。
スーパーからまっすぐ帰れば良かったのだが、プランターの植え替えが必要なものが放置状態であることが気になり、これまで買い物をしたことのない、公園入口の花店でいくつか花の苗を買い求めた。
ちなみにこのお店、ロケーションがおしゃれなので、よくテレビドラマのロケにも使われるらしい。

ご主人にアドバイスをもらいながら花を決め、支払をしようとしたところで、「あっ」とご主人が叫ぶ。視線は私の後方へ向いている。
何が起きたかと驚いて振り向くと、

こいつが、私の自転車のカゴに止まっているではないか。
何をしているのかと思って近づくと、何と、エコバッグのなかにくちばしを突っ込んでいる。
「こらっ!」と追い払うと、さあーっと飛び上がったのだが、くちばしの先に何やら赤い切れ端が……。
「ああっ、牛肉、牛肉をやられた~」
とショックで呆然。

実はエコバッグの口をしっかり縛っていなかったのである。
なぜかと言うと、花店に寄っていたくせに、切り花のしゃれたのをスーパーで見かけたので、それをすでにエコバッグに入れていた。花がくしゃっとつぶれてはいけないと思い、いつもは持ち手の部分を結ぶのに、きょうは結んでいなかったのだ。

カラスは向いの家の屋根にひらり舞い上がり、そこで肉をくわえ直した。
「おい、ちょっと降りて来い。サシで話をしようぜ」という感じであったが、きゃつにはまったくその気がなく飛び去って行った。
エコバッグの中を見ると、結構奥の方に詰め、しかも薄いポリ袋に入れていたというのに、そのポリ袋の口をめくり、トレーに張ったラップにくちばしを突っ込んでつまみ出した跡があった。

「牛肉だわ。牛肉をやられた~」と、花店のご主人に言いながら、前にサッカーの練習をしているところへ行き、やはりスーパーの袋を自転車カゴに入れておいたら、そこにカラスが止まって悪さをしようとしていたのを見たことを思い出した。そういうこともあるというのを経験したのに、すっかり忘れていたのである。
ご主人は、「カラスはよく知っている。前には、食パンをやられた人がいた」と言っていた。自転車のカゴには何かおいしいものが入っている場合があるというのを知っているのだ。悔しいことに、カラスの方が経験を生かせるので利巧ということになるではないか。
しかし、「食パンをやられた人がいた」って……。何の慰めにもなりはしない。

自転車のカゴには、他にも積んであったものがある。カラスが見向きもしなかった、おいしくないものは次の6冊である。おいしかったものの値段は見出しの通り。群馬産牛であった。



<この項つづく>

【No.1162】惹起文句…6月13日

ジャッキ・モンク。
セロニアス・モンクってピアニストがいたね。

所謂キャッチコピーというやつで、「ヘッドコピー、サブコピー、ボディコピー」などに分かれる。
その辺の詳しいところは、ピーライ(コピーライター)のソネアキラさんのところででも聞いてみてください。

村上春樹の新刊より、カズオ・イシグロの新刊の方が私にはニューズで、しかも初の短篇集なのである。
一昨日の夜更けに注文したブツが、他の3冊と共にきのうの夜早くに届き、相変わらず驚異的なbk1の配送の素早さなのだが、帯の文句を見て、あーら、びっくり。

ヘッドコピーは、

『わたしを離さないで』から四年。
カズオ・イシグロ待望の最新刊。


こういう感じなのだが、ボディコピーの方が下の通り。

ベネチアの広場から、ロンドンのフラットへ。
イングランドの丘陵から、ハリウッドの高級ホテル秘密階へ。
切なくロマンチックな調べを奏でイシグロの物語たちはめぐり続ける。


これを見て、自分が『幻の終わり』の惹起文句としたものに似ていることに驚いたのだ。

凍てついたマンハッタンのビルの谷間から、内戦で混乱するアフリカの内奥へ、
そして、もはや埋めることのできない人と人との間に横たわる溝へ、
かつては暖かなものが宿っていた心の部分へ――確かな筆致が捉えていくハードボイルドな空間。


そんなに大した類似じゃないかも……。
でも、びわちゃん、真似したんじゃないからね。絶対に違うからね。
投稿は6月10日で、本が届いたのは昨日の12日だもん。
と一応、言い訳しておこうかと思った。まったく大した話じゃないのだが……。

ところで、これも似ていてびっくりしたことがある。

ジョン・マクガハン『小道をぬけて』の投稿に、私がつけた文句は次の通り。

母から生まれたすべての人と、母であるすべての人が読むべき本。
現代アイルランドを代表する作家による、頑固で特異な文体の回想記。


その投稿からしばらく経って、シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』が出たので買ったところ、作家の桜庭一樹さんが次のような惹起文句を帯につけていた。

すべての善人に読まれるべき、本の形をした怪物である。

これは、『ずっとお城で暮らしてる』に桜庭さんが解説をつけていて、その結びの次のような部分を抜き出したものである。

これこそ、本当の恐怖小説。
本書『ずっとお城で暮らしてる』は、ちいさなかわいらしい町に住み、
きれいな家の奥に欠落と過剰を隠した、すべての善人に読まれるべき、
本の形をした怪物である。


