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【No.1103】毒を持て!…11月17日


ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。
矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。
その姿はほとんど直視にたえない。
この悲劇的な、いやったらしいまでの生命感を、感じとらない人は幸か不幸か…。
感じうるセンシーブルな人にとって、芸術はまさに血みどろなのだ。
最も人間的な感情を、激しく、深く、豊かにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。

(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫版P180-181/同書、中村の紹介文はこちら)

渋谷には井の頭線で出る私にとって、大歓迎の場所に岡本太郎「明日の神話」が設置された。息子も井の頭線を使っての通学である(週6日登校なら、1週間に計12回見られることになる)。
きょう午後1時前に通り過ぎたときは、まだ白い幕に覆われていた。
午後5時前、帰りに通りかかったときは、セレモニー(通路であることを考え、ごく簡単な除幕式だったよう)のあとだったようで、ご覧の通り公開が始まっていた。
原爆をテーマにし、メキシコで制作された作品。5.5×30メートルという大きさゆえ、どこでどう展示するか、招聘先が求められていた。
作品についての公式HPはこちら

渋谷駅が開いている時間帯ならいつ行っても眺められる芸術だ。
ピカソの「ゲルニカ」が3.5×7.8メートル。大きさでは負けていない。
西の「ゲルニカ」、東の「明日の神話」というように、戦争をテーマにした20世紀の東西の巨大絵画(壁画)の双璧として扱われるようになるだろうか。
「ゲルニカ」はそれを設置する美術館が建てられ公開されているが、「明日の神話」はお金を払わず、誰でもずっと鑑賞できる場所に置かれた。
「ゲルニカ」もすごかったけれども、「明日の神話」も下にいると圧倒的なパワーが伝わってきて、SUICAかPASMOになったかのようにチャージされますですよ。

併せてご紹介の『自分の中に毒を持て』も小学高学年から高齢層まで、生きるエネルギーをチャージしたい向きには必読の書。
岡本太郎、こういう世のなかに蘇って演説をぶちかましてほしい。
この画伯なら、どこかでこそっと冷凍睡眠していて、いつか舞い戻ってきてもちっとも不思議ではない。
[追記]渋谷駅と渋谷駅の間、きょうはN響メンバーによる弦楽五重奏を聴けるという、それまた素晴らしい芸術体験ができた。学校行事だったのである。好日に感謝。

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【No.1102】つかえる*はたらく…11月15日

「医療を支える言葉」についてまとめている最中に、いい仕事をする人というのは、「仕事」の字の如く、事に仕えるという姿勢があるなあと改めて思った。
ディスカッションに参加していた先生たちは居丈高なところがなく、長年、地域や患者に自然体で仕えてきたという感じであった。岸本さんは言葉に、稲葉氏は問題解決に仕えてきたという印象。

医療に関しては、今、救急医療や先進医療、つまり大学病院や総合病院にばかり焦点が当たり、そこの現状をもってして医療崩壊がマスコミで報じられる機会が多い。この問題のために朝日新聞は医療取材チームを作ったということで、そこから今回のシンポジウムの企画も来ているようだ。
しかし、医療を語るとき、もう少し、個人の開業医のところからの発言がなされていくべきではないかという気がした。地域住民のところに入り込んで治療に携わっている人たちが、救急医療や先進医療のあり方をどう見ているかということや、末端のところでどういう問題があるのかということがもっと語られていい。

「つかえる」ということですぐに思い浮かぶのは、公務員がpublic servant、つまり公僕という意味だということなのだが、仕事というものはすべからく何かに仕えるという発想で取り組むと、迷ったり魔が射したりするようなことはないのではないか。
まあ、金に仕えちゃったりワンマン経営者に仕えちゃったりするとダメなんですけどね。
私は最近あんまりがっつり働いていないので、偉そうなことは言えない。しかし、何をやっているかは大っぴらにできない仕事については、ギャランティーのためだけとは違う「○○さん」たちのためにやっているつもりで、それを強く意識しているとうまく行くことが多い。
社会的活動である読みきかせについても、前にここで書いたのだったか、取り組む前に「おまえは『本の侍女』であるのだから」と言い聞かせて臨むようにしている。

