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【No.1140】その分、長生きする…3月21日

世間的には3連休で、せめて箱根の温泉あたりでも行ければ良かったのだが……。
このところ息子が家族とは一切出かけたくないということで旅行の計画を立てさせてもらえないし、家人は年明けから繁忙で、この連休をはさんで長期出張中。
私は私で、連日それなりの用事があって対応して、今夜も今から食事の片付けのあとに仕事を広げようかと思っているところである。仕事も、もうちっとがちっと勤めに出て働ければ良いが、(パワーは充分であっても)年が年であるようだし、景気も景気であるので、このままずっとこぼれ落ちてくるような仕事を有難く受け止め、日銭稼ぎにいそしむ。日銭稼ぎなりに実績らしきものも出てきたので、それを武器として挑戦してみようかということも控えている。
また、仕事にはあまり関係なく、良い本を探しながら読んで書いて考えて、読みきかせもして、社会的な活動の充実も図りたい意欲はあるので、新年度に向けて、それなりの仕切り直しを整えつつある(真人間みたいなこと、書いているなあ)。

お彼岸ということで、もう一体何年前になるのか、ある女の子の結婚パーティーで、花粉症によるノドのトラブルと闘いながら、かすれた声でさせてもらったお祝いのスピーチを思い出していた。
そこで触れたエピソードなのだが、「深いイイ話」があるのだ。

彼女は、私が様々な印刷物の制作をしていたときに、同じ場所で働いていた同僚であった。年齢は私より2つ3つ下だったと思う。
「同僚」と言っても、彼女がグループ企業の本社プロパーなのに対し、私はその系列会社のプロパーであった。しばらく机を並べていたことがあり、あるとき、出身学校の話をしていた折だったか、彼女のお兄さんが、学生時代の私の遊び仲間であることが判明してびっくりした。おバカなサークルで大騒ぎしていたときの先輩が何とお兄さん、その人であったのだ。

そのお兄さんは体育会応援団風のいなせな人で、普段は人当たりがいい。だが、怒らせると物凄い怖そうな人であった。暴力団系の怖さに通じる強面になることもあり、ファーストネームもそれなりのびしっとした趣きあるものなのであった。
で、いつもその人は「俺の名は○○だが、妹の名は銀子」と言っていた。「そうか、妹は銀子か。さすがに釣り合いのいい名前だわい」と皆で感心していたので、机の隣で働いているみやびな名の女の子が妹だとは夢にも思わなかったのである。
おそらくそういういきさつがあったので、彼女のお兄さんも当然列席している結婚パーティーで祝辞という運びになったのだと思う。

私のスピーチは長めになってしまって申し訳なかったが、まずその偶然の巡り合わせについて説明をさせてもらった。
それから、お彼岸に結婚式をしたことがとても良かったのではないかということを述べさせてもらった。

ご兄妹のお父上は、しばらく前に亡くなっていた。中堅商社に勤めるビジネスマンとなった先輩が、郷里でひとりになってしまったお母上を東京の自分の家族のところへ迎えたという話を聞き、(それは今どきなかなかできない親孝行だ。さすがだな)と尊敬の念を新たにしていたのである。同居をする奥さんも大したもので、その人柄の良さは、毎年くれる年賀状で知っている。

のちに東南アジアの地へ長きにわたって家族と赴任した先輩は、会社の事業の基幹を担うバリバリの商社マンとなったわけだが、大学は2浪して入っていた。
「2浪は結構辛いものがありましたね。親御さんは何て言っていましたか」と、学生時代に尋ねたことがある。
すると、こういう答が戻ってきた。
「親父には、2年無駄にしたんだから、人より2年長く生きりゃいいんじゃないか、と言われたよ」
独特のカッカッカッという感じの豪快な笑いと共に漏れてきた言葉なのであるが、私は(そういう発想があるのか、やはり父親も豪快な傑物だなあ)と、いたく感じ入ったのだ。

この常識を引っくり返すような胸をすく言葉が、それからずっと頭に残っていた。
特に子どもが乳幼児のころは、自分の思い通りに好きなことに取り組めない。自分がこうして子どもの世話をしている間に、世間はどんどん動いて行ってしまう――そういった焦燥感は、多くの母親が抱えるものであろう。
そういうとき私は、「いいや、今できない分、どうせ自分は長生きするから、あとでやろう」と思ってしのいできたのである。それは今も同じで、やらなくてはいけないことに追い回される時、「いいや、どうせその分、私は長生きするから」と唱える。そうすると、つまらなく思える作業であっても、腰を据え、へこたれるどころか余裕ゆえの楽しささえ感じて取り組むことができるようになる。

そういう豪快な発想の父親のお子さんたちにふさわしく、兄は商社マンとして、妹は会社勤めを一段落させて米国に留学して、国際的に羽ばたいた。亡くなったお父さまも、彼岸が娘の結婚式で喜んでいることだろう。亡くなった人の冥福を祈るのに、今日の慶事は何よりではないか。そういうようなことを話した記憶がある。

「できることは先に伸ばさない。今すぐ取り掛かれ!」という考えがビジネス啓発書の類いには多いように思う。
それもまた1つの真理ではあろうが、何でも効率よく片付けていくという発想は、個人の命を縮める。太く短く生きたいのなら、そうすれば良かろう。だがしかし、効率を突き詰めてきたから、今のような社会の状態に至ったのであろう。
これからは、先々まで健康で生きていき、遠い将来のため、やりたいことに取り組むパワーを温存しておくということで、「その分、長生きをする」という発想に切り替えるのも悪くない。人だけでなく、組織もまた同様に……。
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【No.1139】雑記あれこれ…3月16日

◇テリー伊藤が出るというので、昨日夜NHKの再放送で「総理にきく」を観てみたが、どうもおとなしめでスマートな突っ込みで、そういう人当たり(NHk当たり)の良さも一面としてあるヌエみたいなところは政治家向きなのだろうと思う。

日商会頭の東芝会長・岡村正氏の端正さ、それでいながら「選挙は政策論争にしてほしい」とずばりぴたりとポイントを突いた提言に共感を持つ。まあ、中長期を展望しながら経営戦略を練る企業人にとっては、当たり前すぎるほど当たり前の希望なのだが、それは生涯設計を描く国民にとっても同様なのだが、ここ何回かの選挙はマトモな政策論争になっていた記憶がないので、改めてお願いすると新鮮な感じ。
昔の自由民主党、社会党、共産党、公明党といった政党の時代には、イデオロギーと、それに基づく政策がはっきりしていたから、大人が子どもに特色を説明するのはやり易かった。今は経済政策をどうするのか、福祉をどう考えるのか、憲法をどう捉えるのかなど、どうも立場がすっきり伝わってこない。
岡村氏が「技術を力に環境立国を」というのは、東芝の人なれば自然な発想であり、もしかして技術畑出の経営者なのかと思いきや、ググって調べてみると中野区出身→戸山高校→東大法学部で、東大ラグビー部とのこと。
財界のトップになっていく人って決して仕事人間ではなく、良い趣味を持っていたり、意外な側面を持っていたりすることが多い。だからこそどっぷり漬かったところでの判断ではなく、しなやかに意思決定していく力が養われるのだろう。

それはさて置き、本当はテリー伊藤ではなく、ビートたけしのはずであったとこちらで知り、ううむ、残念。
しかし、確かにビートたけしではどうなっちゃうのかが予想つかず、番組制作担当者がクビを賭けることにもなりかねないので、ああいう作りで仕方なかったのだろう。

◇卒業式シーズンで、今月に入ってから袴姿の若い女性たちをよく見る。
着物はそれぞれにきれいなのだが、髪型や髪飾りを見ると「あんたら、キャバクラのコスプレデーかっ!?」と思わず問いかけたくなるようなキャバさである。清楚で「ハイカラさん」というイメージのお嬢を見たいものである。
私が卒業をした1980年代半ばあたりには、袴姿はまだ20人に1人か30人に1人ぐらいの珍しい装いであった。振り袖姿という人が何人かいた。
私は洋装で、片方の肩にベルベットの黒リボンがついた銀色系のドレスであった。まだウォークインクローゼットに入っている。
何も時々出してきて、コスプレを楽しむことはないのだが、どうしたものかをもう四半世紀以上考えているのである。

◇もう2週間ほど前のこと。体が密着するほどではないが、結構混んでいる朝の通勤電車に、黒いダウンジャケットを着て、首に白いストールを巻いた、よくあるファッションの20代とおぼしき女性が乗り込んできた。
そいつ、まさに乗り込むために片足を電車に掛けた瞬間に、いなり寿司を一口食べていましたよ。

左手に持っていたのは、コンビニに売っているような3個入りのケースで、右手に割りばし。1個めの一口めを口に入れたと同時に乗り込み、ドアの片隅にポジションを定め、そして窓の方ではなく、内側を向いたまま、そのいなり寿司の詰め合わせを食べ続けていた。多くの乗客と向かい合う格好である。
「いや、大した玉だね」と出かけた声を飲み込んだ私。久々のインパクトであった。
それでも、いろいろ状況設定を考えてはみた。シングルマザーでパートのハシゴをしていて、次の職場に行くのに食事時間が取れず、やむなく移動中に食べているのであろう、いや異文化の人なのかもしれない……というように。

女性に関するインパクトものを拾うとすると、数年前、新宿駅で階段を上がっているときに、高さ6センチぐらいのハイヒールのヒールだけがもげて、そこに転がって落ちていた。持ち主というか、履き主というのか、その人がどういう格好で歩いて行ったのかを考えると面白いが、同伴の男性が抱き上げて行ってくれたなどという絵を想像すると、いくらかロマンティックではないですか。

あと1つは、かんざしの話である。子どもがバブちゃんだった頃だから、もう13年の昔のことになる。埼玉のスーパーで買い物をして品物を袋に詰めていたら、隣にいた山んばっぽい(渋谷のセンター街にかつていたようなのではなく、昔話に出てくるような本当の山んば)年配女性が髪をくしゃくしゃのダンゴにしていた。
そして、そこに刺さっていたのが何と割りばしなのだが、何本か刺さっていたもののうち、真ん中でベキッと折ったものも混じっていて、「怖っ!」とのけぞった。
ちょうどこんな感じの山んば
この本はシリーズになっていて、小学中学年向けでなかなか楽しい

