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【No.1096】デルフトが見せた色(2)…10月31日

フェルメール展は入場者数50万人を突破したそうで……。
4年前も同じ都美術館で「栄光のオランダ・フランドル絵画展」があり、今回、作品保護のため出品不可となった「絵画芸術」を見せてもらった。
出品不可は「ケガの功名」に結びつき、アイルランドに1点だけあるフェルメール作品「手紙を書く婦人と召使い」という絶品が代わりに招聘された。「日本に7点が集結、しかもうち4点が初公開」という看板にうそ偽りはなく、面目を保つこととなったようだ。会場で求めた図録には「手紙を書く婦人と召使い」が掲載されていないが、ダブリンまで行かないと見れない作品は、おそらく一生見る機会がなかったのではないかと思えるので、その点には大いなる満足がある。
ドレスの袖を少し引っ張り上げたような様子で一心不乱に手紙を書く女性像は、深く感情移入できるものであった。私にとっては、今も昔も手紙を書くということは日常的であり、大切な行為の1つである(言い訳しておくと、誓って言いますが愛人はいないですよ、少なくとも今は(笑))。

この絵に代表されるように、フェルメール作品の多くは、薄暗い部屋のなかにいる女性に、窓から差してきた日が当たり、そこに色が浮かび上がっているというものだ。それを考えると、【No.1094】に貼った都美術館入り口に大きく掲示された展覧会ポスターになっている「小路」という題の作品、デルフトの家並みが確認できるそれは、今回の展示で大きな意義がある。
残されているフェルメール作品のうち、「外」が描かれているものは極端に少ない。
「デルフトの眺望」というロングに引かれた風景画が1点、そしてデルフトの街並みが分かる「小路」、あとはデルフトは関係なさそうな「ディアナとニンフたち」ぐらいだ。
こういった「外」が広がっていて、そして、その中で、フェルメールが好んで描いた「内」が小さな宇宙を形作っていたのである。

室内にいる人たち、それも多くは女性たちの作品が現存する30数点で多いから、そのイメージでフェルメールを捉えてしまうとき、彼が描いた近世ヨーロッパ社会の女性のあり方が、近世日本の女性のあり方に通ずるところ大で、それが1つフェルメールに女性ファンが多い理由ではないかと思える。

死語になりつつあるが、「家内」という言い方がある。
説明するまでもなかろうが、「女は家を守る存在」というところから出てきた言葉であろう。
フェルメール描くところの女性たちは、家内でレースを編んでいたり、ヴァージナルという鍵盤楽器やギターの稽古をしたり、談笑していたり、牛乳や水の入ったピッチャーを持っていたりする。

今どきの「家内」は別に家人にいちいち断るまでもなく仕事に出たり、美術館や映画に出かけたり、女友だちだけどころか男友だちとも話をしに行ったり食事をしに行ったりするわけであるが、昔の女性たちの生活圏は狭かった。
ふっと思い出したのが、宮尾登美子の芸道小説で読んだことのある『一絃の琴』『伽羅の香』『序の舞』『松風の家』といった作品群である。『伽羅の香』は香道、『序の舞』は日本画の上村松園、『松風の家』は茶道の宗家を扱ったものだ。いずれも日本の伝統的芸事の世界がどういうものかがよく分かる読みごたえのある重厚で興奮に満ちた小説である。いっぱしの大人として日本の芸道というものを教養として知っておきたいという向きには読んでおくといい本である(とりわけ『松風の家』)。
このいずれも、「家」を中心とした世界で暮らす女性たちが書かれている。空間としての「家」ではなく、あくまで「家世界」――「家元」というときの「家」という概念であり、1つの和を成す社会単位である。
<この項つづく>
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勇気…10月29日

マラドーナがアルゼンチン代表監督に就任。

アルゼンチンのサッカー協会、えらく勇気があるなあと
驚いた。
マラドーナが監督になるということは絶対なかろうと
思っていたので……。
監督がどういうチームを作るかではなく、選手が
どういう役割を監督に与えるのかが楽しみ。
彼が何試合もつのかというオッズが出そう。