しかし、「つかえる」というのは、どちらかというと西欧的な発想であろう。ここには上下関係がある。それというのも、プロテスタンティズムの倫理なのか、仕事を通して神に奉仕するという概念から来ているのだろう。
これが日本では、「はたらく」という言葉になる。「はた」を楽にするという行為に、上下関係はない。たぶん。
労働がまだ近代化されず、つまり生産手段が個人の元にあった資本主義になる前、家内で営まれていた労働が「親方-徒弟」という構図ではなかった――そういうことではなく、農作業の方から出てきている表現なのかもしれない。工業、工芸とは異なり、農作業というものが家族やお隣など、「はた」にいる仲間、身内を楽にするところから出てきているような気がする。

仕えると言えば、私が最近まで「黒羊」と聞き間違え、お手紙を食べちゃう話なのかと誤解していた『黒執事』なのだが……。

本日、新宿に出たついで、ブックファースト旗艦店にちらっとだけ行ってきた。
連れが早く帰りたがったので海外文芸とコミックの売場しか見られなかったが、こちらのリンク先の写真をクリックすると売場がいくつか見られるように、なかなか斬新な「見せる」ことにこだわった刺激的な店作り。
某スーパーの辣腕ディストリビューターが言っていたが、「本というのは、どんと積むだけでディスプレイに芸がないが、CDみたいに視覚的な訴求はできないのかね」に応える1つのあり方を示している。
当然棚に差さっているような本が、背文字を見せるだけでなく面陳されている。それがわっと大量に眼に入ってくることで、ジャケ買い、そして部屋でも面陳にしておきたいといった欲求を生じさせる。
店内も碁盤の目のように整然と棚を並べる大型書店ではなく、まるで『薔薇の名前』の修道院の図書館に紛れ込んだようである。

コミックや文庫は、そうそう面陳ではなかったのだが、子どもがアニマックスで観ているこの漫画、設定が面白い。
12歳の英国貴族の子に仕える執事が何でもかんでもできるスーパーな人物で、ご主人に危害を与える輩を制裁していく。
第1巻は紅茶をサーブしていて、第2巻はアフタヌーン・ティーのセット、第3巻ではフォークとナイフをすごい持ち方していて、表紙だけ確認しても面白かった。内容はPTA的には芳しくないもののようです。

【No.1101】医療を支える言葉…11月15日

日本薬剤師会会長の児玉孝氏は、大阪にある薬の神さまを祀った少彦名神社のすぐ近くにある薬局を営む家に生まれ育った。小さな頃からその神社のお祭りに出かけるというように、薬と縁深い人生を送ってきたという。

以前、薬屋は「町の科学者」と言われ、「何か分からないことがあったら薬屋のおじちゃんに聞くといい」と近所の人から慕われる時代があった。それが今、薬店はドラッグストアや調剤薬局のような形態が増え、地域のためにあるというイメージからは遠ざかりつつある。
治療行為とは異なり、予防のために患者予備軍が訪れるという特徴も持つ薬局は、本来、地域の人びとが訪れ、健康や病気予防の情報を得る場所でもあった。「最近の薬屋は冷たい」という声がしばしば聞かれるが、マニュアル化された処方箋をただ渡すのではなく、個別の理解や求めに応じた情報提供を心掛けていくのが望ましい。それを実践しやすくするため、カウンターを低くしたり、ブース化したりする指導を協会では行っているということ。

平成18年から薬学部は6年制に移行した。
従来の4年制の場合は1年生からいきなり専門課程の学問が始まったが、医療人としての教育を行ったり、4年生で模擬患者に対する説明を実践する授業が入ったり、コミュニケーションを大切にしていく教育が端緒についたばかりだという。
ただ、コミュニケーションは学問で教えられるというものではないので、抗がん剤のように非常にデリケートな薬が増えた現在、その使い方をいかに伝えるかということは大きな課題となっている。
話の内容に前後するところはあるが、骨子はだいたいこのようなことであった。