見方を変えれば、どれも都市怪談として通用しそうである。

【No.1138】風の男たちとそよ風の子どもたちのつづき…3月10日

この時期の読みきかせに良い本のご案内。
候補がいろいろあっても、30分程度のおはなし会を誰かと組んでやると、自分が使えるのは3冊ほど。
だから、実際には子どもたちの前で試していない本もある。

この3冊は、テーマが引越や入学。
プログラムの流れにも左右されるが、どれも文字量がそこそこあるお話なので、就園前の小さな子たち相手だと、ざわついた場所で読むのはやや辛い。読み手の力量やら、しっかり聞けるお友だちが周囲に揃っているかやら他の要素もあるのかしらんが、最後まで集中してもらうには微妙な長さ。
どれも、お話の内容は良い。

『と・も・だ・ち』は、イギリスの絵本。新しい家に越してきたアンディが友だちを作りに出かける。彼は一緒に泳いで遊んでもらえる友だちを探している。けど、ゴミ捨て場で遊んでいる子やお転婆な女の子、ロックンローラーみたいな子や博士みたいな子の様子を見て、引いて、親交を深められずに帰ってきてしまう(大人の皆さんも自己投影でき楽しめそう)。
でも、母親に「もし、おともだちを つくりたいのなら、あいての ありのままを、だいじに おもってあげなきゃ、ね」(まつかわまゆみ訳)と言われて、出直す。すると、昼間それぞれひとりで遊んでいた子たちがペアになって遊んでいるのを見て、(もしかしたら、ともだちを つくるのって、およぐことより だいじなのかも。)と思う。で、一人ひとり相手に、どう一緒に遊べるかを仕切り直す。……とまあ、ネットやケータイ依存のひきこもり傾向にある人を集めて読みたいような一冊(笑)。
向こうの本なので、「だきしめて」「キスして」という表現があり、場を選ぶ必要があるけれども、絵の感じもしゃれている。

『くものがっこう』は『葉っぱのフレディ』のみらいななさんの作。
雲の子の「うんぼく」「うんなん」「うんせい」「うんとん」が学校に入る。そこでは、隣同士で体をぴったり寄せ、皆で曇り空を作れるようになったら卒業なのだ。それで、いろいろな形に変われるように練習を始める。丸や三角、長い四角、好きな形など。
こういう設定が面白いし、最後に曇り空を見事に作ったあとの展開が素晴らしい。だって「クライマックスが曇り空じゃ、絵的にどうなのだろう」と思うわけですよ。そこから絵がカラフルになり、その絵が心に残るような流れにしている。非常に良い後味。
この本は、学校現場で助け合って何かに取り組まなきゃいけないようなとき、例えば運動会の出し物の練習をするようなときに、導入としても良い。対象は中学年ぐらいまでかな。

『ランドセルがやってきた』は良い企画。ランドセルを扱った絵本はあるが、おはなし会で使いたくなるような楽しいものって、あまり思い浮かばない。
中川ひろたか&村上康成の定番コンビなので、パフォーマンスは水準を行くもの。五味太郎、とよたかずひこ、村上康成といった絵本作家の作品は「また、この人のこの絵柄か」と受け止めてしまうけど、必ず絵にアイデアがあるので、選書としては手堅い。
これは、学校から帰ると、おじいちゃんから入学祝いとして送られてきたランドセルが届いているところから始まる話。色がどうだ、匂いがどうだ、大きさがどうだと形状をめぐる話を母親としていて、その辺にあった新聞や家計簿などを入れて、かついでみることになる。かついでみると外へも行きたくなり、出かけて行って、近所の人たちに声をかけてもらえる。
ご近所コミュニティが機能している社会が羨ましくなるような設定で、子どもたちが育つ環境がこうあることを願ってやまない、という筋違いのコメントをつけたくなる。

こちらの3冊は春らしい本。
『とってもいいひ』はプログラムの最初に持ってくるといい感じであった。
最初は「なんて わるいひ なんだろう」(いしいむつみ訳)で始まる。それで表紙にいる鳥や動物たちに起こった良くないことが順番に紹介されていく。半ばぐらいに「でもね でも そのあとで」で切り返しがあり、「災い転じて……」良くなる状況が紹介されていく。
すきっと短いが、絵柄がくっきりしていて一画面ずつのインパクト強く、焦らずゆったりと読んで聞かせられるのが良い。題通り「とっても いいひ」で終わるので、「さあ、これから何を読もうか」と続けていける雰囲気が整う。

『ふしぎなはなや』はミステリ風。
けんたという男の子が語り手で、彼のうちは花屋。男の子なのに花屋なんて、と思っている。
父親が温室で花の栽培をしていて、母親が店でそれを売っている。どちらの仕事ぶりも不思議で、それもそのはず2人は魔法使い。知らぬは息子ばかりなりで、夜、夫婦は息子が跡を継いでくれるかどうか話をしている。
杉浦範茂画伯の絵が絶品ですね。これ、元は「キンダーおはなしえほん」という幼稚園児向けペーパーバック絵本だったようで、一般書店では流通しなかったものだけど、眠っていた作品をよく掘り起こしてきた。と言うより、杉浦範茂作品をペーパーバックだけで放置しておいたのは失礼だった。上製本になって、よかった、よかった。

『ちびっこぴいた』は期待の新人作家こばやしえりこさんの作品。タブロー画では内外で活躍の実績があるということで、絵はかわいいし、きれいだし、ユーモアもあるし、デッサン力はあるし……。ただ、お話が長過ぎる。長過ぎて、とても会では扱えなかった。
カイツブリの夫婦に生まれた3羽の赤ちゃんの末っ子の話。エサを探しに行って、お兄ちゃんやお姉ちゃんにかなわなかったり、池のあちこちで珍しいものに会ったり、怖い目にあったりなのだが、繰り返し話のパターンが3つほど織り込まれるのは辛い。見せたい絵ばかりだったと思うが、欲張らず画面数も文字数も削った方が良かった。しかし、すべての絵本が読みきかせ用というわけではない。夜、お話好きな子を寝かしつけるには、じっくりこのぐらいの分量の本で満足させてあげたい。

『こんこん こんなかお』も村上康成本。お話を作ったのはますだゆうこさん。
パートナーが見つけてきてくれた本だが、「りんごに顔があるとどうなるか→笑い顔」「やかんならば→おこり顔」という具合に次々展開していくので、皆で絵の真似をして遊ぶのに楽しい。そうやって体や顔を動かすようにしてあげると、場がほぐれますから……。
おはなし会をする人にとっては、大変に有り難い内容の本。

【No.1137】風の男たちとそよ風の子どもたち…3月8日

きのう50分ぐらいだけ白洲次郎のドラマを見てみた。
日本で初めてジーンズ(リーバイスかな?右の写真)をはいたと言われている男性ですね。

この2冊をしばらく前に読んで、おふたりが暮らしていた武相荘も何年か前に行って、ここにレポートも書いて、私の中のブームは去っているけれども、ドラマの選曲、映像の感じ、調度品・衣装などの美術はなかなか良いと思った。
あの役者もなかなかどうしていい男だ。ただ、白洲正子が何かヤク中みたいに表されちゃっていて、彼女が語っている設定というのがどうも……。もちっと、さばさば喋った人なんじゃないかというイメージを持っていたので、ピンとこなかった。

あすこに河上徹太郎が出てきていて、彼の著書『日本のアウトサイダー』は私が学生の頃の教養必読図書みたいな扱いで大層刺激的だったのだが、けしからん。中公文庫も新潮文庫も品切れ。現在、新潮社でオンデマンド出版だけしている。
ちなみにアウトサイダーとして書かれていたのは中原中也、萩原朔太郎、三好達治、梶井基次郎、堀辰雄、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三などの面々。
河上徹太郎は、最近読んだ『吉田健一対談集成』(講談社文芸文庫)でも、計3章分、吉田茂の御曹司・健一と対談していて、日本の世紀末なんぞについて語っていて、面白い。

風のような冒険家と言えば、最近は石川直樹氏だろうか。
おとといの6日夜は世田谷文学館における『パリデギ』を書いた韓国人作家・黄皙暎氏の講演会を見送り、その前は六本木の青山ブックセンターでチラシをもらっておいた沼野恭子氏『ロシア文学の食卓』のトーク、そしてブルース・チャトウィン『ソングライン』の新装版で解説を書いた石川直樹氏のトークも見送ってしまった。

成し遂げた冒険のいくつかには「最年少で」と冠がつき、将来を嘱望されていた石川氏については、大変に気の毒としか言えない事故に見舞われた上、ネット上でもかなり炎上的な酷い叩きがあったようだが、写真と文章での今後の表現に期待したい。
と言うのも、ご本人は嫌がるかもしれないが、石川淳がおじいちゃんなんでしょ?
おじいちゃんトークの面白いDAIGOちゃんじゃないけど、そういう意味でも応援したい気になる。

石川淳は亡くなった作家しか所収されないらしい岩波文庫に珍しく存命中に所収された『至福千年』、私は持っているからいいけど、これは品切れ。
他に『狂風記』はまさに風の男の小説。あと、こちらの『紫苑物語』『六道遊行』という作品に、中村びわという人が何か書いているよ。
石川直樹氏が前に新聞で書いていたエッセイで、一般人がお仕着せの観光で出かけることなど「旅」じゃない、自己と向き合うのが旅だというように書いていたことについては、「頭、カタいんじゃない?」と思ったけど……。

最近、大磯の吉田茂邸と鶴川の白洲邸「武相荘」をめぐるバスツアーがよく宣伝されているけれども、刷り込まれたものの再確認だって、日ごろ出つけない人には新しい空気を吸う行為として、旅の意味はあるのだと思うよ。
たとえば、私は白洲邸に行ったとき、ある隅っこの地面の株から生え始めた青い葉を見て、それがホトトギスだと分かった。自分の家の狭い敷地にもその株があるからホトトギスだと分かった。とても地味な植物なんですよ。
でも、それがなぜホトトギスと呼ばれているかということを知ってたりすると味わい深い植物なのだ。そのように、人は独自の体験に照らし合わせ、冒険のような大げさなものでなくても、知の冒険のひとときを持てるのである。お手軽バスツアーの中であったとしても、そういう体験ができるなら、そういうものを旅と呼ぶことに何のためらいもない。
テレビで見たおいしいものを直接食べに行き、「ああ、やっぱりおいしい」と確かめに行くのだって、そういうことで満足の行く自分を確認するのであるから、何を旅の価値、満足にするかというのは、何も他者のケースを否定しながら傲慢に書くことではない。ただ、自分にとっての旅や冒険の価値を表現してみれば良いだけのこと。
チャトウィン『ソングライン』はそのうち読んでみたい。二コール・キッドマンの映画「オーストラリア」とカップリングで楽しむと良いのかも……。