南米って、とてつもない発想が主流のところで
なされる気がして、わけのわかんなさが魅力だ。
文学作品もそういうイメージ。

【No.1095】子どもの妄想*大人の妄想…10月28日

きのうの仕事帰り、住宅街で小学2年生ぐらいの男の子がふたり、立ち止まって話しているところに出くわした。かわいい盛りである。

本を抱えた少年A「ノグチヒデヨって、小さいとき、火事にあったんだよ」
少年B「その人、死んだ?」
少年A「ううん。死んでない」
少年B「じゃ、今も生きてる?」

野口英世が火傷を負ったのは囲炉裏端であり、火事ではなかったという事実誤認は置いておくとして……。
少年Aは、最近自分が知った人の偉さについて友だちに伝えようとした。または、自分がそういう偉い人のことを知っているということを相手に知ってもらいたかった。
彼は、自分が生きている「今」とは別の「昔」という歴史的時代があったという認識をぼんやり持っている。
親御さんか誰かが偉人についての本を読むように薦めたのかもしれないし、テレビの知識番組かバラエティ番組で知ったのかもしれない。家庭の教育熱心さがうかがえる。

少年Bはまだ、自分のいる「今」を夢のなかのように生きている。
彼は少年Aの知り合いの人か何かが最近たいへんな目に遭ったみたいだけれども、何とかだいじょうぶだったみたいだと分かった。

ちょっと試しにこじつけで分析するとして、ふたりの思いはどうやら別の方角にすれ違ってしまったようだ。
多くの大人の人間関係もこれに似たことが多いかもしれない。

さて、ふたりのタイプは違うが、あなたが採用担当者だとして、どちらを採用するか。
知識や技術の実践に積極的なタイプか、物事を前向きに捉えようとするタイプか。
もちろん組織には、どちらのタイプもいなくてはならない。

あと20年経てば、彼らは税金を納め、保険料を払い込む立場に立っているかもしれない。私は順当に行けば年金を受ける立場になっていることだろう。

おばさん、君たちのために国の借金はなるべく減らしておきたいし、ゴミもなるべく出さないようにするよ。
君たちが仕事をしたらきちんとお給料をもらえて生活していけるようであってほしいし、お嫁さんが安心して赤ちゃんを生めるようにしたいけど一体何をすればいいのだろうねと思った。

【No.1094】デルフトが見せた色…10月24日

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
みんなが仕事している平日の昼間にフェルメール展を観に行ってしまった。

きょうは休みで、朝からザーザー降りだったため、両のこぶしを握りしめ「よっしゃ!」と思ったのだ。
ひどい雨なので、年配の人たちは足元が悪いからあまり出歩かないだろう、したがって「すいているはず」とカンを働かせたつもりで出かけた。本当は上野でのもう1つの方の美術展が観たかったのだが、それはおそらくフェルメールほど混まない、だからきょうはフェルメールだと思った。
午前中、1つ手配やご案内書作りなどがあったため午後になって出かけたが、まだ小雨。
会場は先日のミレイ展ぐらいは混んでいたが、タイミングが良かったので行列で待たず入れた。私が会場から出ると、外に行列ができていた。


ビーズ作家であり輸入業者である佐藤理恵さんの『佐藤理恵Beads Book』(幻冬舎)を見ていたら、エッセイの欄に面白いことが書いてあった。
「いろいろな国に旅すると、色と色の組み合わせの好みは土地によって異なることに気づきます。(中略)多くの日本人が『みどり』といわれて思い描くのが水田の緑や葉桜の緑であるのに対し、『砂漠の国のみどり』は緑青のような、ターコイズの碧であったりします」(P60)