私は十二分に自意識過剰なので、「あれ、真似されちゃったかな?」と思ったのであった(笑)。

まあ、大量に文章を書いていると、こういうことがあるよね。
自分自身、「この響き、どこかで聞いたような……」と思いながら書いていることがある。
投稿でちょっと珍しい言い回しをすると、次の日やら次の次の日やらに、同じところで、その言葉を誰かも使っているというようなことも見受けられる。
単語の数は無数にあるけれども、日常利用されるものは案外限られている。独自性というのは、どの単語とどの単語をどう組み合わせて流れるようにするかということで、それが文体を作っていく。
みんなで開拓していけば、国民全体の日本語のリテラシーも上がるんじゃないでしょうか。

ジャッキ・モンク。
日常的な投稿遊びで、さほど気合いを入れ、根を詰めて考えやしないが、昔、編集の仕事をしていたときは、丸3日考えるというようなこともあった。漢字のままにしておくか、ひらがなに開くべきか。「それは」にするか「それが」にするかといった具合に……。
ピーライ的な仕事もやったことがあるし、フリーライターもしたことがある。
最近、確信犯的な長文書きだが、実は100字、200字ぐらいの短い文章を書くのって割に好きなのだよね。

【No.1161】リアル・ネットワーク…6月11日


松らい(竹かんむりに頼の旧字?)社の「東欧の想像力」シリーズ。1巻目の『砂時計』を積ん読にしておいたままで、つい先日買ったこちらの方を先に読了。
セルビア人作家ミロラド・パヴィッチの本はお初であったが、評判たがわず面白い。大人のための童話という感じ。
物語と共に、小説というものを使った遊戯が実験的になされ、新刊が出るたび独特な企画になっているようで、そのプランナーぶりがまた面白い。

本書は、「大アルカナ」という22枚1組のタロットカードに対応する話で構成され、タロット占いをしながら、出てきたカードの順番に読めば良いという「読者参加型小説」を売りにしている。出てきたカードに対応する分だけ読むのでは本を全部読み通せない。それで、最初から順番通りに読んでみたけれども……。

きょうは昼間、子どもの学校に出向く用事があり、そのついでに行き会ったママ友3人とお茶をしていた。気づいたら3時間しゃべっていて、午後6時を30分も回っていて、「いけね、晩飯、晩飯」と大慌てで帰ってきた。
時間をずらして各自担任の先生と面談していたので、きょうはオールメンバー揃わなかった。だが、皆で声掛けあうと、たちまち20人超のランチ集団ができる。
この集まりに限らず、同じような年代の主婦友としゃべるが今一番面白い。
アラフォーからアラフィーの年代だが、お茶やランチの集まりというのは、仕事や社会的役割を持っていれば、それなりの心や時間の余裕、そして若干のお小遣いの余裕がないと出てこられない。みんなそれぞれに、それなりのおしゃれをして多少は非日常モードで出かけてくるわけだが、おしゃれしてにこやかに笑っていても、この年代ともなると積み上げてきたものがかなりあるわけで、話し出すと話題の豊富さ、情報力に圧倒される。上っ面だけではないということだ。

だいたい、ねちっこく悪口を言う人、空気が読めずに品の良くないことを言う人、自分の話しかできない人は、こういう集団のなかでは煙たがられるので、集まってくるのは、しんどい目に遭っていても、それを愚痴や悪口でこぼすのではなく「どうすればいい?」と相談として持ち出せる人、そして、皆のアドバイスを聞いて受け容れる姿勢があり、それをヒントに前向きになれる人である。常識、良識、マナーがベースになることは言うまでもない。
それで、しんどい目というのは、実は年配婦人ならば誰もが味わっていることなので、代わりばんこに話しながらリフレッシュして、良いエネルギーを互いに取り込んで別れて行くということになる。

私の場合、ポジティヴ思考というより、いささか能天気気味であるが、「それって、こういうことじゃない?」と、事象を違う角度で考える切り口を割に簡単に提示してしまえる。たぶん、そういう力がついてきたのには、小説の影響が大きい。
きょう提示した『帝都最後の恋』にしても、22枚のカードに対応する様々な人物の物語になっているから、性差、年齢差、身分差があり、個性の異なる男女の視点に飛ぶわけで、スイッチしながら読む技術が日常の発想にも応用できてしまう。

「相手に本音のところを問い質せないような人から、打ちのめされるようなメールをもらった」という人に対し、「それって、たまたまその人の日本語が足りなかっただけじゃない? メールって、よくあるよ。かんじんの一言を書きもらしちゃって、意図とはまるで違うニュアンスになって伝わること。ああ、日本語力のない人だなって思って、流す、流す」というような無理矢理前向き転換をお勧めして、「あっ、そうかあ。伝える力のない人だったのね」と笑顔を引き出すことができた。
無論、それですっかり解決したわけでもないだろう。それほど甘いとは思わないが、わいわい話しているうちに、他の人からありとあらゆる方面の話が出て、「あー、面白かったわねえ」ということになる。
そうなれると、各々が戻って行く場所で、良い空気を自分が作っていけるようになれる。それが大切。

子どものことを通じて様々な職種の人と付き合う。仕事をしていれば、それぞれの専門のところでの情報や人脈もある。親の介護や世話をしていれば、その方面での知恵もつく。さらに食べ物やおしゃれ、遊びや趣味に貪欲でもあれば、そこでもいろいろなものが取り込める。
そういう主婦の柔軟性と、それが作り上げる婦人像というものが何十冊もの小説となって、私の記憶に刻み込まれるのである。
したがって、そう沢山しゃかりきになって本を読む必要もない気がする。