そうそう、風の男・白洲次郎については、西武流通グループ総帥であった堤清二こと辻井喬氏が小説を書こうとして、白洲さんは生まれが貴族的だから面白い小説にならないかもしれないと考えてやめて、代わりに財界四天王・水野成夫について新聞小説で書いたという経緯もあった。
その題が『風の生涯』なのである。ここのリンクでも、中村びわという人が何か書いているよ。
<つづく→つづきは子どもたち用の本の話の予定>

1月行った、2月逃げた、3月は去るか…3月1日

今日はこちらにも坂東真理子風に書いています。ということで、「品格」に触れる話を少しばかり。

マイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』(新潮社クレスト・ブックス)、かなり良い。オンダーチェは美しいものを、そう表現してほしいという形で書いてくれる。
あっ、ただ、この小説は「小説読み」として、中級ぐらいでないと楽しめないと思いますよ。

例えば、このなかに白人の少女が家出して、ヒッチハイクで黒人ドライバーのトラックに拾ってもらうエピソードがある。
読み手は、何かむごいことが起こるのではないかと不穏なものを想像する。しかし、それを裏切るような良いエピソードを提供するのだ。どういうものかは具体的には書けないが、「人情ってそういうものだよな」と思わせるような救いをこちらへ投げてくれる。

オンダーチェはスリランカの富裕層の出身であるが、いろいろな血が混じっているために、人種という面で何かいやなことに遭ってきたのかもしれない。だからこういうものが書けるとも安直に考えられる。つまり、黒人という弱者にありきたりの役割を与えないということだ。

ところがカーレド・ホッセイニというアフガニスタン出身のベストセラー作家。
『千の輝く太陽』は良い出来なのだが、「ちょっとこれは勘弁してほしいな」と思わせるような挿話を書く。生理的にいや~な感じの残るエピソードである。それは、映画でヒットした『君のためなら千回でも』にも同様のものがあった。
前に、南アフリカのクッツェー(ノーベル賞作家)の作品でも感じたのだが、そういう小説の性質が私は苦手だ。
これは、初めて会った人に清潔感がなかったり、何か人品卑しい感じの笑い方をされたり話をされたりすると、あんまり親しくはなりたくないと感じてしまうのと同じ。無論、自分がそういうファースト・インプレッションを与えていないかどうかは常に気になるところ。

むごいエピソードを書くのであっても、それを取り上げる微妙なタイミングや、切り口などで、作家の「真」の在りかのようなものが透けて見える。
作品の出来不出来という評価とは別のところで好き好きが決まり、それが読み手独自の評価につながる。そういうところを的確な言葉で表現できることに私は1つの幸せを感ずる。

見出しには関係のない話になった。
見出しを振ったときは、まったく別の軽い話を書こうとしていたのであった。

【No.1136】パラダイム・シフト…2月28日

金融システムや経済体制に疎いので、まったくの当てずっぽうの与太で恐縮だが、今朝、シティグループが政府管理下に入ったというニュースを聞いて「こりゃ大変だねー」と思い、ふっと頭をよぎったのは……。

これから4月にかけて、もう一段、二段ずっこけていくような感じになると、かなり思い切った世界経済の立て直しが必要なのだろうな、ということ。
つまり、変動相場制を固定相場制に一時的にでも切り替えていき、世界経済を緩やかな回復へ向けて再編するようコントロールしていくためのパラダイム・シフトも必要になってくるのではないか。

無論、状況は世界大戦の後あたりとは大幅に違っていて、どこからどう手をつけるべきかに困ってしまう。とりあえず石油を産出しているアラブの皆さんには、石油価格をそこそこの産出量と価格でコンスタントに供給してもらうようお願いする。それをベースに、各国が「貿易」と「国内生産」のバランスを図り、世界経済へリンクさせていくというようなイメージなのだろうか。まあ、各国が内需に悩み、貿易も国内生産も取るべき舵を失ってしまっているところが問題の根本なのだろうが。
固定相場制は「たとえばそういう発想で」というシフトの例にしか過ぎないから、もっといいシフトの方法があると良いと思う。

もし経済活動を公的機関の保護・管理下で行うようにしたら、発展途上の中国、インド、アフリカ諸国などは黙っちゃいられないだろう。発展途上国では人口が増加しているわけだから、それに見合った大幅成長をさせていかないと餓死者が多数出るということになる。
また、ユーロや米国はじめ先進国間での利害がもろにぶつかる。独特のスタンスに立つロシアも乗ってはこないだろう。それにこれだけ多国籍企業が増えて、そんな体制が取れっこないということもあり、さらに民族や宗教の利害も絡む。

そして、最大の課題は誰がシフトのリーダーになれるかということだ。
本当は、非武装で国連の常任理事国でもなく、国民の貯金高が比較的高いという意味では余裕のある日本あたりが、世界中の優秀な経済学者やリーダーたちに呼びかけをして、会議でも企画していかにゃならんのよ、きっと。自分の政党が次の選挙で勝てるかどうかという目先の利害ばかり考えて、時間を蕩尽している場合ではない。与党も野党も……。
それからオバマ大統領だが、彼は米国のリーダーであって、世界平和に向けてのリーダーとしての手腕はもしかしたらあるのかもしれないが、どうも世界経済再編の立役者としてはミスキャストという印象だ。
いずれにせよ、オバマ大統領と麻生総理が並んでみたところで、その種の会話が交わされたのかどうかを問うのは野暮だろう。はああぁ、あ、あ……ですね。

私もあと5年ぐらい真剣に経済の勉強をしたら、総理大臣にでもなれそうか(笑)。今は早起きして子どもの弁当作りをしないといけないので、頼まれてもやらないけどな。

最後にもちっとファンタジックな話で流しておくとすると、「世界的な経済不況というのは地球という星のホメオスタシスなのかなと」も思うわけである。ホメオスタシスというのは生体均衡とでも訳すのかしら。
つまり、地球くんが温暖化でもって「近ごろ何だか息苦しいなあ」と感じているわけですよ。それで、私たちの体がウイルスと闘うときに熱を出すように、地球温暖化を抑えるために活発になりすぎた人間どもの経済活動、ひいては人間活動全体、人口増大を抑制するために経済を押さえつけようとしている。

ただ、温暖化自体もそう単純なものではない。経済が停滞すれば温室効果ガスも減るだろうというものでもなかろう。
先進国で技術開発にいそしんで温室効果ガスを吸着したり抑制したりするしかないという状況になってきている。明かりを消して夜の活動を停止したり、寒いのにあっためてもらうのをやめたりというようにして、便利なライフスタイルをあきらめていく努力をほとんどの人がしようとは思っていないから……。
この状況で、もし先進国が停滞してしまったら、温暖化抑止のための技術開発も停滞してしまうので、温暖化に対する術(すべ)も失ってしまうということになる。
地球くんの生体均衡も実はヤキが回ってしまっているということなのかもしれない。

【No.1135】売れ筋に付加価値をつける…2月26日


「こんな定番絵本ばかり並べて、この人いったい何を語るつもりか」と受け止められそうだ。
確かに『たまごのあかちゃん』なんて、おはなし会で何回読んだことか。

だが、書影をクリックしてみそ。価格にびっくりするはず。

さっき知ったばかりだが、この福音館書店の3冊、1月に大型絵本が出ていたのである。
どれも何十万部か売れ、左と右はおそらく100万、200万単位、いやもっと売れていると思うが、この大型化に「いいとこ突いてくるよ」と感心。
図書館や公民館、児童館などのおはなし会では、赤ちゃん、乳幼児向けおはなし会が定着しつつある。お母さんたちの育児ストレスを軽減するため、行政が仲間づくりの場を提供する目的があるからだ。そこで活用できる。5880円の本だが、500部、1000部は楽に売り切りそうである。
私も6000円弱ならマイブックで持っていてもいいかという気にさせられた(とりあえず、次回おはなし会用は図書館で予約したけどねっ)。

『きんぎょがにげた』は「かくし絵」になっていて、赤いきんぎょが赤いものが多いところにまぎれこむのを探して遊ぶのだが、遠目があまりきかない。よって、こじんまりしたおはなし会でしか活用はできなかった。でも大型化されると小さい子たちと遊べて楽しいよね。
まあ、大型絵本はプログラムの最後にしか使えないものだけどね。その理由は、よく考えてみてくださいまし。

さてさて景気が「ずんどこ」ですが(笑)、このように定番や売れ筋を見直し、ちょっとした価値を付けて新たな需要を掘り起こすというのは商売の基本ですよね。
福音館書店は、編集と営業のバランスが良い出版社だと昔から思っている。
「大したことがない企画を営業力にまかせて売りまくる」「とても丁寧な物作りをしているのに営業センスがない」など、企業のカラーはさまざまだと思うが(出版で言うと、P社とI社かなあ)、見習うべきところがあると思う。他の業界でも……。

しかし、この企画、正直、覇者ひとり勝ち的なところもあるように思う。

【No.1134】ロシア美人…2月25日

『ロシア文学の食卓』で思い出したが、こちらの「ロシア美人」が4月に久しぶりに来日されるみたいで……。東急文化村へ。
昔、上野で公開されたときは、2時間待ちというような行列ができていたように記憶する。そのときに私は見ていない。

ロシアで一番の美人だと思うが、私よりはちょっと落ちるか……(爆笑)。
「忘れえぬ人」という邦題がついていたかな。ナボコフの小説の挿絵になりそうな女性である。

このところ少しだけロシアづいていて、『ロシア文学の食卓』を読むしばらく前、ロシア系のやや贅沢なアクセサリーを手に入れた。
ロシア夫人のおしゃれというと、毛皮にびろうど、そして金やその宝飾品というイメージだ。

『ロシア文学の食卓』を書いた沼野恭子氏も、近影を見ると、そういうものが似合いそうなワイルドっぽい美人。
ご主人(ですよね。お兄さんではなく)は、ああいう教養のある美人においしい料理を作ってもらうから、良い仕事ができるのかなあと思った。ご主人も黒のタートルネックにチャコールのびろうどのジャケットが似合いそうな感じ。かっこいいご夫婦である。外大でロシア語科にいた人を前にちらと知っていたのだが、もしかすると生徒だったのかもしれない。その人はロシアの女性を奥さんにもらったと聞いている。