3人の医療者側の話を受けて、エッセイという言葉の仕事に携わる立場として、また、がん体験者という立場として、岸本葉子氏が患者側にとっての言葉という切り口で語った。
医療者の言葉を一方的に受け止めるだけではなく、言葉を発する者としての患者にも注意を払うべきだというのが彼女の提言である。

自分の体験から、言葉を発することで、患者としての痛みは消えなくても、疑心や不信感が消えて不安がなくなることがあり、それが安心して治療に専念することにつながる場合があるという例を語った。
「こんなに痛いが、本当に手術は成功したのか」「もしかすると何かが起こっているのではないか」といった疑念を持つようなとき、心の内にたまったものを我慢してそのままにしておくのではなく、言葉として発して医療者に伝えることが大切なのだという見解である。それが「伝わった」と感じられるとき、患者は大きな力を得ることができるという。

医療と訴訟に関する研究者であり、このディスカッションのコーディネーターである稲葉一人氏からは、医療者側と患者側の立場の差異を端的に表す構図が説明された。医療事故に際して、その差が問題としてどう顕在化するかという内容である。
医療者にとって患者はone of themであり、彼が口にする手術の成功率は確率の問題で、合理的思考の上に立っている。50パーセントの成功率は、10人受けたら半分は成功するという確率なのである(これ、四谷大塚の模擬テストの説明を思い出した。80パーセントの合格率は、10回受けたら8回受かるということではなく、その偏差値の子が10人受けたら8人は受かるよ、ということらしい)。
しかし、患者側にしてみれば、わが身はone of oneであるから、合理的思考で片付くわけがない。失敗して命を失うようなことになれば、「では次は、うまく行くようによろしく」とはいかないのである。半合理性、非合理性、つまり感情的な話や思考になってしまうのは当然で、この両者の差が、何か事故があったときにむき出しになり、紛争や訴訟の原因になるという。

このように各人から様々な関心や問題意識に基づく「医療と言葉」に関わる材料が提起された。
共通項をいくつか拾いながらの擦り合わせがなされたが、医療コミュニケーションを取り巻く大きな問題の根底にあるのは、疾病構造がドラスティックに変化してきている点にあるということのようだ。

昔、医師は「患者の痛いところに手を当てよ」と言われており、目で見えたり、手で分かったりする範囲が医療を施す対象であった。それが、現代の医療は「見えない」「分からない」部分も対象とするように変化した。したがって、医師の専門的判断が問われることになり、また、抗生物資のような「魔玉」を用いるということで、医療者がある種、傲慢化したという流れがある。
しかし、今、多くの患者は、医療で一発で直してもらう伝染病の類いよりも、慢性疾患で苦しんでいる。闘病が長引くのである。これは、手術でがんを除去した人が、再発を防止するというような例も当てはまる。
患者のあり方が変わったことに伴い、医療者の役割も、話をよく聞きながら長期的に付き合う医療を施すようにと変わりつつある。そこでコミュニケーションが問われるようになってきており、その変化に医療者が追いついていけないということがあるのではないか。

医療者は患者と一体になってしまっては医療は施せない。しかし、患者に対面で物を言うのではなく、患者の傍らに添うようにしてうまい距離を取りながら、言葉による場作りをして、患者の最後の砦である「自己治癒力」「免疫力」を引き出すようにすべきである。同時に患者は、自らを治そうという主体性をもって治療の場に臨むべきである。
共通の認識としては、このようなところへと辿り着いた。
お互いの思いや意志を伝え、受け止めるものとしての言葉のやりとりをセンシティブに行っていけば、医療にも良い効果が出るという見解であろう。