デルフトの画家であるフェルメールにとって、「青」はラピスラズリの青であっただろう。
独立行政法人となった都美術館の会場の一角にも、ラピスラズリのネックレスがいろいろ売られていた。
<書きかけ→日を改めて>


【No.1093】雑記あれこれのつづき…10月23日

◇コ―マック・マッカーシーの『血と暴力の国』『ザ・ロード』について、こちらこちらに書いた直後、何気なく訳者の「黒原敏行」と「ブログ」の2項検索をしたら、ご本人のブログがあってショックを受けた。
「しもたー、これを読んでから書けば良かったか」と思った。どうせ読んだところで、書くことにあまり違いはないとは思うけれども……。

作家と訳者って、やはり波長が合うと良いものが仕上がっていくのだろう。
黒原氏の訳者あとがきを読んでいると、その情報提供の仕方の知的さに、マッカーシーの作風に通じるところ大だという気がした。

『血と暴力の国』についても『ザ・ロード』についても、誰かに本を紹介しようとか、作品の論評をしようとかいうつもりは申し訳ないけど、あんまりない。
読解の自由、想像の飛躍を存分に保証してくれる小説であったので、まあ実はある数人に向けて、拾ってもらえるかどうかは分からないけれども、私なりの「読み」の提示をしただけ。

bk1の書評投稿は、3000字も書けるようになったのですよね。そしてまた、書くことについて縛りがない。素晴らしい「遊び場」である。
文芸誌ならば、現代文学のなかでの立ち位置や価値をきちんと評価しなくてはならないだろうし、新聞書評ならば読者が買いやすい本に絞って良心的にお行儀良く紹介しなくてはならないだろうし、女性誌・男性誌などに載せるならその雑誌の読者を想定した書き方を強いられるだろう。
でも、ここは誰でも投稿でき、どう書くかも自由裁量なので(無論マナーは意識すべきであるし、自分なりのコードは設けないと目も当てられない)、普通の本の紹介記事や書評にはできない何かができると思うのですよ。それで、何ができるかということを試したい気持ちがあって、その1つとして、自分なりの読解を書いてみるということをしている。ある種の小説に対してだけ、それが可能だと思う。

遊びやゲームなのだが、遊びやゲームだからこそ、仕事のようにギャラに見合ったことをやっておけば良いという見切りもつけず、結構エネルギーを費やしてしまうこともある。
仕事は冷静にやらなくてはいけないけれどね、遊びやゲームは夢中で楽しむものなのだよね。

◇先週、Bunkamuraでミレイ展を見てきた。もう数日で閉幕であるが、ご案内はこちら
英国、オランダ、日本の巡回展で、もうこれほどのミレイのコレクションは揃わないだろうという規模のものらしい。
漱石が『草枕』で書いた「オフィーリア」がメインで、実際私もその画家という認識程度であったが、こういう画家だったかと再認識。
「こういう」を説明する言葉が今夜はまだ浮かびません。
最後にタテ位置のスコットランドの川辺の風景画があって、それにさんざん溜め息をつく気分で見とれていた。風景をタテに切り取って描くというのは、東洋画の影響であろうか。風景をどういう形で切り取るかということについても、ここしばらく考えている。

その日、たまたま30年近く愛用しているスコットランドの品を身に付けて行った。それもあって、ミレイが最後になぜスコットランドの風景画に達したかということも想像してみた。

◇貪欲なので、他にもいろいろ心を動かされているものはあるのだけれども、いちいち書き留めていられないのが残念。
一日中マイクを付けてしゃべりながら歩き回って録音しておくといいかもしれない。「ツイン・ピークス」でチェリーパイばかり食べていたFBI捜査官みたいに……。