【No.1160】雑記あれこれ…6月10日

◇『1Q84』が100万部だってー、すごいね。
イスラエルの受賞スピーチは、何かのロビー活動ではなく新刊PR活動だったのねと納得してしまう。いや、その時は、作家として何か一石投じたいという純粋な思いがあったのだとしても、「文藝春秋」に寄稿した時点で、PR活動に転化させてしまったように思える。それでは「うまいな~」と言われても仕方ない。
「壁に卵」の話をしたかったなら、受賞辞退でコメントとして出すことも可能だったのだから……。もっとも、辞退していたとしてもPRにはなる。天がPRの機会を与えてくれたのだな、きっと。新潮社のために……。

先週土曜に77万部と聞いたときに、「すごいことになっているなあ」と思い、amazonを見たら上巻に54件のカスタマーレビューがついていた。それが昨日は71件になっていて、行く行く1500件ぐらいになっていくと、どんどん削除されるのかどうなのかが気になった。
amazonの場合、カスタマーレビューだから、本を読んでいないのに、このたびの出版についてコメントしている人もいれば、途中まで読んだところで一言もらしている人もいて面白い。「書評」と銘打たないから、そういうのもありなのだと思った。

レビューをいくつか読んでいて、「空気さなぎ」という名の人が出てくると知り、正直「つまんな~い。寒くないか」と感じ、引いてしまった。『ねじまき鳥クロニクル』の最初の2巻あたりまではファンとして結構熱心に読んでいたのだが、3巻めが遅れて出て少しムッとした。
「空気さなぎ」なんて団塊おやじギャグみたいな名づけをせず、「壁当玉子」とでもしておくれと、お母さん、怒っちゃいましたよ。

それから他のレビューで「IQが84の人の話かと思った」というような内容のものがあったけど、実は私も5月末に新宿紀伊國屋南店にまるで倉庫の中の災害支援物資のようにどーんと積んであるのを遠巻きに眺め、同じように感じていたことを思い出した。
ドストエフスキーのような小説ということなので、あと6巻ぐらい出ることになると面白い。さらに第Ⅱ期を講談社に移して続けるとか。

売れているのは、『ぐりとぐら』のように親子2代にわたって、という感じなのだろうか。原因分析を「クローズアップ現代」でやることに期待。

◇図書館で借りてきた大人感覚の2冊の新刊。

左『空の飛びかた』は『リスと王さま』『リスとはじめての雪』の2冊で素晴らしいデッサン力を見せつけたドイツの絵本作家メッシェンモーザーの新作。
装丁に城所潤さんって、いい装丁家を起用している。確かに、題字や見返しの処理などセンス抜群である。
空から飛んできたペンギンに出くわした中年男性が、そのペンギンとしばらく過ごす話。前2作よりさらにミニマム化が進み、鉛筆線の躍動が楽しめる。が、デッサンはさらに進化、というよりシンプル化できる余地ありと見た。
地味だ、地味な本だ。読者や用途を考えると、思いつかない。中高生の課題図書にするか、数少ない絵本愛好家の蔵書か。

右『ほしにむすばれて』は、谷川俊太郎・絵本の新作。たなばた物である。小さな男の子が星の好きだったおじいちゃんのことを思い出しながら、夜空を見上げる。
「宵の明星」「夏の天の川」「月の満ち欠け」「火星」「土星」などが各見開きに描かれていく。星についての著書が多い画家えびなみつる氏が、細かく星空を描いている。自然科学ジャンルでなく、おはなし仕立てでリアルな星空の絵というのは珍しい。そういう意味でユニーク。話は年長ぐらいからでも分かるものだと思うけれども、絵と合わせて楽しめるのは小学中学年ぐらいからだろうか。

2冊とも、読みきかせではなく、ひとりで眺めて楽しむ絵柄であるかと思う。

◇ちょっとした知り合いが本を出した。

渋谷の奥座敷である円山町(うちのすぐ近所にお住まいの森田芳光監督の実家料亭もこのあたりだったと聞く)は元花街だが、最寄駅は神泉駅、そこにある「開花屋」という超繁盛店のオーナーシェフである丹下輝之氏の料理本である。
店はわいわいがやがやの雰囲気で、外国人客に大人気。私が前に行ったときも、雨だというのに外国人グループが傘をさして席の空くのを待っていた。場所柄、東大駒場の関係者も多い模様。

実は丹下氏の息子さんが、サッカークラブでうちの愚息と一緒であった。うちのとは違い、ボール扱いがしなやかで、パワーもすごい選手であったが、一度このパパ輝之氏が練習に遊びに来た時、走るスピードのあまりの速さに私はびっくりしてしまった。厨房じゃ、そう走り回れないと思うのだが……。
丹下氏は、かの「料理の鉄人」にも出るとかいう話があったと聞く。デパ地下に出店しているような店のおにぎりやアイスクリームの開発にも関わった経歴あり。
こちらがお店のホームページ。どこかに顔写真は出ていたかな。見るからに、うまいものを作りそうなお顔をしている。また、店が繁盛して当然というお顔でもある。お子さんはうらやましいことに4人いるのである。

【No.1159】幻想のコレクション…6月9日

図書館も好きだけれども、よくよく考えてみると、棚にある本のすべてが好きというわけではない。抜き出して、玄関前で焚書したいようなものも多くまぎれている。それを考えると、博物館の方が好きなのかもしれない。燃やしたくなるようなものは図書館よりはるかに少ない。
特に、2007年4月、14年をかけた改修を終えてグランドオープンした国立科学博物館――ここにあるものは、害虫の標本1つにしてもロマンを帯びているような気がしてしまう。