病気や怪我で治療を受ける患者というものは平常とは違う精神状態にあり、ただでさえ混乱や失意のなかにあるわけで、ましてや口下手であっては、医療者と「個」対「個」のコミュニケーションを図っていくのは困難であろう。日常からリテラシーを鍛えている場合には、口にして気持ちを整理したり、自分を支えてくれるスタッフにリアクションをもらったりで前向きになっていける可能性もある。
問題はやはり、言葉をどう発すれば良いのか戸惑う人びとで、おそらく患者のほとんどはその状態に置かれることになると思う。
このディスカッションのなかでは、言葉だけでなく、体全体のコミュニケーションということにも触れられたが、私も医療機関での活動では、絵本を読んでいながら、実は相手が視力や聴力に障害がある場合もある。時に、意志伝達がほとんどできない相手と対峙する場合もある。となると、言葉を超えたところにある肌感覚、自分の人格や体から発する「気」のようなものに頼らざるを得ない。言葉によって信頼関係を築いていけない場合、どう相手の領域に入って関わるべきかという課題が残される。
一般の人間関係でもそうだが、気脈が通じ合った上で交わされる言葉のやりとりがコミュニケーション成功の秘訣であろう。相手が医療者であれ、患者であれ、いかに相手の求めるものに心を寄せられるのかということが、結局のところ、理解や協力や融和にとっての必要になるということだろうか。

いい線いってる…11月11日

先週金曜日からハマりまくっていることがあり、それにエネルギーを注いでいるのだが、面白いもののインプットが他にも多くて、頭のなかがやたら忙しい。

何にハマっているかというと、Wiiやメイプルストーリーではなく……。
秘密だ。
運気流に乗って、とてもいい線いっている気がしているので、このまましばらく遊ぶ。

ところでいい線と言えば、今クールで1つだけ見ているテレビドラマがあって、チーム・パチスタの栄光」なんだが、伊原剛史も仲村トオルもいいが(ごめんね、伊藤淳史くん)、

麻酔科医がカッコよすぎる!!!

気になって、思わず調べてしまった。
ジャニーズでなく、ナベプロ。
こちらで、ブログもやっている。
とても頭が良く、性格も良さそうな感じが漂っていて、ますますファンになってしまった。
足が29センチで大きすぎる気がするが、188センチでフットサルのようなスポーツをやっている。
「オールナイトニッポン」ほか話すことができる人のようで、しかもお母さまがスペイン人なので、スペイン語ができるという。
周りの人が大切にキャリアを育てる工夫をして、将来はぜひ松田優作のようにハリウッドに乗り込んでほしいものだ。

美しく年を重ねると、欲求も控え目です。
――20歳ぐらいに戻って、城田優くんの追っかけがしたい。
ただ、それだけなり。

一応、読書系を自認しているし、医療つながりでもあるので本も貼っておきますね。
先日来、リアル書店でドドドーンと平積みされていたのは、このドラマに合わせての増刷で、確か上下が黄色と青色のカバーで目を惹くものになっていたと思う(追記:青いカバーは続編のもので、パチスタは上下黄色でした)。

右端は、出たばかりの海堂尊氏の新刊。
そういや、亡くなったマイクル・クライトンも元は医師だったと『インナー・トラヴェルズ』というエッセイに書いてあったと思う。本をさがしたが見つからない。そのエッセイ、むちゃくちゃ知的刺激に満ちていたのだが……。

【No.1100】医療を支える言葉(2)…11月8日

日本医師会会長の唐澤祥人(よしひとの「祥」は、本当は「示」に「羊」)氏は、墨田区は立川(たつかわ)に架かる二之橋のたもとの医院の院長。

医療コミュニケーションとして近年「インフォームド・コンセント」が大きな課題とされるなかで、問題提起もやはりその点は外せないという認識のようであった。
「インフォームド・コンセント」はわざわざ意味を書く必要もなかろうが、一応念のために触れておくと、「医療者が治療に当たって、患者に病名や病状、それに合った治療について説明を行い、患者の理解と合意の上に治療方針を決めていくということである。つまり、医療者が一方的に治療を施していくのではなく、患者の意志が尊重されるように医療を進めていくという概念だ。