【No.1092】雑記あれこれ…10月22日

◇地元駅に某私立大学の付属高校があり、歩いている男子学生の服装がどうもだらしない。
腰パンというのがあるが、腰どころか「腿パン」と言いたいぐらいのスラックスの下げ具合で、革靴(いや、ハルタのクラリーノかも)のかかとを踏んづけて歩いている、見るに耐えないヤツが前を歩いていた。
「いやだねー。これでカッコいいと思っているのか。尾崎豊みたいな反骨を気取っているつもりなのか」と考えていたのだが、急にほろりときた。
――この子、仕事で忙しい親への孝行のつもりで、スラックスの裾出しやサイズの合った靴を買ってもらうことを言い出せず我慢しているのかもしれない。

◇通いの仕事場を出たところで、有名なタレントが角を曲がって歩いてきた。テレビカメラに撮られながら、制作スタッフかマネージャーなのか、あと2名ほど連れている。
えーと、えーと、えーと。
かなり有名なお笑いタレントだよね。
山本小鉄ではなくて、山本小鉄は、もう今を去ること数十年前に本物を目の当たりにしたな。あの巨大なヴィトンのボストンバッグを持っていた人で……えーと、えーと、えーと。
ジョー樋口ではなく、それは審判の名で、えーと、えーと、えーと、プロレスラーのパロディーの人だ。

長州小力――その名を思い出せたのは、中央線に乗り込んで一駅過ぎてからのことであった。

◇芸能人や有名人に遭遇しても、姿を見るだけではあまり感激がないんですよね。
「あらあらあら、いるわ」という感じ。

いや、正直なところ、いい男ならそうでもないかもしれない。
話をしてみて面白いのが一番で、そういう意味で一番印象深いのは故・三波春夫氏であった。

「中村さ~ん、三波先生から電話!」
(えっ、どうして本人? マネージャーではなく……)
と思ったら、先生じきじきの私的なお問い合わせであった。

どういう問い合わせだったかは書けないが、場所を説明する必要があって、その説明のなかで「アビターレ」という家具店が出てきた。
それを口にしたところ、どうも聞き取りにくかったようなので、先生が聞き返してきた。
そこで私は、
「先生、『あいうえお』の『あ』に、『びじん』の『び』で……」
と言ったのだが、それを聞いた先生はすかさず、
「あっ、わかった!」
と小さな男の子のような声でうれしそうに反応。そのあと、
「『たんぼ』の『た』に『ドレミ』の『レ』ね」
と引き取ったのである。
その乗りが「どう、1本取ったわよ」という弾み方だった。

もう、その反応の仕方と反応の内容に、メロメロでしびれまくりでしたね。
だって、実は依頼したお仕事は、そのときもう既に終わっていたけれども、ご出身の新潟関係のことに関したものであったのだ。
「たんぼ」の「た」ですよ、「たんぼ」の「た」……。
水田の透けるような緑が目の前にさあーっと広がっていき、そして「ドレミ」の「レ」ときたもんだ。
それも自分の原点は浪曲であると言って、故郷の盲目の「瞽女(ごぜ/弾き語りで門付けという謝礼をもらって歩く芸人たち)」への敬意について語っていたのを聞いたあとだったので、ひよっと何気なしに出た言葉が、意識的か無意識か、しっかり懐かしい故郷へと還って行くようなものになっていて、「芸」の人というのはこういうものかと感心させられた。

「先生」としたのはおちゃらけではなく、淀川長治氏と同様、そこにいると本当に光を発しているような感じで、自然と頭(こうべ)を垂れさせるような人だったからだ。
「『たんぼ』の『た』に『ドレミ』の『レ』ね」
この声は、ずっと耳の底に焼き付いていて、ときどき思い出すと、あの大阪万博のときの音頭と同様、元気になれますね。

「瞽女(ごぜ)」の説明はこちらが詳しいようだ。
三波先生は、新潟という風土のイメージとはあまりに違うのだけれども、あの七福神のようなお目出度い印象の外面とは別に、ものすごく深い内面世界があったようだ。それにほんの少しだけ触れられる話を聞くことができた。もうどのぐらい昔のことだったかな。
きょうは、こういう話を書くことになるとはまるで思わなかったのだけど、ね。
<この項つづく>