とりあえずは、「フーコーの振り子」とともに、ある程度の年の人なら必ず見て帰りたいと思う、忠犬ハチ公の剥製。絵本と並べてみる。

科博は日本館と地球館に分かれていて、日本館の方は昔ながらのレトロモダンな建物を使っている。展示に当たっては、柱や天井などが邪魔になるというデメリットもあったらしいが、建物の保存をしながら、建物を生かした展示を何とかしようという方針で、デザインを練りに練って陳列を完成させたということである。

こういう意匠が至るところに見られて、階段の昇り降りや廊下を歩くだけでも楽しい。美しいステンドグラスも沢山ある。

実は、国立西洋美術館に「ルーブル美術館展」を観に行ったのだ。赤坂の草ミッドタウン公園にほど近い国立新美術館の方で「ルーブル美術館展 美の宮殿の子どもたち」の方は5月に観ることができたのだが、上野は80分待ちであったので、諦めてしまった。
それですかさず、「きょうは石を見に行こう♪」と切り替え、すぐ横の科博へ向かった。
石はいろいろ置いてある。地球館と日本館に分けて、化石、隕石、鉱物などが置いてある。ちょうど今、ゾウの鼻くそ程度(失礼)の大きさの「月の石」展もやっている。

しかし、一番見たかったのは鉱物で、科博が誇るコレクションの1つ櫻井コレクションである。櫻井博士は、家業の料亭「ぼたん」を経営しながら、小学生の頃から好きだった鉱物をずっと集め、遂には日本の鉱物の9割を集め、ほとんど独自に研究に取り組んでいたのである。大きなものを選ぶのではなく、研究対象として意味のある形状のものを選ぶことにこだわったようだ。こちらの出版社・工作舎の日記に、そのコレクションの特徴のことが書いてある。
このコレクションは薄暗い、これ専用の小部屋に並べられている。1つ1つ眺めていると、もうどうしようもないぐらい美しい造化に陶然となってしまい、時を忘れる。こういうものを愛した稲垣足穂や宮澤賢治のことなども思いながら、宇宙的な神秘の力を秘めた石が、語りかけてくるのを受け止める。

石と言えば、最近はアクセサリーの業界で天然石がかなり来ている。
勝間和代さんのムックを少し立ち読みしていたときも、「スーツはブルックス・ブラザーズか。このネックレスは流行りのインカローズであるなあ」と眺めていた。ポジティヴ志向の彼女も、運の良いものの恩恵をしっかり受けながらの活躍のようだ。
天然石アクセサリーは、ブームのお陰で手に入れやすくなって結構なことである。身につけているとやはり、魔除けの効果も感じられるし、幸運を引き寄せている感じも確かにある。カットされた貴石を買っていると大変ということもあるが、むしろお高い宝石になったものより、天然石の方が身につけるには気軽で良く、さらには興味としては原石が面白い。天然石レベルだと、スピリチュアル・パワーをもらうというような、どこか儀式めいた感じもあるが、原石となると、これはもう、儀式のような文化的フィルターも通さない、人間と自然・宇宙の直接対話となる。

思い出せば、昔むかし、旅先のこちらの国立博物館で、充実しているけれども、ほこりをかぶったような標本を、随分長い時間をかけて飽かず眺めた。あの時、するりと素直に鉱物のもたらす幻にとらえられていれば、今は何かもっと別のことをしていたのかもしれない。

きょうは、特に岩手の和賀仙人鉱山から掘り出された「赤鉄鉱」の黒光に魅せられた。

鉱物の他には、「霧箱」という宇宙線の観察できる装置が素晴らしかった。
ボランティア・ガイドの感じ良い女性が、「きょうはよく見えます」と教えてくれた。その運も身につけたアクセサリーのお陰かと思ったが、身につけていたのは、ターコイズ色ではあるが七宝のネックレスであった。
霧箱は、何もかもが崩落していくようなイメージ、砂山が崩れ落ちていくようなイメージが、どこか幻視者スティーヴ・エリクソンの小説を思わせるのであった。この箱のなかで起きる現象も、どうしようもないぐらい美しい。ただ、こちらは鉱物と違って、美しいが物哀しい。

【No.1158】雑記あれこれ…6月6日

◇たまに書店でリチャード・ブローティガンのこの写真を見かけると――この写真は『アメリカの鱒釣り』の他、藤本和子『リチャード・ブローティガン』という評伝にも使われているが、「どうして『南こうせつ』がここにいるのだろう?」と思ってしまう時がある。


◇梅雨を意識する時季に思い出す吉行淳之介『砂の上の植物群』であるが、この雰囲気のある極めて詩的な題名――ロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏Ⅰジュスティーヌ』を読み始めてすぐのところに下のような一節があり、それをヒントに考えついた題名なのではないかと推察しているが、実際のところはどうであろう。
吉行がロレンス・ダレルやヘンリー・ミラーのような作家たちに感化を受けたということは十分に考えられることであるし……。

ぼくは記憶の鉄鎖をひとつひとつたぐって、ぼくたちがほんの僅かのあいだいっしょに住んでいたあの都会へ戻って行く。ぼくたちをおのれの植物群と見ていたあの都会、ぼくたちのなかに争いを巻き起こしたあの都会――その争いは彼女のものにほかならなかったのに、ぼくらは自分たちのものだと思い違えたのだ。愛するアリクサンドリア!
(高松雄一・訳)