写真は、ずっと前に誰からかもらったポストカード。いや、もしかするとヨーロッパから帰る時にでも、モスクワ空港で自分で買い求めたものなのだろうか。名画が30枚ぐらいセットになっていて楽しめる。

【No.1133】本で知る民族性…2月24日

立て続けにいろいろな民族の本を読んだので、「民族」について考えている。
それに絡めて「おくりびと」のことも……。

映画は見ていないけれど、読書家で知られる本木くんが青木新門氏の『納棺夫日記』を読んで映画製作すべきと思ったらしいが、あれが評価されたのも、おそらく日本的な所作や儀礼的なものの美意識、精神的なところが伝わるよう表現されていたことが大きいのかと推察。
『納棺夫日記』の文庫版と単行本の右は、青木新門氏の童話の本と紀行。面白そうだ。


立て続けに読んでみたのは、
アイルランドの『フランク・オコナー短篇集』(岩波文庫)
米国の作家クレイグ・クレヴェンジャー『曲芸師のハンドブック』(ヴィレッジ・ブックス)
韓国の作家である黄皙暎『パリデギ 脱北少女の物語』(岩波書店)特押し。村上春樹氏も読んでいるかな。読んでほしいな。「壁」と「卵」なんてたとえを使わず、小説で表現し切っている。
沼野恭子『ロシア文学の食卓』(日本放送出版協会)


それで今、あと少しで、アフガニスタンから米国へ亡命したカーレド・ホッセイニ『千の輝く太陽』(早川書房)を読了するところ。
ここ10日ばかりで他にも1冊『吉田健一対談集成』(講談社文芸文庫)を読んでみた。
吉田健一は吉田茂の御曹司である批評家・作家ですね。オックスフォードにちらり行っていたこともあって、何か白洲次郎とかぶる。白洲次郎はもうすぐドラマになるらしいですね。

いずれも素晴らしい本なので、時間を作って考えたことをまとめてみたいと思う。
きょうは『パリデギ』『ロシア文学の食卓』を上げることができた。

[追記]3月上旬に、韓国の黄皙暎(ファン・ソギョン)が来日し、世田谷で講演会を行うみたい。
『パリデギ』は韓国で50万売れたという。
もしノーベル文学賞に、サッカーW杯のようなアジア枠があるならば、入って当然の作家ではないだろうか。
少なくとも彼は、「壁」と「卵」の双方を意識しながら独自の世界観で小説を書いている。
読了した『客人』『パリデギ』には尊敬の念を持ちます。

【No.1132】穴に落ちたら這い上がれ!のつづき…2月21日

さて、子どもの本には、「穴に落ちる」という話が結構ある。

えーと、その前に、【No.1131】で、『ろくべえまってろよ』を批判しているような流れになってしまいましたが、ちょっと言い訳。
私、この絵本、子どもが小学3年か4年のとき、教室での読みきかせに使いましたよん。
なぜ選んだのかというと、小学校の先生方が研修で使うような作品だということを知っていたので、先生への配慮ということが1つ。
それから、「わんこ、どうなっちゃうのかなというハラハラドキドキ→わんこ、助かって良かったあ」という感情の流れをクラスのみんなで共有してほしかったから……。これはもちろん、教室という場において、同じ体験を重ねるということの大切さを意識したものであり、朝の時間という貴重な教育のひとときを分けていただいての活動だったので、そこで何かしらの貢献をしたいと考えたからです。
「ああ、良かった」という安堵感に着地させることで、それ以降の集中力へもつなげていける。良い形で1時間めの授業に持って行けるよう、担任の先生へバトンを渡せます。それがうまく行ったかどうかの自己評価は難しい。難しいけれども、学校という場でボランティアをする人ならば、子どもの前で何かやるということに舞い上がらず、そういう意識を多少なりとも持って選書をするのが良いのではないかと思います。

さて、読書アドバイザーの先生のような発言をしてみたところで(笑)、『ポッチャーン!』は、水の表面に映った月をチーズと勘違いして、井戸に落ちたオオカミの話。
『いったでしょ』は、現物が手元になくて確認できないが、確か穴に落ちちゃうシーンがあったと思う。この絵本、前にも書いたけど、親にとっての良い育児書だ。私は、そう自分のキモに銘じて読んでいた。「良い育児書です」と断って、医療機関のボランティアでも、お母さんたちに何回か紹介している。
母親が子どもと一緒に歩いていて、危ない目に遭わないように前もって注意するけれども、子どもは母親が心配した通りの失敗をする。だから「いったでしょ」と母親が声をかける。これが、ごく短い言葉で表現され展開していくが、ヤマ場のところはちょっと違うパターン。高い場所にさしかかった子どもが「注意はしないのか」というニュアンスのことを尋ねると、意外にも「飛びなさい」と声がかかる。
この本も中学年ぐらいの教室で、何かのおまけ本として利用したけれども、子どもたちの気分に実に合っていたのだと思う。終わってからしばらく、「いったでしょ」「いったでしょ」と子どもたちが口々につぶやいていた。
右端の『マンゴーとバナナ』は、一緒に収められているインドネシアの民話「まめじかカンチル」が穴に落ちる話なのかな?
東京子ども図書館のガチガチ硬派読みきかせ一派(これは私の偏見なのでスルーしてちょんまげ)が「おはなしのローソク」という素話に使う冊子シリーズを出していて、どうもその素話というやつ、一字一句をたがえてはいけないらしいのだが、しかも、話す前に必ずローソクを灯すらしいのだが、そこにも入っているみたいですね。これが穴に落ちる話というのは検索ゲットの情報なので、自分のメモ代わりに貼っておく。

文学でもいくつかありますよね。

もはや内容を忘れかけているが、『ねじまき鳥クロニクル』では主人公が穴を掘っていくようなイメージで自己を掘り下げていくと、それがノモンハン事件につながっていくような、ちょっと『カラマーゾフの兄弟』にとっての「大審問官」という関係を思わせるような挿話があった。
『穴』は、落ちるというより掘る話だ。でも、先祖が昔落ちたのだったか。面白い話だったということだけ覚えていて、内容はすぐに忘れる私。感想を書き残していない本は紹介できませんね。
『穴』は文庫本にもなった。うちの中学生に読んでもらわないといけない。
もう1冊、確か映画を見て、このログのどこかに感想を書いたはずの『古井戸』という中国文学もある。鄭義という作家の作品で、井戸に落ちた男女のエロス・タナトゥス。安部公房『砂の女』的設定であった。鄭義は『神樹』という大作も傑作の誉れ高いみたいですね。

ところで、『ねじまき鳥クロニクル』を書いた村上春樹氏がイスラエルの虎穴のなかにわざわざ出かけて行って、ガザ侵攻に批判的な発言をしたらしいが……。それだけの情報から考えてしまうと、賞をくれるという人々に対して批判的な発言をするぐらいなら、何で賞を辞退して声明を出すに留めなかったのかが疑問だ。
あざとい演出的効果にしか感じられない。何かのロビー活動なのかな。
イスラエルが祖国のようなものである指揮者ダニエル・バレンボイムが、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのトークでちらりガザ侵攻を批判するというのとはわけが違うっしょ。ああいうのは、「日本人というのは、場をわきまえられない人種だ」という見方はされないのだろうか。

最近の作家の発言で言うと、水村美苗氏が自著『日本語が亡びるとき』についての好意的なレビューのいくつかが削られたのはおかしいとアマゾンにかみついたみたい。これについては、「作家がネットに書かれていることを気にしているということをバラしたらダメよ(作家や記者がネットでネタ拾いしていることもばれちゃうじゃん)」というのと、「アマゾンは本屋であって、しかも本の専門家でない人たちが始めた本屋という商売であって、文芸サイトじゃないんだから」という感じですかね。

ネットのネタ拾いは私もガシガシやりますが、今のところ商売にしていないということになぜか贖罪的な感覚はある。
こういうところで絵本ネタを拾って新聞社系の教育雑誌でエッセイ書いたり、良識人が篤志やボランティアに目を向けていることをキャッチして事業を起ち上げたりしている人は、よもやいないだろうね(笑)。

【No.1131】穴に落ちたら這い上がれ!…2月20日

「ディストピア小説のネタか?」と思わせられるような医療ミスやら、ロックスターでもないのに人前で話すのにラリっちゃった人やら、「穴があったら入りたい!」という人もポツポツいるにはいるけれども、今、先進国の多くの人びとは、思わぬところに穴が開いていたものだから、うっかり落ちてしまった。だが、這い出す方法が見つからないという感じかと思う。
そこで!

「勇気が出る絵本をご紹介します」ということではなく、単に穴に落ちてしまった動物たちの絵本の紹介。

左が昨年出た、ベストセラー童話『あらしのよるに』の作家・木村裕一氏の新作である。
お話の詳しい流れを知りたい人は、どうぞ書影のリンク先へ……。
そちらにも書いたのだが、どうもこの話、右に並べた灰谷健次郎大先生の定番絵本『ろくべえまってろよ』を裏焼きにした感じで楽しめる。

『ろくべえまってろよ』は、表紙の絵の通り、穴に落ちちゃったかわいそうな犬の話。これを見つけた子どもがいて、子どもたちが集まってきて、「どうしよう、どうしよう」ということになる。お母さんたちを呼んできても、「まあ、かわいそうね」としゃべっているだけで先に進まない(実社会でよく見受けられる状況)。
子どもたちは、ろくべえの息が苦しくならないか、どうしたら救えるか、額を寄せ合いながら犬を励まし、救出方法を模索する。それで、ある子がうまいこと手を思いついて、無事救出できるという結末が待っている。
他力本願的な展開で、その点、子どもに読ます本としてどうなのかという疑問もあるが、つまり、犬が自発的に動かないわけだが、いい子たちががんばって助けてあげるので、「ああ、よかったね」ということで良書と評価されている。教育界での大先生・灰谷健次郎の初めての絵本ということもあり、評価が高い。
しかし、今の世のなか、助けてくれる人を待つ犬のような感じではいかん。