【No.1091】錬金術師の美術館(3)…10月16日


ちょっと前に、この『コーネルの箱』という本が結構話題になったけれども、箱の中の詩的な宇宙というコンセプチュアル・アートで名を残したコーネル作品が小部屋にまとまってあった。

現代美術に力が入っているのは、入口横の外に置かれた巨大なフランク・ステラのオブジェで分かる。このフランク・ステラ(ミニマル・アートの旗手)の巨大なコレクションも天井の高い大きな部屋にぼんぼん設置されていた。一体どのようにして運ばれたのか。どういう梱包だったのか、どのように壁面に取り付けられたのかが知りたい。
毎日午後に学芸員による説明があるらしいので、それに参加すれば質問ができたかもしれない。しかし、残念ながらタイミングが悪く、それはできなかった。

フランク・ステラもそうだと思うが、コレクションに合わせた部屋を用意してあるのが贅沢だ。
何メートル×何メートルだろう。バーネット・ニューマンの赤と白だけで構成された壁紙のような「アンナの光」という作品があって、アンナはアーティストの母親の名なのだが、そこに光が十分回るよう、左右に大きな窓が設けられた部屋が用意されている。
マーク・ロスコの部屋というのもあるのだが、そこは作品貸し出しのため、閉鎖中であった。
貸出先は何と、ロンドンのテート・ブリテンである。
こちらのテートのプレスリリースにthe Kawamura Memorial Museum of Artの名が見られる。ロスコ展特集はこちらで案内されている。
これを見ると、美術館経営が単なる社会貢献でもオーナー経営者の道楽でもないことが分かる。これは、グローバル企業として実に大きな武器となる事業で、見事な企業戦略として機能する。
たとえば、私がここの印刷インキの営業担当だったとする。ヨーロッパで新規取引先を開拓するとして「うちは世界でシェアが一番で、品質は定評を得ている」という説明もできるわけだが、「今、テートでやっているマーク・ロスコの企画展にはうちのコレクションを貸し出している」という話ができる。ついでに、ロスコ展のポスターに使われている絵の色に近いDICの印刷チップを遊び心で見せれば良い。
営業というのは無論、事はこう簡単なものではないのだが、荒削りな流れとして捉えてもらうとして、こういう「売り」ができるのはヨーロッパでは強いですよ、きっと。芸術への投資という意味で敬意を持ってもらえるし、本業である「色」に関連した広がりを提示することができる。外堀から徐々に攻めて行く感じだ。
企業にはそれぞれ事業や伝統に基づく特徴があるだろうから、それに結びつけての広がりを用意しておくと、長い目で「芸は身を助く」的状況も出てきそうだ。もっとも、今の景気動向を見ていれば、企業が長く生き残ること自体が容易ではないのだが……。

川村記念美術館の「芸」の最たるものは、レンブラントのこの作品「広つば帽を被った男」を持っているということだろうか。
レンブラントはやはりヨーロッパの至宝の1つだ。私は日本で、息子に一級品を見せることができて大変に嬉しかった。17世紀に描かれた名画がすぐ目の前で見られるのだ。その存在感はものすごく、対峙すればただならぬオーラが伝わってくる。

他にも2年前の国立近代美術館におけるレオナール・フジタ展に出品されていた「アンナ・ド・ノワイユの肖像」(山岸涼子の漫画のキャラにどこか似ています)やらモネの睡蓮の1枚やら、ファンタジックな橋本関雪の六曲一双の屏風など素晴らしいものがいろいろあった。
今の時季だから展示されているのだと思われる池上秀敏の屏風「老秋」も見事。屏風に鹿が何頭か描かれているのだが、日本画の展示室に入っていった途端、少し落とした照明のなかに本当の鹿が何匹か遊んでいるような幻想を見られる。「日本画と自然」というところから、日本人の伝統的自然観が育んできたものについて考えさせられる。
それを引き摺りながら敷地の散策路の奥にある林を歩くと、悠久への思いにとらわれた。