ところが「医者はべらべらしゃべるものでない」という教育が昔は普通だったのだと唐澤氏は言う。
医療教育においては最近、この概念について触れられるようになったが、すでに医療者となっている人たちに、いかに話をするかという専門的な訓練の機関があるわけではない。あったとしても、今の医療メニューの多さや人手不足からくる業務多忙のなかで、これをどう実施していくかに大きな課題があるという。
そしてまた、患者にとって、どこまでのインフォームド・コンセントが求められているかという問題もある。それは、患者もまた医療者同様に多忙だという時代背景があるからだ。小さな子がいるお母さんや忙しいビジネスマンを長時間拘束することは難しい場合もある。
このようにインフォームド・コンセントというコミュニケーションの場をどう持つかという問題のほか、インフォームド・コンセントには基本的な課題もある。
医療でのコミュニケーションは日常会話のようにはいかない。それは、一般人が詳しくない情報、一般の人がマスコミを通してぐらいしか得ていない医療の情報をどう伝えるかということであり、またハッピーではないことをうまく伝えるにはどうすれば良いかという特殊な技術が必要とされることである。

(メモを参考に言葉を補いながら書き起こしているので、実際の話より広がりのある内容になっていることをご容赦)

日本歯科医師会会長の大久保満男氏は静岡がホームグランド。ユーモアに満ちた闊達な話術で、会場を何回も笑わせていた。
例えば、歯科医同士で集まると、「どこかにいい歯医者、いない?」と冗談を言い合うことがあるそうだ。よく考えれば当たり前なのだが、歯科医が虫歯になると、他の歯科医院の診察時間後に出向いて治療してもらうらしい。
このように「へえ」と耳をそばだてたくなる話題から徐々に核心へ入っていくというのも、まさにコミュニケーション技術の1つだと感心させられた。
大久保先生は開業医として地域のお母さんたちと連携しながら歯のケアを行ったり、養護学校の校医はじめ学校教育の場に出かけていったりと、治療だけではなく、予防にも熱心に取り組んできたという。

歯科を中心に医療のコミュニケーション全般を考えると、医師というものは患者の本当の痛みが分からないのに、それがどういうものなのかを推測して話をしなくてはならない難しさがあるという。
患者は患者で「痛くてたまらない」ということについて、まず話をしたい。自分の不安を理解してほしいと思っている。一方、医師は、そういう患者の痛みを早く取り除いてやりたいと思うから、治すために「いつから痛むか」「どのように痛むか」という情報を得ようとする。このようにお互いの意図にギャップがあるところで進めていかなくてはならないのが医療コミュニケーションだというのだ。

静岡の歯科医師会で、クレーム担当になったことがあるが、患者の苦情をよく聞いてみると上のようなギャップが見受けられた。そして、1970年代の終わりころから患者のとげとげしい苦情が増えた印象を受けたが、その根には、医療者と患者の小さな言葉のやりとりの行き違いがあることが多かったらしい。つまり、患者の不安から発せられる言葉に対し、医師が鋭敏に関わっていないのではないかと思える節が増えてきた。

そもそも歯科治療においては、治療中、口を開けてもらっている患者に「痛いですか」と聞いても相手は答えられない。したがって、治療前のコミュニケーションが大事であり、そのとき、医療情報以外のところで、互いに信頼関係を築くためのコミュニケーションが必要とされてくる。
例えば、歯医者に恐れを持つ子どもは口を閉じて治療もさせてくれない。治療に取り掛かるために、言葉だけで言い聞かせるのではなく、体を通してこちらに任せてもらえるような関係を結ぶことが求められる。このように、歯科の特異性に注目しながら、医療全般に敷衍できる医療コミュニケーションのあり方が語られた。
<この項つづく>