それに比べれば、まだ左の『どうするどうするあなのなか』の方が時代の気分には合うかもしれない。
『あらしのよるに』は、たまたま狭く暗い空間で共に時間を過ごすことになったオオカミとヤギに友情関係が芽生えるという話だったが、この絵本も「食べる者」と「食べられる者」が限られた空間で過ごすことになるという同じパターンを踏んでいる。
けれども、餌食にする前に、とりあえず皆で知恵を出し合って穴から這い出そうではないか~いと、山猫2匹と野ねずみ3匹が穴の底で案を練るのである。この姿勢が、今、求められるものだろう。
結局、自然現象に助けられて5匹はいつのまにやら穴から外に出ている。なのに、彼らは「どうすればいいんだ」と議論に熱中していて、自分たちが助かったことも、いつのまにか外が夜になっていることにも気づいていない。
同じ他力本願的展開であっても、願うのはこういう幸運であろうか。

教育界で評価された定番に、アイデア豊富な在野の人・木村裕一が挑んだという構図だと私は勝手に解釈をしてみたが、まあ、少しは当たっているのではないかと思っている。
<この項つづく>

【No.1130】女子どもの生きにくい土地…2月11日

サッカーと大規模な山火事でオーストラリア方面に目が向いている晩だが、「アフガニスタンでタリバンが……」という報道にハッとさせられた。
しばらく前に、アフガニスタン出身の作家の小説を読んだからである。その作家カーレド・ホッセイニは少年時代をアフガニスタンの首都カブールで過ごし、外交官の父とともに英国に滞在中、祖国の政変により米国へ亡命した。
米国で成長し、医師として働きながら小説を書き始める。そして、処女作『君のためなら千回でも』がベストセラーになり、映画化もされ、泣けて仕方ない作品として、本とともに世界的にかなりヒットしたようである。
新作の『千の輝く太陽』も、このところ書店でよく見かける。


小説を読んでみた限りでは「アフガニスタンについては、とにかく伝えたいことがいっぱいあるんだ」という感じで多くのエピソードが盛り込まれ、それを整理しながらの大河ドラマ仕立てなので、「作り過ぎ」感が残った。
しかし、知らない国のことを知るには、情報がいくら整理されて提示されてもなかなかピンとはこない。したがって、このような小説が書かれれば、同じ生活者の視点を借りて分かり易い理解ができるようになるので良い。
同じアジアの国なのに、アフガニスタンと言われても、「何か大変そうな国」というところから理解が一向に深まらない。そこで養成されているテロリストに米国が手こずっているようだということは分かっていても、アラビアンナイトを聞いているような感覚だ。
カブールの少年たちが、冬に凧上げに夢中になる。互いの凧の糸を切り合って勝負するために、てのひらに糸で切り傷を作り、血を流しながら遊ぶのだということを知るだけで、イメージがぐっと広がる。
凧遊びなら日本と同じだという安心と、遊び方の激しさに「タリバン」の戦い方がよぎって影が差すような不安。

アフガニスタンは世界の注目を浴びた土地なので、「アフガニスタン」で本を検索すると、驚くぐらい多くのものが結果として出てくる。
女性の著者が多い気がするのは、「女性や子どもがイスラム過激派により抑圧されている土地」ということで、自然と問題意識が向くということなのだと思う。
下の3冊は、いずれも外国人が書いたものだ。カブールを舞台にした小説『カブールの燕たち』、最近ノーベル賞作家となったドリス・レッシングによる『アフガニスタンの風』。ジャーナリストが書いた『カブールの本屋』にも題で目が行った。

日本人もいろいな形で復興に関わっている。左端と右端は医師が執筆。真ん中は写真家でありジャーナリストの長倉洋海氏。学校といえば、アフガニスタンで学校作りに携わった人の手記もあった。
「異文化」は理解し、尊重すべきものである。だが、女性が布をかぶって顔を見せず、家のなかを始めとする限られた空間に閉じこもらざるを得ない土地、子どもが遊んだり学校に通ったりする自由を奪われ、身の安全や食べ物の心配をしながら生きざるを得ない土地を、どう受け止め、どう分かっていけば良いのか。そういうところから始めなければならない理解の道のりは遠く、容易ではない。

【No.1129】ベルリオーズの幻想物語(3)…2月10日

人が物語を作ろう、物語ろうとするというのは、日常生活が思いがけずうまく運んだときや、何ともうまく行かないときではないかと思う。つまり、ほどほどの良いこととほどほどのストレスがもたらす、平々凡々たる安定感や納得を欠くときである。

期せずしてうまく行ってしまうようなときには、それを大げさに語って、より一層運気を盛り上げたい気持ちやら、このぐらいのことで喜んでぬかってはいけないと自分を戒めたい気持ちやらで、物語を借りて自分のなかで脈絡を整理しようという働きが起こる。
この脈絡整理こそが人間の根源的な欲求で、これは別に筋が通っていなくても破綻していても、その人なりに納得できる「流れ」が作れれば良いのだ。流れを認識して、それにより次の行動へ移っていければ、それで物語は十分な働きをすることになる。
物事があまりうまく運ばないというときであれば、当然、「悲しい」「辛い」「悔しい」という感情の落ち着き先を求める。

ベルリオーズがやったのは後者で、痛手を音楽物語という形にし、脈絡をつけ、自分を深い淵から救い出したのであろう。
「幻想交響曲」は「幻想」というどこかロマンティックな響きの題とは異なり、怪奇な悪夢の物語だ。それはベルリオーズ自身も服用していたというアヘンが見せたグロテスクな夢でもある。ここには、トマス・ド・クインシーの小説の影響があるとも言われているようだ。ラリった芸術家は何もヒッピー文化に始まったことではない。

芸術家として立とうとしている若い男性が恋に破れ、毒を飲んで自殺を図る。しかし、毒の量が十分ではなかったために死には至らず、悪夢にうなされるというのが「幻想交響曲」の設定である。全部で5章に分かれているが、音楽界ではこれが「ハイファンタジーなのか、ローファンタジーなのか」的な2種類の解釈がある。

ハイファンタジー的に、5章がまるごと夢の中の出来事だとするもの。つまり、彼は5つの場面の悪夢を見ているという解釈で、それがそれぞれ楽章に対応している。
恋人に対する情熱、一緒になりたいという夢や、その思いがもたらす苦悩が最初の章には表現されている。つづく2章では、舞踏会で見かけた彼女の姿がワルツで奏でられる。3章になると、田園地帯に遊び、角笛を吹く羊飼いと恋人の姿を見て、自分の愛する人のことを思い出す。そして4章で、彼は苦悩の余り女性を殺し、捕らえられて断頭台に送られてしまう。
この首の落ちる音、処刑の見物に来た民衆の騒ぎも音楽で表現される(何か、この断頭台へのマーチ曲が、どこかの局のスポーツ中継で使われていなかったろうか。サッカー日本代表の試合の中継のときによく聞く気がするのだけれども)。最終章、これは19世紀にはあまりにも奇異な表現だったようだが、魔物たちによるサバトの場面。魔界に堕ちた男性が、清純さを失い、あばずれと化した愛する女性の姿をそこに見つけ出すという物語。

ローファンタジー的な解釈の方は、田園での出来事を描く3章までが彼の現実世界で、殺人以降が悪夢だというのである。こちらの解釈だとしても、19世紀というどっぷりキリスト教世界の中、殺人からサバトに至る物語を、神をたたえたり君主をたたえたりすべき音楽で展開したというのは異端児扱いだったらしい。単に音楽家・芸術家として異能の人だっただけでなく、「行っちゃっている」という意味でも異能の人だったようなのである。
ましてや、オペラの形式ではなく、交響曲の形式でベルリオーズが幻想物語を扱ったのはなぜなのか。1つには、まあ、オペラにしてしまえば、破綻なく落とし所を踏まえて物語を構築しなければ評価されない。したがって、もやもやしたもの、どろどろしたものを楽曲に流し込むことで、より自由な表現を目指し「脱・物語化」したと言えなくもない。
薬を服用しての芸術への取り組みだけでなく、「枠」物語や物語の解体に手をつけたという意味でも、ベルリオーズは現代文学に先んじて実験的な作家だったと言えるのかもしれない。

それから、やはり「ラ・マルセイエーズ」と「幻想交響曲」を同じCDに収めたバレンボイムの意図は、「革命、民衆、主君による支配抑圧、国王と王妃の断頭台での処刑、悪夢、魔物の跋扈」という感じで、何となくドストエフスキー『悪霊』などにもイメージが広がり、「苦悩による抑圧、悪夢、殺人、断頭台、民衆、魔物の饗宴」という内容の響き合い、音の響き合いに鑑賞の味わいを求めたというところなのでしょうかね。
組み合わせて一枚のCDとして物語性をふくらますことに成功している気がする。フランス語の歌詞が分かれば、またさらなる心象の強さにもつながると思う。どの作品とどの作品で本を編むかというところにも、もちろん通じる。
(この記事の書き出し、受験を戦いの体験のように書いておいたのにも、一応それなりの響き合う意図を含めたわけなのだが)

【No.1128】ベルリオーズの幻想物語(2)…2月2日

バレンボイムとサイード。こんな本もありましたね。読んでいないけど……。

さて、「ラ・マルセイエーズ」の歌詞である。
本の引用は本の宣伝や言論目的であれば、許諾はなくてもある程度なら許されるというのと違って、例によって歌詞はJARSAC(日本音楽著作権協会)に気を遣いながら、「このブログはどうせ私しか見ていませんから~」ということで日記のように少し書き出してみると、いや、その前に、吉田進さんという方の名訳だという宣伝もしておいて……と。

第1節~第6節の翻訳がCD解説書にあるのだが、「血塗られし軍旗は掲げられたり」「不浄なる血が我らの田畑に吸われんことを」なんていう文字が、すでに第1節に踊っている。
サッカーのように戦闘を意識したゲームならば、試合前に声高らかに歌うのは士気が高まっていいけれども、この国歌、時と場合によってはインストゥルメンタルだけの方が良さそうである。
「震えるがよい、圧政者」「されどこの残忍な暴君どもは!」なんて調子で、あきれるぐらい見事なバリバリ革命歌であることを眺めていて確認したが、バリバリで勢いの良い歌詞なのはもっともなこと。この作詞者はストラスブールにいた工兵大尉で、1972年の4月25~26日の一晩で一気に書き上げたということである。
ベルリオーズが編曲を手掛けたので、「幻想交響曲」とともにCDに収まっているのだ。