中世の城を思わせるような領地の作り方に美術館の建物の形――そして、そこに置いてあるのが美術コレクションと錬金術の化学研究者たち。
そういう意味では、ユーモアのセンスも洒落ている。この空間のまとまりが大いなる表現になっていて素敵ですね。

【No.1090】錬金術師の美術館(2)…10月15日

東京には、サントリー美術館、大倉集古館、ブリジストン美術館、出光美術館など、それぞれに特徴あるコレクションを有する美術館があるけれども、市街や住宅地から離れる必要のある化学研究所の隣接地に美術館を建ててしまうというのは、実にユニークだなと思う。
「モーリス・ルイスというまるで馴染みのなかった画家の企画展を見たい」「散策路を設けてあり、しゃれたレストランもあるので良い時間が過ごせそうだ」という理由の他に、もう一つ、この美術館を運営しているDICの企業姿勢って面白そうだというのが、訪ねて行くのに大きな魅力を感じた理由。
コレクションの内容は、行くまであまり調べてなかったのだが、何十億か分からないけれども、過去にためてきた大きな資産を危険扱いされる研究所の隣で公開する――「うちの研究は、それだけの値打ちものを近くに置いていたって平気なぐらい安全ですから」と主張しているみたいではないですか。

子どもを連れて行くに当たり、その辺の、何というか「コーポレート・ガバナンスの一端たる社会的貢献」みたいなものを少し知ってほしいかなという気持ちがあった(コーポレート・ガバナンスって、日本では不正行為が発覚するたびに言われることなのでコーポレート・コンプライアンスといっしょくたにされている。けれども、本来こういう文化事業も含まれるものですよね)。
気取らずに言えば、「将来はサラリーマン」と夢のないことを言う中坊に、満員電車の通勤だけでなく、こういう場所で働くような選択もいいのだよと目を向けさせる。
以下、母の妄想は限りない。
――こういう優良企業に研究員として雇ってもらうには、やはり国立の理系が望ましいかな。このおバカは物理は人並みの出来だが、化学や生物などはまるでダメだ。理系ならば大学院もスタンダードだが、この頭ではやはり無理というものか。
それにしても、この研究所、環境が良すぎるというか、働いている人は一体どうやって暮らしているのか。
JR佐倉駅や京成佐倉駅の周りには、確かにマンションはあった。不動産屋の店先でちらり見かけた物件は、間取り広々の割に家賃は安めだった。コンビニも見かけた。スーパーもあるにはあったが、小さめでパッとせんかった。となると、住むのはやはり津田沼や船橋なのか。だよね。佐倉は歴史あるいい街だが、若者が遊ぶ場所がない。
医療機関は、佐倉の市民病院を聖隷が経営するようになったのは有名だ。あの浜松の爺さんが世話になった聖隷だ(ガンの中核医療センターであり、名士が入院するので有名なホスピスがある)。そういう面では安心だけれど、駅で見た広告には産婦人科がなかったぞ。
いや、お嫁さんの出産場所を心配する前に、お嫁さんをまずどこでゲットできるかが問題だ。男子校から理系に進み、こういう研究所にでも勤められればラッキーだが、一体どこで彼女ができるのだろう。

という具合に、次から次へと像を描いて脳内遊びをするのが楽しい道行。
気がつけば、バスはヨーロッパの郊外の領主の荘園さながら、平坦な水田やピーナッツ畑の先に広がる林を抜け、3万坪という広大な敷地に入っていくのであった。
こうしてレポートしていくと切りがないので、急にぞんざいになるが、敷地内は手入れが行き届いていてきれいで、歩き回っていても転がって空を眺めていても気持ちよく、レストランもなかなかおいしいものが出てくるので、休日の一日を過ごすのにとても良い場所である。