父君が編集担当をしていたというこのシリーズ、坂本龍一氏も読んでいるのであろうね、きっと。

◇金曜日、「お天気も悪いし、かったるいな」とぼんやり電車に揺られて通い仕事に向かおうとしていた。
割に近くのところで、自分より少し下の年代とおぼしき主婦グループが楽しそうにお喋りしながら盛り上がっていて、「朝から元気な人たちがいるわい」とちらちら、たまに見るともなくぼんやり見ていたら、そのうちの1人がふいに背後から近寄ってきて、「びわちゃん、びわちゃん」と声を掛けてきたのでびっくりした。

というのは、「びわ」というのは、バーチャルの世を忍ぶ仮の姿であり、リアル世界では私は別の名の人間であるからだ。
「だ、だれだっ。私を『びわ』と生声で呼ぶのは?」と思ったら、もう1年以上も会っていなかった息子の小学生時代のママ友であった。陽気で前向きで、非常にしっかり者で好きな人なのである。

息子たちの中学受験時期に、模試の成績は4科目揃って点が取れず、必ずどれか1科目で失敗したり、尚且つ、模試を受ける度に偏差値が上下するということもあったりでタイプが似ており、互いに説明会を聞くべき学校が絞れず苦労した戦友でもあった。
「このぐらいのレベルのところで、どこかいい学校ない?」というように、見てきた学校の情報交換をしたこともある。
朝から元気な主婦グループは、それから学校説明会に行くということであった。ママ友は、今度は今年5年になった下のお子さんの方のための学校見学らしい。受験界は数年で変化するので、1人目で勝手が分かっていたとしても、新しい情報収集は欠かせないのだと拝察する。

うちの息子の学校はどうなのかということも、終点に到着するまでの間の短時間でポイントを絞ってコメントをしておいた。説明会の印象と入ってからの対応があまりに違う学校というのも多くある。「そういうのがなくて、入ってみてからの満足度が高かったわね」というのが息子の行っている学校のママ友20人以上との共通認識である。
「第一志望者じゃなかったけれど、かえってラッキー」というのは、子どもたちも感じていることのようだ。

「びわちゃんの、ネットでたまに見ているからね」と別れ際に言われ、何で知っているのかが分かった。
ミクシィに登録しているという話をしたことがあったので、しっかり者は、それでしっかり辿ってきたのであると思う。
ちなみに彼女、実に堅実にしているのであるが、かなりの有名人の妻なのである。まあ、かわいいブランドのバッグは手にはしていたけれども……。

◇オーラたっぷり本といかしたハードボイルド本を読了。記録を残しておきたい本が増えている。

◇きょうは学生時代の友たちと、ほんの少し贅沢ランチをしたあと、大学へ行き散歩。
きれいに整備され、新しい建物も次々建っている様子に驚く。「経営がうまく行っているのだね」と感心。
勉学にふさわしいキャンパスの雰囲気なので、子どもに行ってもらってもいい気になったが、そこでもまた再び学力が、偏差値が足りない雰囲気が……。

話題で盛り上がったのは、こちらに詳しい、大人のための水曜パスポートというやつ。
いや、しばらく前から、黒木瞳さんが黒いネズミの耳をつけているビジュアルを何回か目にしていたのであるが、それがおばちゃん狙いのパスポートの宣伝であるとは気づかなかった。
「水曜日限定というのがあざとい。フルタイムで働いていない主婦は、たいてい週の半ばに休みをはさんで仕事をしている。それが読まれている」「子どもたちはもう、親とは一緒に行ってくれない。じゃあ、これって、おばさんグループに来てもらって、ここでランチをしてねってこと?」「水曜に行くと、こういうおばさんグループでいっぱいってこと?」などと言いながら、食事をしていた。
確かに、「住宅ローンに教育費、親の介護や老後の心配など考えると大変」と言いながらも、少し働いたお金でお小遣いを確保していて融通がきくのは、子育てが7~8割終了の45歳以上という年代である。足腰もいかれていないし、介護にもまだ間もあるという感じ。

【No.1157】公園通りのエコ…6月3日


この作家の先生、吉永小百合さんの「Y千代日記」の脚本を書いた有名な人ですよね。

きょう、渋谷区神南のBEAMS隣の北谷公園に面したJ.S.バーガーズ・カフェで充実のハンバーガーを頂いていたら、あっちのテーブルでこの新刊の何冊かにサインしていた。
サインはいいのだけれど、乾かない銀ペンの移りを防ぐために、秘書か誰かが、バーガー店の紙ナプキンを1冊に1枚はさんでいたもので、近づいていって、「それはないでしょ。エコじゃないし……」と言いたくなった。
でもまあ、近所にお住まいなのか、常連さんのようだったのでやめといた。

J.S.バーガーズ・カフェは初めて入ったと思ったら、「ジャーナル・スタンダード」といういい感じの洋服屋さんの経営で、その頭文字なのだな。新宿高島屋向いのジャーナル・スタンダード3階の方に、今から3年ぐらい前に入ったことがあった。青山も隠れ家みたいなところにあったはず。
バーガーはおいしいです。
トッピングにアボガドをのせたら、とても良い選択であった。アボガドといっしょにクリームチーズか何かも勧められたけど、「きょうは節約しときます」と断る。Sサイズでは小さいので、Rサイズにして高くなったため。
「その間のサイズがあるといいんだけどな」とかわいい店員さんに言っといた。

帰りにパルコ地下のリブロで本3冊ゲット。
そこでもらったチケットで6階のギャラリー・スペースでやっていた「TOKYO1969」という展示を観る。
天井桟敷ほかの横尾忠則やら宇野亜喜良、永井一正などのポスターやら、ニール・ヤング、ツェッペリン、ベック他なつかしいロック・アーティストのアルバム・ジャケットの陳列。ジョンとヨーコのウェディング・アルバムも……。
昔に浸りたい人、クリエイティブなお仕事をしている人は見る価値ありという感じでしょうか。