おそらく、フランスの義務教育を経た年齢の人ならば誰でも、この歌詞をたどりながら歌っていると、学んできたフランスの歴史のクライマックスが絵巻物のようにして脳裏に広がっていくのだろう。多文化が共生する国だから、皆が皆血が騒ぐということでもなかろうが、人民を虐げる体制的なるものに対して、正々堂々抵抗して勝負を挑んでいくというところに昂揚を感じるものなのかもしれない。
それに比べると、「君が代」は、小石が巨大化して苔がむすぐらいまで千代に八千代に主君の治世や栄華がつづくことを静かにお祈りするといった具合で(この解釈で合っているのかしら。庶民の場合は、川に流されて行くうちに、大きな岩でも小さな石ころから砂塵になっていくんだよね、苔もむす暇がないぐらいに流されて)、自然との共生を意識しながら、どこかファンタジックで、そして植物的に深く根を下ろしていくようなイメージがある。「血だ、肉だ」と血気盛んに狩りに走る文化と対照的で面白い。だから点をもぎ取るよりもディフェンスが大切にされるのかどうかは、よく分からない。

「フランスのファンへのサービス」「元気の良いマーチをやりたい」「ドミンゴの迫力に合った曲をやってやりたい」など、指揮者バレンボイムの意図はいろいろあろうが、こういう選曲ひとつ取っても、この人の個性や志向というものの独自性が分かる。

そして、ベルリオーズ「幻想交響曲」がまた、劇的な要素の多い楽曲で、物語好きな人にはふさわしいものだと言える。ベルリオーズがこの交響曲を作ったのは、女優に恋をして相手にされなかったことがきっかけと言われている。
<この項つづく>

【No.1127】ベルリオーズの幻想物語(1)…2月1日

「1年前の中学お受験は大変だったなあ」と思い出しながら、家族が出払った家で、読書から昼寝へと幸せな午後を過ごしていた。
うちは1日に午前・午後のダブル受験をして、それはどちらも「押さえ」のつもりでいて、夕方には午前の結果が「○」と出た(午後の分も翌午前中に「○」と出た)。子どもの試験中に待っているのがなかなか大変なものであったが、精神的には早い段階で「とりあえず行くところが確保できた」と安堵でき、良い形での東京本戦滑り出しになったのだったが、この合格をもらった1日の夜は、気が高ぶって夜通し眠れませんでした、私。
前夜もぐっすり眠れたわけでなく、少ない睡眠時間のまま朝5時ぐらいに起きたのではなかったか。験をかつぐために、朝6時前に玄関のテラコッタをぞうきん掛けまでして出発したから、非常に長い一日。よって安心のあまり熟睡できても良かったのだが、2年ばかりの受験準備期間での親子の闘いがひとまず報われて良かったという気持ちと、本命がどうなるかということで、あれやこれや考えて神経が昂ぶったまま夜が明けてしまったのである。
そういうことはそれまでになかったことであった。

それからいろいろあったにはあったが、結果的に本人によく合った学校に収まり、親子共に満足できているので有難い。
学校でのテストの結果を見ると不愉快になることも多いが、たとえ3学期になった今になっても「dog」を「doog」と綴ってくれて支払い込んだ学費に一抹の虚しさを覚えたとしても、それは小学校時代から慣らされてきたことでもあるので、元気で楽しく通ってくれるのが一番と欲は出さない。
きょうも友人たちと待ち合わせて、ワンパターンのPSPで楽しく遊び、マックでドリンクなしでチーズバーガーを3個食べてきたというから「バカじゃないか(「じゃないか」じゃなくてバカなんだが)」とも思うが、いい具合に親離れもしつつある。

昼寝のBGMにはあまりふさわしくなく、逆に気が昂ぶる曲も含まれているが、ダニエル・バレンボイムがシカゴ交響楽団で振ったこちらのCDを聞いていた。

バレンボイムは今年のニューイヤー・コンサートでも振っていて、ガザ侵攻を意識して中東の平和や世界平和を願うコメントを出していたことが印象的だった。
指揮者としては押しも押されぬ第一人者であろうが、音楽性の他に、言動で注目を浴びるという点では、ノーベル賞作家となったトルコのオルハン・パムクのようなところもある。エドワード・サイードと親交があったことも大きく影響しているのだろう。
ブエノス・アイレスで生まれてから、7歳でのピアニスト・デビューを経て、一家でエルサレムへ移住。当然ユダヤ系だ。
その彼が、エルサレムの公演で、ヒトラーの愛好したワグナーの楽曲を指揮して大ひんしゅくを買い、何でワグナーをやるのかを説明したものの強烈な反感を買い、プラシド・ドミンゴをフィーチャーした「ワルキューレ」をやろうとして中止になってしまった一件はよく知られている。

そういうことを考えながら、ベルリオーズ「幻想交響曲」を聞いていたのであるが、この盤、実は最初に「ラ・マルセイエーズ」つまりフランス国歌が収められているのが、また面白い。
歌っているのは、プラシド・ドミンゴなのである。ドミンゴの声量で「ラ・マルセイエーズ」、考えただけで迫力ありそうでしょ?
フランス国歌は、これまでに何回もスポーツ中継で聞いたことがある。しかし、私はフランス語を勉強したことがなかったので、これが革命歌だということは知っていたが、今回、解説書で初めて歌詞を知り、思わずふき出してしまった。
「君が代」の歌詞が時代錯誤だという議論はあるが、「ラ・マルセイエーズ」に比べたら、「君」を「わたし・あなた・きみ」との「君」と置き換えるつもりで歌えばまだ何とか体裁がつくし、ずっとましなのではないかとさえ思えた。
<この項つづく>

【No.1126】「趣味は読書」を極める…1月26日

どえらく素敵な読書エッセイに当たった。

著者の岩田誠氏は神経内科医で、脳や神経の第一人者。
医師としてエリート中のエリートなのだと思う。なにしろ東大の医学部を出て、現在は女子医大の医学部長。
米国とフランスでの研究歴もあり、ときどき文学作品にも原書で触れている。
専門に関する著書、専門を一般向けにガイドした著書多数で、『見る脳・描く脳』で毎日出版文化賞も受けている。『脳と音楽』『脳とことば』など、題だけ見ても面白そうな本が出ているのに、残念ながら私はまるで知らなかった。
それで、ここに挙げた『神経内科医の文学診断』(白水社)――医学雑誌「Brain Medical」に連載されたものをまとめたエッセイなのだが、最初は、「ああ、誰が片頭痛を持っているとか、誰が胃痛に悩んでいたとか、病跡学みたいなものだろうな」と思って手に取ってみたら、そうではなく、スタンスが非常に新鮮なのであった。
はしがきの書き出しから魅力的なので、長い引用はいけないと感じつつ、引っ張ってみると――

「芸術作品に接する時、私たちはいつも何かしら非日常的なものを期待している。自分の日常的な生に関わりを持ちつつも、それとは独立した見知らぬ何かに出会うことが、芸術を受け取る側の目的の一つである。しかし、このような作品の中に、自分にとって極めて日常的なもの、自分の生の中で最も芸術的ではないと思っていたことが、何気なく、あるいはわざとらしく呈示されているのを偶然見つけてしまうことがある。そんな時、非現実から現実への転換を迫られたわれわれは戸惑い、次いでその作品と自分の間の距離が急に変化してしまうことを感じる」

これと同じことを私はちょうどウィリアム・トレヴァー作品に感じたばかりであった。『聖者の贈り物』読了からしばらく経ち、最近『密会』を読んだばかりで……。 

自分のせいも大きかろうが、これまで他者から嫌な目に遭わされることも多かった。それで人嫌いになってはいけないと、人の偉大さやひたむきさ、ポテンシャルを見つけたいから芸術に触れる。それなのに、どうして人に裏切られて人生がボロボロになっていくような内容の小説をときどき読んでしまい、そして情けないことに、それに感心させられてしまうのか……というようなことをふっと考えたところであったのだ。

この本では、ブルトン『ナジャ』潤一郎『鍵』プルースト『失われた時を求めて』アイリッシュ『じっと見ている目』清張『或る「小倉日記」伝』など(最初の5冊をこうして並べただけで、小説好きなら「おおっ」と思わないだろうか。須賀敦子を愛読したということでタブッキ、ユルスナール、ギンズブルグもあるよ)計30章にわたって古今東西の文学の名著が俎上に上げられている。
岩田先生は、専門の医学的見地から文学作品を解釈したり批判したりするのではなく、かといって作家たちの病跡をたどっていくというのではない。「はじめに」にもそれはきっぱり断られている。日常と非なるはずの小説世界に遊んでいるとき、神経内科の専門医の仕事で出会っているものと同じものに出会うという経験について、あくまで「趣味が読書」の文学好きとして書いているのだ。

病変や発作、病気の症状や兆候などを文学作品から見つけ出し、医学的発見より先に、作家が病気について鋭い観察眼と描写力を発揮していることに感嘆したり、詳しくは書かれていない症状が実はどういうところが悪くて生じたものなのかを推測したり、海外での研究生活の折に知り得た医療者たちの研究や言葉に触れたりと、そういった内容を衒学的でもなく、専門用語ずらずらで素人を突き放すでもなく、須賀敦子の文章を読むような心地よさでもって書いてくれている。
「専門」を持つ人はこのような想像もつかない視点で読むのか、この小説の人物(体質)設定にはそういう意図があったのかなどと驚きがいっぱいあり、とても面白い。
神経内科学を極めた人だからこそ、「趣味は読書」「読書は生きる楽しみ」というところが貫かれていて、それが温かなまなざしや物言い、心向きで書かれている。良い本・好きな本をこのように素敵に紹介できたなら、どれだけ良いだろうと感じさせられた。
ファンタジーや児童文学にのめり込んだ河合隼雄さんの視点で、定番だったファンタジー・児童文学が新しい光を浴びたという功績もあるので、診療・研究にご多忙とは思いつつも、もっと文学エッセイを書いてほしいものだ、もっと読みたいなあと思う。

【No.1125】まだやる雑記あれこれ…1月21日

◇渋谷駅で始発に乗り込もうとしたら、車内に口を開けて爆睡している高校生ぐらいの女の子がいた。
扉があいて皆が座席を確保。私も確保。座席が埋まっても、その子はまだ寝ている。
仕方ないので、東急フードショーのショッピングバッグ(えっ、エコ袋じゃないの?と聞かんといて。持って行くの忘れた)を座席に置いて、「渋谷ですよ、渋谷」と起こしに行った。

おい、彼女の右にいた女子大生と左にいたサラリーマン。
あんたたち、なるべく関わりにならないのが都会的でかっこいいと思っているだろう。

ビジネスは冷徹に、私的時間では心あたたかに……。
それが都会的でスマートでかっこいいということだ、覚えておけ。
ビジネスもウォームフルなことが大切なときもあるのだが……。