そして、かんじんの美術館。
これも「おお!」と感嘆ものであった。「環境」「箱」「作品」の美しいハーモニー。
すごいものがいろいろ展示されていた。

<この項つづく>

【No.1089】錬金術師の美術館(1)…10月14日

ちょっと前まで、金髪のかっこいいお姉ちゃん(キャメロン・ディアス)が携帯電話片手に、手下を大勢従えて通りを練り歩いてくるCMがテレビで流れていた。あの電話機の提携先は、クリエーターの人ならば知っているであろう、パントンという米国の色見本、印刷インキ、カラーシステムの企業で、印刷の発色の良さは昔から有名であった。

以前、画家の人だったかデザイナーだったか忘れたが、このパントンの色見本チップを原稿に貼ってきた人がいて、「できればパントンを使ってほしい」……。そうは言われても、何千万、何億の仕事ではなし、印刷機のなかのインキを取り換えるわけにもいかないので、「大日本印刷は諸星インキなんだが」と思いながら、「パントンは使えませんので、できるだけこのチップに近づけるということで……」とお断りしたことがあった。
その諸星インキは「ザ・インクテック」とかっこいい名前に改めたようだ。「インテック」というIT企業と似ていて、まぎらわしいけどね。

この大日本印刷とは関係なく大日本インキという会社があって、世界No.1にふさわしく、ここも創業100年の今年「DIC株式会社」とグローバル企業にふさわしい名称変更をしたようだ。製品ブランドを会社名にするのは、「ナショナル→パナソニック」よりも先でしたね。
前置きが長くなってしまったが、昨日、そのDICの企業理念の象徴とも言える川村記念美術館へ行ってきた。

出版の仕事に就いて初めて使ったのが、実はDICではなくて東洋インキの色見本帳であったが、そのあとDICの見本帳は何度めくったことか覚えていない。バブルのときに膨大な量の印刷物を世に送り出す手伝いをしていたわけだが、「もしかすると、その頃の利益でこういう立派な美術館が形になったのか」と思うと、感懐ひとしおなのであった。
美術館ができたのは、1990年のことである。

何か皮肉な書き方をしてしまったけれども、DICの美術コレクションは古くから行われていたことであり、美術館構想もバブル以前からあったようで、建物のある場所、建物と展示された作品の調和、集められたものの価値は、それはそれは素晴らしいものなのである。
同じ敷地に化学の総合研究所があるということで住宅地から隔たった立地なのだろう。千葉県は佐倉市の南西部、電車ならば京成佐倉駅から送迎パスで30分、JR佐倉駅からは20分、車でも佐倉ICから20分ぐらいだろうか。そういう郊外にある。
前から気にはなっていたのだが、なかなか出かけていくタイミングがつかめず、たまたま先週、どこへ行こうかといくつかの美術館HPを見ていたところ、土曜日に書店おはなし会のパートナーが最近出かけたら、とても良かったというので出かけてみることにしたのだ。
<この項つづく>

【No.1088】秋のおはなし会向け絵本のつづき…10月13日


きのう12日のプログラムで、考えてみると、私は2冊しか読んでいない。4冊もパートナーにやってもらってしまった。
しかし、導入、中休み、結びの遊びを担当するので、バランス的にはそのぐらいの割合がちょうど良い。そして、当初用意しておくプログラムの流れや、子どもたちの途中の様子を見ながらの本の差し替えや見切りなどは、強引なところのある私が判断させてもらってしまうケースが多いので、なるべくパートナーにたくさん読んでもらった方が良いのだ。

この会も、導入は『ばけばけ~どん!』を利用。紙しばいは、やはり導入には便利。いかにも「イベントをやりますよ」という雰囲気を作り易い。
子どもたちに参加してもらうような台本になっていなくても、呪文やら掛け声やらが入っていれば、「それを一緒に言ってみようか」と声掛けして参加してもらうことが大切。親にその場にすわっているように言われ、「これからずっと座って、いい子でおはなしを聞いていなくちゃ」というプレッシャーを感じている子もいるので、「一緒に遊ぶ場所なんだ」と思ってもらうことが必要。