リブロのところで、映画「ルーキーズ」のグッズを売っていて、メンバーたちの大きな写真が掛けてあった。
等身大の城田優くんが右端に写っていたので、隣に立ったところをショップの店員の女の子にケータイで撮ってもらおうかとも思ったのだが、「やめとこう。来年、確か50の大台にのるしなあ」と帰ってきた。
しかし、こうして書いているということは結構未練なのであろう。

【No.1156】米児童文学の実力派作家たち…5月31日+6月5日

児童文学づいているのは、前向き・上向きのエネルギーを流し込みたいからなのである。

『シカゴよりこわい町』『シカゴより好きな町』の2作がゴキゲンであったリチャード・ペック。
『ホーミニ・リッジ学校の奇跡!』につづけて『ミシシッピがくれたもの』も読んでみた。
The River between Usという原書をだいぶ前に読んでいたのだが、この作品は他3作のようなコメディー・タッチと違うので、ここに掲げた通りの柔らかい雰囲気のイラストよりも、原書の表紙のようなリアルな感じが良いように思う。

『ドリーム・ギバー』は『ザ・ギバー』でだいぶ前に話題になったロイス・ローリーの作品。
『ザ・ギバー』は「記憶を伝える者」の話で、『ドリーム・ギバー』は「夢を紡ぐ精霊たち」の話。

『ミシシッピがくれたもの』は、登場人物たちが子どもであり、児童文学作家が書いているので児童文学に区分されるのであろうが、日本人にあまり馴染みない南北戦争の一面を切り取っていて、「そうか。そういうこともあったのか」を知らされる作品。
西端に流れるミシシッピ川をミズーリとの州境とするイリノイ州は、南部の方で「南軍支持派」「北軍支持派」に分かれていたというのである。戦争初期は南軍支持派が多かったものの、やがてイリノイに北軍の歩兵連隊が置かれたり、北軍が南軍の港を封鎖したりなとで状況が変わり、北軍に入隊する者と南軍に入隊する者が出た。
舞台はセントルイスまで北には行かないグランドタワーという小さな町で、ある時、ここにミシシッピ河口近くのニューオーリンズからセントルイス目指して川を遡ってきた少女2人がやってきて、そこで足止めを食らってしまう。
片方は非常に華やかな都会的で最新のファッションで着飾った少女デルフィーン、もう片方は華やかな少女に仕えている黒人の少女カリンダである。町には、彼女たちにふさわしいホテルがないということで、物語の語り手であるティリーの家に滞在することになる。
デルフィーンの華やかさ、田舎風に馴染まない物腰や言動はたちまち町の注目となる。ティリーにとってはこの出来事が大きな刺激になり、物怖じすることなく自分の意思通りの言動をするデルフィーンに次第に影響を受けて行く。

読みどころは、ティリーの双子の兄弟であるノアが従軍し、傷病兵テントに収容されていることが分かり、そこにティリーとデルフィーンが訪ねて行く場面である。デルフィーンは、そこが想像を絶する不衛生な場所で医者が制止するにも拘わらず、ノアを見舞うため中に入り込み、ティリーと共に力を合わせ、兵士たちの置かれた状況を少しでも良くしようと励む。
クライマックスでは、そのようなデルフィーンについて、ティリーやノアが気づかなかった事実が明らかにされる。

デフォルメ気味の面白おかしい極端な人物造型が持ち味の、リチャード・ペック邦訳3作と違って、かなり深刻な展開の物語である。しかし、この作品もまた、素晴らしく「読ませる」出来で、この作家の幅の広さ、懐の深さを知らされる。

『ドリーム・ギバー』は『ザ・ギバー』同様、アイデアや設定が面白い。
人間のために、その人の記憶のかけらを部屋のなかから集め、それにまつわる幸福な夢を贈る役割を果たす精霊の『魔女の宅急便』的な修業の話。新米で、おきゃんな性格のリトレストを年配のエルダリーという精霊が温かく指導していく。
ここに、家庭崩壊で傷ついた母と息子の物語が絡んでくる。この絡んでくる物語は、割に普通。よくありがちな問題が明らかになり、そうあってほしいという方向へと徐々に進んでいく。実はそういう意味では、さほど「読ませる」内容にはなっていない気もする。
この物語は、夢を紡ぐ精霊ということで、ワンアイディアの物語とマッチさせるのではなく、その存在を何かもっ大きな物語のなかで活かすべきだったのではないかと思え、もったいない気もした。

【No.1155】意思が失われた時に望むこと…5月30日

午後から母校の高校に出かけ、楽しく、且つ有意義な時間を過ごした。
卒業生の同窓会の総会を行ったあとに、前は中井貴恵子(貴恵)さんのグループの読みきかせ、昨年は『源氏物語』の語りの企画があって、それから茶話会で歓談してお開きという流れの催しなのだが、今年は友だちを何人か誘ってみた。

久しぶりに顔を合わせる人たちとおいしいものを食べながら話せて楽しかったし、帰りには校庭で練習をしていたソフトボール・チームの顧問の先生(もう60歳になるというのだが、30年前と変わらぬカッコいい女傑)に旧姓で呼び掛けられ、「おーい、みんな。この人、昔ソフトやっていた、あなたたちの先輩だよ」と紹介され、「こんちはー。明日、F校と練習試合なんだって? しっかりかっとばしてね! 私もその昔、Fの剛腕ピッチャーからヒット打ったよ~。がんばれ~」とカツを入れて昂揚して、ヒールの高いパンプスでなくて「グランドを走れるスポーツシューズで行けば良かったぜい」と後悔して……。