◇中学生の息子の今度の休日の待ち合わせがショッピングセンターだという。それも結構な人数で……。
「おい、集団で万引きするなよ」と一応声掛けはしておきました。
去年か一昨年か、都内の有名進学校で、集団万引きがあったそうですもんね。頭のいい子たちが好奇心のあまりゲーム感覚でやっていたので、ちゃんと見張りを立てていたとか……。
うちは、その見張りをやらされるタイプだと思う(息子の学校は、知る限りにおいて精神的に屈折した子はいなくて、伸び伸びやっている様子だけど)。

私も好奇心が強いので、高校生のとき……(以下略)。家人や息子には話したことがある。
ゲットしたのは元々いりもしないものなので、帰りに当時まだあった下北沢の上水跡に投げ捨てた。
お嬢ちゃん校のツッパリ志向仲間の儀礼みたいなものでしたね。30年前の話なので時効ですね、としらばっくれておこう。
今は、赤信号でみんなが渡っていても「必ず青まで待つ」という真人間だと自負する。

◇万引きの経験というネタで思い出すのが、ずっと昔に雑誌「BRUTUS」に出ていた高橋源一郎と島田雅彦の比較一覧表だ。ふたりが新進作家として売り出したころの特集記事だったように覚えているが、「本の万引き経験はあるのか」という問いに、高橋氏は「あり」、島田氏は「なし」。
「ああ、やっぱりそうなのか」と、妙にそこだけ感心したものだ。

◇米大統領は歴代WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)だったから、聖書に手を置いて誓約をしてきたわけで、オバマ氏もWASではないがプロテスタントだから聖書を用いたわけですよね。リンカーンが使ったという聖書を持ち出してきて……。
しかし、今後、いろいろな人種が大統領になるかもしれない。
イスラム系はやはりコーランでないと、まずいことと思う。

では、信仰を持たない日系人が大統領になったらどうすべきか。
これはもう、絶対『広辞苑』でやってほしいわけだ。だって、デカいので厳粛な雰囲気をかもし出せる。
息子の電子辞書EX-WORDにはすでに最新版の『広辞苑』が搭載されているわけだが、電子辞書に手を置くのではかっこがつかないよね。

しかし、辞書は紙のものを引く癖をつけた方がいいですよ。
ぱらぱらめくるから、頭に“ex”とつく語がいろいろ目に入ってくるわけで……。

◇最近行きつけの店の話。
飲食店でもブティックでもネイルサロンでもなく、リテールな信用金庫の支店である。
皆さんの資金がそこに集中するのもあんばい悪いので固有名詞は伏せるが、「世界水準で格付けが高く、ユニークな預金で人気」と言えば分ってしまうか。

信用金庫というのは、前は地元のお店屋さんや中小企業ご用達というイメージで、サラリーマン家庭に育った私にはまったく縁のない金融機関であった。
サラリーマンだと、企業グループの一員なら、そのグループ内の銀行と信託銀行にお金を預けておくというのが普通であった。企業グループでないなら、会社の取引先の銀行ということになる。

しかし、今のメガバンク。いったいどれだけ名前を変えながら合併を繰り返すのか、もう付き合っているのもあほらしい。利息や顧客サービスでもほとんど魅力がない。
口座を持ちつづけているのは、定期預金を動かすのが面倒だとか、振込口座・引き落とし口座として各方面に指定してしまっているので、なくすのは面倒だという理由ぐらい。

ところが、自転車で少し行った信用金庫に、他と区別したい口座を作ったところ、そこの金融商品が面白い。
暮れにまとまったお金をいくつか預けたところ、その貯金は1口10万でくじ1本分になる(経済にさとい人には、前から有名ですけどね)。
預けておくだけで、利息がつくだけでなく、お金が当たる「宝くじ」になってしまうのだ。
私は1枚の馬券はおろか、1枚の宝くじも買ったことはない(真人間だから(笑))。
母方の祖父が昔、満鉄株で派手に資産を失ったということもあるので、投機性のあるものは嫌いになる教育を受けてきたのだ。とはいえ、バブル期に中期国債ファンドに少し預け、ン十万目減りした経験もあるけれど……。
(追記1/23:中期国債ファンドは未だ元本割れしていないはず、とご指摘をいただきました。確かに「国債」なので、日本はまだバンザイしていないから、調べてみても例外を除いて元本割れはしていない。中国ファンドに預けていたつもりが、証券会社で勧められた別の投資預金だったようだ。証券を破り捨てたので、何だったか確認できず。毎度、事実誤認で申し訳ありません)
そういう私でも、わざわざ券を購入せずにくじを引けるというのは、まっこと愉快なことなのである。

そして、この信用金庫、社員さんがときどき手書きの手紙をくれるのですよ。
これがビジネス箋ではなく、お友だちに宛てるときのような便箋と封筒で書いて寄こす。
しばらく前は女性担当者だからそうなのかと思っていた。それで営業電話が男性からかかってきたときも、「いつも丁重なお手紙を頂いて」と言っておいた。
そんな流れで定期預金を作りに行くと、電話をかけてきた男性がいて、女性から担当が代わったといって、丁寧な対応をしてくれた。少し会話しただけなのだが、今どき珍しいちょっとした家庭用品もサービスでいくつかもらってしまった。
そうしたら、今度は最近また、その男性から手紙が来ていた。
「入社して1年めで、自分の声掛けに応じて来店してくれたのが嬉しい」というような主旨で、今度は、毎年利息のほかに特産品が届けられるというユニークな預金の案内を同封してあった。

マメで実直な人がサービスに当たるというのはですね、そして個性ある商品を提示できるというのはですね、こういう時代には強い。

私がこの信用金庫を気に入っているのは、店内が質実な気風に満ちているということもある。
黒いアームカバーは誰もかけていないが、そういう人たちがいっぱい働いていた昔の日本の役所みたいなんですね。カウンター内で使っている机や文房具に年季が入っているし、ロビーの雑誌も必要最小限。余計なお金を使わず、顧客が何を喜ぶかをよく考え、それを地道にやっている。
そういう空気に触れると地道に暮らしていけそうで、足を運びたくなる。

【No.1124】まだつづく雑記あれこれ…1月20日

◇「掃除はオレがする」と言い放ったのち、一度も掃除機をかけていない息子の部屋にさっき掃除機をかけていたのだが……。
「おまえは路上商なのか」……と。

確かに年末、一度きれいに物を整理していたのですよ。
使わないゲーム類を整理箱に入れたり、机の上の山積みのプリントをファイリングしたり……。
「机の上で勉強ができるようになった。椅子を後ろに引けるようになった(って一体?)」と本人も満足の様子であった。
「やればできるじゃない」とほめちぎっておきましたが(『Family President』の最新号が、そういう特集?)、部屋の片隅のテーブルの下が何か変。
机についている本棚に並べておかれるはずの教科書やノート類が、テーブルの下、床の上に直接、教科ごとに並べてある。平積み状態で、つまり駅のホーム他で拾った雑誌を100円で売っているホームレスのおじさんたちのようなことになっている。
「こうしておくと、時間割を揃えるのにぱっと分かる」と言うので、彼の流儀を尊重して指南を押し留めたものだから、そのままの状態がつづいている。
なるほど、高いところから俯瞰する感じが、分かりやすいには分かりやすい。

◇オバマ氏があす就任。
「ブラック・ケネディ」という失礼な言い方もされるので、余計そういうことを考えさせられるが、「大統領に選ばれた」という報道に触れた瞬間に私の頭に広がったイメージは、彼の身の危険ですね。それが、かなり絵的なイメージでさあーっと広がって行った。
クー・クラックス・クランやら、米国にいるのか知らないが、ネオナチやら……。
こういう発想をするのは少数ではないようで、googleで「クー・クラックス・クラン」を検索しようとすると、予測候補で「オバマ」が出ちゃいます。そういうことについては、ニュースショーみたいな番組では、とうに触れられているのだろう。
オバマ氏自身が、劇的な演出を好んでいるようにも見受けられるので、「黒人の血」という要素が十二分にコマーシャルに使われるにつけ、大統領の警護は歴代で一番手厚くする必要があるのだろうなと思う。

個人的な興味としては、金融危機で旧約聖書並みの運命に翻弄されている米国ユダヤ人社会が、オバマ政権をどう受け止めているかということ。無論、キツネのように賢い彼らは、当面は穏やかに様子見だと思う。
オバマ氏については、世界の変革のためのリーダーとして、モーゼ級の活躍を期待していますよ。「ブラック・モーゼ」と言い換えた方がいいんじゃないか。

◇10年は着ようと、このご時世にバーゲンで結構良いコートを買った。
形や色、裏地に至るまでの素材が気に入って、やや贅沢めのお値段にも納得して決めたのであったが、決めたあとで店員さんが「これ、ファーもついちゃっているんです」と何やらふさふさした、コートと同じベージュの毛を出してきた。
そのときはさして気にもせず、と言うよりも、当然それは昨今はやりのフェイクだと思い込んでいたのだが、家に帰ってよく見ると「ラビット」なのであった。「本物なのか」と軽くショックを受ける。
ミンクやセーブル、シルバーフォックスではないので、お門違いのセレブみたいではなく、毛皮のランクでは一番下だよねと考えた。だからといって、何も罪が軽くなるわけではない。
実際、この時代に本物の生き物の毛を身につけるってどうなのか。

しかし、いざパーティーのようなものに出る用事もあるので、それを着て出かけようとすると、コートに合うストールを持っていなかった。どうせあまり人目にはつくまい、フェイクに見えるはずだよねと、それを首に巻いた。
そのとき、クローゼットを見て、そういや、去年GAPで買ったダウンコートについている毛もフェイクじゃなくてタヌキだったじゃないかと思い出す。そして、「ナショナル・ジオグラフィック」が120周年記念特集で取り上げていた、表紙を飾った日本人である植村直己さんの写真、植村さんの顔の周りはすべて動物の毛だよねとも思う。
「防寒の王道は毛皮だ!」と開き直る、今のところペットは持たない中村であった。

それが先日、もうすぐ店を離れることになったという、技術が非常に高くセンスの良い美容師さんと話していたとき、彼女のペットがウサギだということを初めて知った。もう何年もいろいろなことを話してきたというのに……。
「そのウサギ、何色?」と訊くと、「ベージュです」と言う。
それで一瞬言いよどんだが、物の弾みで、その日着て行ったダウンコートのタヌキの毛と、コートのおまけのウサギの毛について話をしてしまった。