【No.1099】医療を支える言葉(1)…11月4日

10月30日の木曜日、学術総合センターにある一橋記念講堂で、文字・活字文化推進機構と朝日新聞社主催の「あたたかい医療と言葉の力」というシンポジウムを聞いてきた。

医療機関で子ども向けの活動をしているので、その参考にでもなれば……ということで時間を作ったが、人的資源の不足や体制の脆弱で「医療危機」どころか「医療崩壊」も囁かれるなか、切り口が違うところから医療についていろいろ考えさせられることがあり、有意な会であった。「医療崩壊」という言葉は、マスコミでたまに目につくが、使うに安易ではいけない気がしている。現場で必死でやっている人たちにとっては実に不愉快な表現であろう。

会のメインとなったパネルディスカッションでは、日本医師会会長、日本歯科医師会会長、日本薬剤師会会長と、地域医療の現場を熟知した「町のお医者さん」「町の薬屋さん」の団体のトップが揃い踏み。こういう機会はめったにないらしい。しかも一般相手に三者で話すということは初めてであったようだ。
そこへ、がんの闘病体験のあるエッセイストの岸本葉子さんが加わり、判事の仕事をしたあと京大医学部の大学院に進み、医療関係の訴訟の研究をしているという稲葉一人氏が進行役を務めた。
折しも、稲葉氏が委員の1人として名を連ねる国立国語研究所「病院の言葉」委員会からの中間報告が10月21日に出たところである。

下は、パネラーと進行役から挙げられた推薦図書。パラパラとページをめくったことがある本はいくつかあるけれども、どれも読んだことがない(『科学革命の構造』は、社会科学を専攻した者にとっては基本図書のはずなのだが途中リタイア)。さすがに先生方、すごい読書家であることよと感心させられた。

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仕事の関係で、医療コミュニケーションの重要性についての文章は多少読んだことがあるので、こういうディスカッションの落としどころ、予定調和的到達点というのは「あのあたりだな」ということは何となくイメージとして持って出かけて行った。
しかし、改めて現場の医師や薬剤師の生の声、重病患者としての経験を持った人の生の声などを聞くと、理念的な話も空疎ではなく、本当に重要で欠かせないものだという実感が得られる。
メモを取ってきたことを次に書き出してみるが、この催しのレポートは朝日新聞紙上にそのうち掲載されるとのことである。そして、終わり近く、このメンバーでの話の広がりはかなりの可能性があるという手応えを得た稲葉氏より第2ラウンドへ持って行ってはどうかという提言もあった。それを支持する会場からの拍手を誘う形で……。したがって、「病院の言葉」委員会の報告と並行して、期間を置いて第2回も開催されることになるのではないかと思われる。
<この項つづく>

【No.1098】不思議なろうそく…11月3日


ここで再三取り上げている画家・高島野十郎は、近年かなり一般の認知度が上がった。ひとりきりの小屋のなかで死ぬまで描きつづけていたのがろうそくの炎の絵のシリーズ。昔むかしの目黒美術館の幻妖とした展示で霊気をたっぷり浴びせられたものだ。

野十郎作品に感化されたのどうかははっきりしないが、この秋、ろうそくの絵が入った秀作絵本が2冊出た。出たばかり。
『だんろのまえで』は鈴木まもる氏の作で、途中、野十郎そっくりのろうそくの絵が出てくる。実は昨日、鈴木氏の講演会に出かけたので、言葉を交わすついでにそのことを聞こうと思って別の話の流れになってしまった。

『ろうそくいっぽん』は見ての通り、野十郎風ではないものの、このタイミングで出ると、野十郎がきっかけになっていやしないかが気になる。
子どもがろうそく1本に火をつけて夜の森を急いで行く。途中、そのろうそくがいろいろと役に立つのであるが、子どもがどこへ向かっているのかが早く知りたいということで、読みきかせでは盛り上がりそう。おはなし会によさそうなので、今度使わせてもらうつもりにしている。この作品は、ある意味、他愛のない展開とも言えるのだけれども、ユーモアと深みのある絵で、作家の市居みかさんは私がこれからを期待する絵本作家のひとり。