そういう陽気なおばさんモードもあったが、今年の企画では都内の大きな病院で医療ソーシャルワーカーとして働いている卒業生の講演が聞け、さらに帰りに、誘った友だち2人から親の介護の話を聞き、下に挙げたような「終末期医療」「リビング・ウィル」「バイオエシックス」などについて少し見識を深めることができた。
正確に言うと、これからの人生を生き抜いて行くための知恵を授かったというよりは、私の場合、まだまだ他人事のような気にしかなれない。ソーシャルワーカーという仕事、そこに相談に来る人びと、今の日本の福祉行政の不備に翻弄されながら介護に当たる友だちのことが、まるで小説で読んで知らない世界を知ったかのように「世のなか、いろいろな人生があり過ぎる」といった感覚である。
そういう発想も不埒なのであるが、小説を書く人がこういう話を聞いたら、さぞや大きな刺激を受けて創作意欲が湧くであろうという感じである。

医療ソーシャルワーカーの場合、「社会福祉士」「精神保健福祉士」という2つの国家資格を持つことが最低条件のようである。
患者やその家族が、医療を受けたり、退院したり、在宅療養に移っていったりするときに、精神的不安や経済的不安などを抱えていることがある。ソーシャルワーカーは、そういったことの相談に乗って患者と家族、あるいは医療従事者の抱える問題を支援していく仕事なのだそうである。

個人情報保護の絡みがあるので事例を少し変えての説明であったが、具体的な相談の例をいくつか提示して、それをどういう手順で支援していったかという実践的な業務の説明がなされた。
例えば、幼い子どもたちがいる父親が突然倒れ、意識が戻らない状態になったとき、医療費や生活費をどうしていけば良いのかという妻の相談。
子育て中の妻がガンに侵され、食事ができず栄養点滴が必要な状態での終末期状態で家に帰る。このとき、生活や在宅治療をどのように支援してもらえば良いのかという相談。
年金収入はあるが、遠い親戚しか身よりのいない高齢者が食事制限の必要な病にかかっていて、認知症も悪化してきた。この人の退院に当たり、食事を含めた生活面、金銭管理をどうしていけば良いかという相談。
救急で搬送されてきた意識のない高齢者について、かろうじて名前や連絡先は分かった。しかし、身元を引き受けてくれる縁者が見つからない。どのような治療を進めていくべきかを誰がどう判断していくのか、治療費はどうするのかという相談。

こういったものに適応できる制度やサービスがいろいろ紹介された。
「高額療養費制度」「限度額認定証の手続き」「傷病手当金」「高齢者でなくても40歳以上の特定疾病に給付される介護保険金」「成年後見制度」といったものである。ほとんど初めて耳にする言葉であった。
大きな病院であれば何人かはいるソーシャルワーカーがこうして相談に乗ってくれるが、それにはもちろん地域格差があるだろうし、スタッフの不足も予想される。地域福祉の担当者との連携が必要不可欠であるが、この地域福祉担当者にかなりの温度差もあるようなのである。つまりすぐに熱心に動いてくれる体制が整っているところと、急ぎの状況を理解してくれず、やたらに時間がかかる窓口と……。

このような話のあとに、「いざ病気」に備え、どういう準備をしておくべきかという提案もあった。
そこで強調されたのが、「リビング・ウィル」を用意しておくということである。
ネットで調べると、臓器提供をどうするか、葬儀をどうするかといったこともリビング・ウィルに含めることもあるようなのだが、きょうの話は、医療についてのリビング・ウィルである。
認知症が進んだり、意識がなくなったりして判断不可能な状況になったとき、自分らしい最期にするため、医療をどこまで行ってもらうのかということを紙に書いて示し、家族や医師の確認を受けて残しておくことがこれから必要になってくるだろうということであった。
例えば、人工呼吸器をつけるのか、心臓マッサージをしてもらうのか、高カロリー輸液はどうするのか、点滴などによる水分補給は受けたいのか。

内容的にはそういうことなのであるが、一緒にいた友人は「呼吸器をつけるのに100万といった費用の問題も出てくるので、経済的なことも併せて考える必要がある」と言っていた。
「当面は年を取ってきた親のことが心配」という感じなのであるが、意識を失い、意思を伝えられなくなるというのは、高齢者になってからの疾病の場合だけではなく、突然の事故に見舞われた場合ということも有り得る。
医療スタッフが日々どういう事態に直面しながら働いているのか、介護をしている人が日々どういう葛藤や不安を抱えているのかという、かなり重い現実を知らされ、想像を超えたところにある状況をどう整理しておけば良いのか、これから考えをまとめるために、とりあえず書いてみたというところなのである。

【No.1154】天からの賜り物のつづき…5月28日

「粕谷の図書館は児童書が充実しているんですよ」と、読みきかせでよく一緒に組む仲間に教えてもらっていて、それがどういうものか気になっていた。
それで一昨日の午後、時間があればたまに行う「図書館で絵本の読みだめ」をそこで行おうと出かけていった。と言っても、実際は、おはなし会で使えそうな絵本の物色になるので、ぱっと開いて文章量がありそうなもの、描き込みの細かい絵柄の本はすぐに元の棚に戻してしまう。そういうものは、よほど気になったものだけ借りていき、自分のためにじっくり読む方に振り分ける。