うーん、どうなのかねぇ。
かつては「動物愛護」の観点から、ファッション界から毛皮が駆逐されたことがあった。地球環境という観点からは、毛皮はどういう扱いなのか。
毛皮だけでなく、ウサギの料理も結構食べたことがあるんだよね。
こういう妙なところでは、世間体をかなり気にしてしまう。
コートに関しては、毛皮をつけない分、価格を抑えてもらった方が有難かったのだけれど……。
<まだつづけようかな>

【No.1123】雑記あれこれのつづき…1月18日

◇今のニュースの枕詞が「世界的な金融危機の影響で」「このところの景気の悪化に伴い」というものなのだが、その流れで取り沙汰されていた「バンカメ」――つまりこれは、Bank of Americaだけれど、「バンカメ」って文字を見たとき、♪夜明けの晩につ~るとか~めがす~べって♪というメロディーが脳裏から聞こえてきます。

◇アンドリュー・ワイエスが亡くなる。
ここに書かなかったけれども、昨年の美術展の見納めは展覧会閉幕数日前に出かけた渋谷Bunkamuraにおける「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」であった。
大作がずらずら並ぶ展覧会というよりは、テーマの通り、作品を完成させるまでにどういうデッサンや習作があったのかを並べて画家の仕事ぶりを見せるというものであったから、絵を描く人向けの企画で、「いいもの、いっぱい見せてよ」という私には、いまひとつという印象であった(去年は、やはりミレイ展とハンマースホイ展が強烈であった)。

しかし、ワイエスの絵を見ていると、米国文学の背景がよく分かる。例えば、何枚かの絵については、昨年かなり話題になったコ―マック・マッカーシー『ザ・ロード』の挿し絵を見ているような気分にさせられた。無論、『血と暴力の国』も……。
推測にすぎないが、コーエン兄弟の映画も、ワイエスの影響って結構あるのではないだろうか。それは「ファーゴ」や「ミラーズ・クロッシング」を観た頃から感じていたけれど……。

マッカーシーについては、『ザ・ロード』『血と暴力の国』の2作のあと、図書館で版元在庫切れの『越境』を借り、その第1部だけ読んでみた。頭に重い鉄球が落ちてきたような衝撃を受けた。
第1部だけでフォークナーの「熊」並みの傑作という評判をネット上のどこかで目にした気がするのだが、本当にその通りで、これに比べると『ザ・ロード』は本領じゃないことがよく分かった。あまりにすごすぎて、もったいないから、つづきはまたいずれ読もうと思って返却した(そういうとき、明日にでも不慮の出来事が起こって、もう本を読めなくなると困るとも思う)。

国境三部作、『すべての美しい馬』だけでなく、きちんと揃えてepi文庫に入れてください、早川書房さま(こんなところに書いているだけでなく、直接電話かメールでもしようか)。

◇【No.1121】に挙げた小川洋子さんの新作、きょうの朝日の書評欄に取り上げられていたので目に留まって読んだけれども、鴻巣さんの書評、つまらないな(とはっきり書くと、まずいかな)。でも、つまらないのはつまらないよね。この本の書評には、もう少し、ファンタスティックな紹介文の方が合っているのではないかと思った。
本をほめるための詩情に欠け、新聞読者への配慮がない。
よって、「ああ、読みたい」という気になれない。

鴻巣さんの書評は、文学の知識がよくあるということと、選書が時機にかなっているということが分かる。そして、文学界の重鎮を目指そうというような野心や気概が感じられ、そのあざとさが悪くないとも思えるけれども(そういう立場の人がいなくてはいけないだろうし)、素直な本の応援団になっていない気がすることがよくある。本よりも、書き手自身の宣伝になっちゃっていると、プロの書評も素人評も興が覚めるよね。私も結構自意識強いので、よくやっちゃう間違いだけれど……。まあ、それでも素人のお遊びなら、それもありでしょ。

「この本は、こういう点が面白い」ということを洒脱な短編小説風に紹介する阿刀田先生か、感動体験を小説的盛り上がりで伝えてくれる瀬名秀明さんに書いてほしかったなあと思った。
本の評判は、感覚が当てになりそうな人のサイトをいくつか拾って、その情報を積み上げてみて判断するというのが手っ取り早いですね。そのサイト探しに苦労するのだけれども。

もっともメディアの情報もネットの情報も、あまりじっくり読まず、目で拾って軽くストックしておく。それで、気分で選書していくということが多いかな。
本に限らず、良い悪いは結局自分の感覚なので、人が下した判断を当てにはしないのだ。
<この項つづく>

【No.1122】雑記あれこれ…1月17日

◇ニュース番組で、センター試験を受けた子たちへのインタビュー。
「親に大変な思いをさせられないから国立」
「経済的に大変だから、私立の数は絞った」
「不景気だから、いい会社に勤められるよういい大学を目指したい」
といった回答。
「大学入ったら、目いっぱい遊び倒してやるぜ」
と考え、その前提として親からの小遣いを当てにしていたバブリーな自分を思い出し、非常に恥ずかしい気持ちになる。

今の若い世代は、それが将来の就職で有利ということもあろうが、エコ志向、ボランティア志向、資格志向など地道で偉いと思う。
ああいう子たちが、きちんとした職を確保して、家庭を持ったり子を持ったりしたいというときに、きちんとそれが叶うように社会をしなくちゃいけないと思うけれど、どうすれば良いのか。もっと働いて、社会保険料や税金を多く納めるようにすればいいのか、具体案思いつかず。

◇上に関係するけれども、図書館で「MOE」という雑誌の最新号で綴じ込みの鏡リュウジの占星術特集を見ていたら、獅子座は前世は革命家だったらしい。今の世のなかに対する憤りを夜ごとブログやサイトに書き込んでいるだろうけれども、持てる創造的力で社会に働きかけるべき、というようなことが書いてあった。
「ほっといてくれ」と言いたくなる一方で、「ほほう、国民の12分の1程度がみんな前世は革命家でっか」と思う(追記:考えてみれば、前世も日本人なら百姓一揆には参加していたかもしれぬ。外国人であっても、奴隷の反乱やら、農奴の反乱やらもあるし)。
血液型はA型が多いけど、星座は何座の人口が多いのか。
教員の家庭では、保育園に預ける関係からか、4月に計画出産をすることが多いというようなことなら聞いたことがある。

◇クルム伊達公子がカッコよすぎ。
本戦も勝ち抜き、世界ランキング上位に再び返り咲いてほしい。
これからのマダムは筋肉ですね。
小さい頃からの栄養が行き届いている30代後半という世代は、体力的にも「まだまだ行ける」と思えるだろうし、精神面でも安定している。一般社会での復職みたいに、返り咲きで十分きれいな花を咲かせられると思う。

◇刺激されたこともあり、しばらくおさぼり状態のランニングを今朝やった。
5時半起きで弁当を作り、洗濯物を干して、ざっと掃除機をかけて、15分ほどストレッチ。
それから図書館で借りた絵本を返しがてら公園へ。
前は10周走れたところで(しかも自宅との往復も走り)3周走るだけでへろへろで情けなかったが、朝の新鮮な日の光が気持ちよかった。地元の中学のテニス部も朝練で集まっていたようだ。
それから図書館へ行き、雑誌の閲覧しながら弾んだ息を整える。
備え付けのスポーツ新聞で、出走する馬を書き留めていたおじさんがいたのだが、年をとったら、こういう生活を毎日できれば、新聞代は浮くなあと思った。図書館の近所、公共のスポーツ施設の近所に住むと、お金をかけずに暮らせそう。
節約して余剰が出せるような身分であれば、バブル世代として、若い世代に借りを返そうという気持ちだけはある。何かバカな遊びで湯水のようにお金を使ってしまい、その間に良い投資をしなかったから今の社会にしちゃったんだよね、と私的には妙に納得している。ごめんね。

◇図書館から戻るとき、スーパーマーケットで買い物したのだが、小さなお財布に小銭を1000円ばかり入れていただけということを失念しており、レジで油揚げを戻しても足りず、「他に何をやめておきますか」と年配の優しいレジ係に問われ、牛ひき肉も置いてくるはめに……。
それでも、「いいや、カレーぐらいなら作れるだろう」と思って帰ったら、小玉たまねぎが2分の1しかないのであった。
こういうことはよくあるのだ。頭のなかに別のものが詰まっている場合が多い。
今朝は、ストレッチからランニングに至り、ソ連という管理が行き届いたディストピア的社会の副産物として、いかに芸術の豊穣がもたらされたのかということを改めて考えていたのであった。予期され得なかった結果の面白さ、いや、ソルジェニーツィン他の有識者のことを思えば、「面白い」は語弊があるにせよ、その皮肉な展開、運命のいたずらについてしみじみ考えていたのであった。

◇「ワークシェアリング」って、少し前までは、「男性の正規雇用」と「女性の非正規雇用」との格差の場面でよく言及されてきたように思える。けれども、今は主にざっくりと「正規雇用」と「非正規雇用」という枠で語られる。いずれにしても、一人ひとりが抱える事情まで考えれば、「自分が漏れてしまっているのは冷遇」と感じる人が残っているということだ。
「労働意欲に見合った妥当な仕事」「能力に見合った妥当な報酬」について、労働人口のほとんどが満足を感じるユートピア社会を築くというのは、マルクス他が唱えた「共産主義」の実現並みに難しい。たとえ高額所得がある人でも、「自分らしさはこの仕事では発揮できない」と思う人もいるし、「忙しすぎて人間らしい生活が営めない」と思う人もいるからだ。
多くの人の欲望は、ちょっぴりだけする仕事で十二分の収入があって、世間の大方の尊敬も集められるということかもしれない。そして、好きなことをしていられる自由時間がたっぷりあるという状態。

しかし、これだけ社会が発達したはずの世のなかで、「住所が持てない」「食事する金がない」というレベルで訴える人が多いのはおかしい。ある集団において、ディストピアは実現してしまっているということだ。
政府を小さくして「格差社会」へ転換していくときに、底辺層がどういうことになってしまうのかを舵取りしていた人たちは、どこまでイメージしていたのだろうか。政治家は物語を描くだけでなく、物語の結末にまで責任を果たす気概がなければ、「福祉」は成り立たない。
そして、責められるべきは政治家だけでなく、政策にあまり関係なく、政治家のライフスタイルや演説のうまさにファンとして一票を投じていた有権者だったとも言える。
<この項つづく>
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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