残る1冊は今年の新刊ではなく、おまけ。絵本界の重鎮への道を着実に歩みつつある酒井駒子氏の絵で、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』である。ろうそくと言えばやはり、私のような年代にはこの話だ。
小川未明はエドガー・アラン・ポー並みに世界で評価されていい幻想作家だと、ここでまた繰り返して言っておこう、っと。

【No.1097】デルフトが見せた色(3)…11月3日

レンガ色や薄茶、砂色をしたデルフトの家並みがあり、壁や天井にさえぎられた薄暗い家内、室内に淡い光が注ぐ。
人の視力では、暗闇で色を判別することはできない。光が降り注ぐからこそ、そこに浮かび上がる乳白色の肌や表情、黄やゴールドや青色の衣服、そのひだの陰影やレース飾り、床の模様やコブラン織の意匠などが確認できる。

光は画家の「視界」と「絵画芸術」にとって決定的なものであったと同時に、西欧社会では「神」の存在を示す象徴的なものであったことも忘れてはならない。
光は神の恵み、すなわち慈悲(mercy)であり、静かな日常の空間たる家内に光が差すということは、そこが神に見守られた場所だということになる。

絵画の左端に描いた窓が果たして東向きか、西向きか、南向きか――それは画面に描かれた設定よって異なることと思うが、窓自体の形態もまた絵によって異なる。
普通の家庭婦人や娘、召使いたちの絵の場合、ごく自然な光が注ぐ簡素な窓が多い気がする。それに比べ、今回出展の「ワイングラスを持つ娘」が、小太りの男性に顔を寄せられながら言い寄られている風で、彼女自身は観衆の方を見て、何やら品のない「にたっ」とした表情を浮かべており、しかも着衣は派手な赤と金色――この絵の窓は割にカラフルなステンドグラスなのである。ドレスの色は、その窓の意匠の色と対応していて、どことなく背徳的なイメージを与えるのは偶然ではない気がする。
つまり、神の意志が降り注ぐ場所である窓が「透けたものでない」ということにフェルメールは意味を持たせていやしないかと思える。

そのように考えると、ケガの功名で出品となったダブリンからの「手紙を書く婦人と召使い」の窓も若干のステンドグラスで、少し色が入っていることが気になる。それを根拠に、あるいは手紙の相手が道ならぬ恋の相手だったのかもしれないと考え込んで、何回かこの絵の前に戻って眺めていたのは私ぐらいであろうか。

フェルメールは愛好家も多く、研究書や関連書も多く出ている。美術館には音声ガイドも用意され、今夜もテレビ番組があるようだ。
したがって私が感じた程度のこと、考えた程度のことは、もうすでにどこかで誰かが言い尽くしているのかもしれないが、それでいいのである。誰かがとうに言及している説明をインプットしていって、その確認かたがた本物を眺めるのではなく、こうして「遠望→家並み→家内(→内面)」というパースを自分で感じ取ったり、光や窓が何を意味するのかを自分なりに考えたりすること、そしてそういったものを元に広がっていく人びとの暮らしの小説的な部分に思いを及ばせるということこそが無類の楽しみになるのであるから……。

ということで、きょうは窓からほとんど光が注がない、恵み少ない休日(昔から好物のトップスのチョコレートケーキは食べられたけどなー)ゆえ、ようやくフェルメールについての項を書き上げることができた。

しかし、今回の展覧会、どちらかというと、1650年代のデルフト絵画に大きな功績を残したピーテル・デ・ホーホや、デルフト火薬庫の爆発で32歳の短い生涯を閉じたというカレル・ファブリティウス(自画像が息子の中学受験のときのお塾の熱血国語担当教師によく似ていた)作品の方を興味深く見た。
そして、ヤコブス・フレル「子供と本を読む女のいる室内」が読みきかせをする女性の絵だったので、「葉書があればこれを年賀状にしてもいいな、80枚は買っていくぜ」と思ったのに、人気作品の葉書しかなくて残念なことであったあるよ。
プロフィール

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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