都内には大型の書店がいくつかあり、そういうところもたまに巡回して探したり買い求めたりするのであるが、品揃えにはどこも限りがあるのだ。児童書や絵本の数がいくら揃っていそうに見えても、少し前に出た本、だいぶ出た前に出た本はどうしても、担当者の目配りが行き届いており、且つ商品として動く見込みのあるものに限って並べられるだけなので、「流通していないけれどもおはなし会を盛り上げられそうな本」は見つけられない。
書店と図書館に共通して並んでいるものも少なくないが、定番本以外の発掘には図書館の棚チェックが欠かせないのである。

途中、日大グランドで陸上部の選手たちが走るのを眺め、畑の多いとても世田谷とは思えない風景の中(元々は田園地帯だったのだけど)を抜けて、明大グランドでラガーメンたちが動き回るのに感激しながら、「ここにはトルストイからの英文の手紙が展示してあったなあ。○○先生や○○先生とご一緒したのは何年前のことだろう」と蘆花恒春園(徳富蘆花の住まい)のある芦花公園の横を通り、気分の良いサイクリングで現地到着。
住民センターの地下1階フロアだけの図書館なのでそう期待していなかったのだが、これがとても良い感じの図書館であった。ワンフロアだが、よく考えると102000冊の蔵書。これは世田谷区の図書館のなかでも多い方で、それが階段の上り下りをしなくて済むスペースに並べられているってすごい。
建物が新しく、比較的ゆったりしたスペースで、書架も下の段の方は見にくいのであるが、高さがちょうど良い。
しかし、そのような全容が分かったのはだいぶあとのことで、着いてすぐは、「とにかく何かを見つけなきゃ」と限りある時間を意識しながら、相当量の絵本棚に当たり、しゃがみながら出してはチェック、出してはチェックを繰り返した。
「ああ、この作家、こういうのも出していたか」「この本は前に見たけど、あの会ならば使えるかもしれない」「こっちの本も、あのテーマを切り口にすれば使える」など、いくつかの目的のためにメモを取ったり借りるつもりの本を抱え込んだりの作業をする。ざっと目を通してみるもの、前に見たはずなのに内容の展開を忘れてしまったので見直すもの、少しはじっと眺めるものなどさまざま。
小さい子の目線に合わせた棚は低いので、長身の私がしゃがみ込んだまま右に左に蟹歩きは結構辛い。

絵本のめどが経ったので気分転換に海外小説の文庫や単行本のラインナップも見に行くことにする。文庫の数はそうないが、単行本の方はかなり良い感じの選書であった。世田谷の場合、いくつかある図書館で新刊を分割して持っているので、よく売れた本はどこにも置いてあるが、地味な出版物は各館でバリエーションがあるようなのである。

そのようにしてフロアを歩いていると、地下1階なのに窓が設けられ、小さな外庭が眺められる気持ち良い作りになっていることが分かり、さらに窓の周辺が雑誌と閲覧椅子が置かれていて、なかなか気の利いたレイアウトであることが分かってきた。「時間があったらのんびり雑誌でも読みたいねえ」と思いつつ帰ろうとした。
しかし、そのとき、ふっと呼び戻される感じがあったのである、子どもの本のある場所に……。
「そうだな。子どもの読み物もどのぐらい置いてあるのか見といた方が……」
そういう気にさせられ、今度は絵本ではなく児童文学の棚を見ることにしたのである。

そこで出合ったのがシンガー『やぎと少年』なのだが、なぜ目についたのか。
この作品は過去に装丁を変えていくつかの形で出ていたようなのだが、私が目にしたのは1993年に出された「岩波 世界児童文学集 全30巻」の1冊であった。おそらく函入りだったと思われる。その函が取り払われ、本体の橙色のクロス貼り(「張り」かな?)のところに図書館装備用のコーティングがされているものだから、紙のカバーに背タイトルや著者名が印刷されている他の本の感じと違い、何か目立って見た人を吸引する力があった。束(つか)、つまり本の厚さは15ミリほどしかないのに、何か違うぞという存在感を放っていたのである。
クロス貼りなので、背タイトルは当然のように金の箔押し文字である。「箔押し萌え」の私がこれを見逃せるわけがない。そして、著者名は箔押しでは読みにくいのか、パソコンで打ち出し印刷した紙片が貼られていた。こういう地道な図書館担当者の仕事がまた「萌え」なのである。
ぜひとも読んで欲しい重要な本だから、古めの本なのにそこに並べられ、しかも手を加えられている。そのことが分かった。しかし、子どもたちが好んで手に取る「なり」をしているとは思えない。そういう本は私が読まなければならないのである。
「ああ、これは、私のような読者が現れることを待っていた本なのだ」――確信を持って有難く借りてきたのであった。
子どものための活動をし、その仲間から図書館の評判を聞き、行ってみたら出合った。しかし、それだけでなく、海外文学をよく読んでいたからシンガーのことを知っており、もっと読みたいと思っていた。さらにこれらに遡る糸もたぐり寄せることはできる。いくつもの小さなきっかけが重なり合い、ある一日の終わりに「天からの賜り物」はもたらされたのである。

同書は世界文学集のシリーズはすでに品切れのようだが、別の上製本の形(24時間内発送のバリバリの現役本)で、岩波書店に在庫があるようである。そばに置いておきたいと思う。
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
最近のコメント
最近のトラックバック
RSSフィード
ブログ内検索
リンク
QRコード
QRコード
FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。