「食欲の秋」本ばかり集めたプログラムなので、次はリアルなサンドイッチの絵が素晴らしく、文章量も少なめの『おまかせコックさん』をやってもらう。小人たちが大きなサンドイッチを作るという設定である。
プログラムの最初の方で、『ばけばけ~どん!』の子ぎつねたちや、この小人たちのように、見ている子どもが感情移入しやすいキャラクターを扱っている本を使う方が、自然におはなしの世界へ連れて行ける。いきなりシュールな本は厳しいものだ。
おまかせコックさんは、フランスパンにはさむ様々な具材を順番に用意していく。パートナーは、この本についても掛け合いで、「これは何かな?」と問いかけながら進めていた。原則、著作権上は文章を忠実に読んで再現すべきであるが、「親が子に読んであげるときのやりとり程度であれば許されることだ」というのが私の見解。

つづいては、またまた『ふしぎなでまえ』で、これはじっくり読み込み、じっくり聞いてもらうように進める。そして中休みの手遊び。
後半は、『いもほりよいしょ!』という折り込みページや小さなページがある仕掛け絵本で、こういう本もあるのだと見せる工夫をして、「よいしょ! よいしょ!」と掛け声を誘う。
見ての通り、かわいらしく甘い感じの絵柄なので、『わにわにのごちそう』というインパクトある絵、短くサクッと終えられる内容で、笑いを誘いながらリラックスしてもらい、アクセントづけをしておく。
そして、最後に大型絵本を使って、すでに親世代も知っているロングセラーとなった『どうぞのいす』をやさしく読んでもらう。出てくる動物たちの善意の絵本なので、心を温めてもらって余韻を引き摺りながら、終わりの遊びをごく短くかませてお開きとする。

『どうぞのいす』は普及版はピンク色の枠が表紙に入っているが、この大型絵本では、その枠がないのにお気づきだろうか。
大型絵本はイベントの〆として納得の行く道具。家での読みきかせとは違う体験ができた、別の体験をさせることができたという満足につながると思うので、極力活用している。

他にも、とても小さな子が多いというような場合に備えてスペア本を持参していくものだが、相当読みきかせに慣れている子たちが集まった場合に備えて持参したのが『はたけしごとにとりかかろう』『うしさんおっぱいしぼりましょ』の2冊。
前者はハロウィンもの。畑でかぼちゃを育て、かぼちゃの身を使ってパイやクッキーを焼いたあと、ランタンを作るという流れを追っていて、知識的な要素もある絵本。
後者はナンセンス。牛にイチゴを食べさせておっぱいをしぼるとイチゴ牛乳ができ、バナナを食べさせるとバナナ牛乳、氷を食べさせると何とアイスクリームができる。それで、大鍋のシチュー作りのためにたくさんのおっぱいをしぼったら、牛がしぼんで小さくなる。みんなが困っているところに楽隊がやってきて、牛は楽器と楽隊のメンバーを食べてしまうのだ……!
作者と画家が違う絵本であるが、作者の穂高順也氏は最近ちょっとチェックしている。『ぼくのえんそく』という絵本でも、意外性のあるシュールな設定と展開があり、それが外れすぎてなくて良かった。『ふしぎなでまえ』の妖しい雰囲気向けの子どもたちでなかったら、この『うしさんおっぱいしぼりましょ』に差し替えようと用意しておいた。
『ふしぎなでまえ』『うしさんおっぱいしぼりましょ』などは、小学校の読みきかせで何か1冊というとき、低学年で使える本だ。「何かを教えてあげる」という本もいいが、そういう役割は先生方がやってくれるわけで、PTAとしては、こういった本で頭を柔かくさせてあげる、教室を楽しい雰囲気にして、いっしょに楽しんだという一体感を持たせてあげることができれば成功というのが1つの考え。

おばさんたち、結構、知恵を使って流れを考えているのよ。
あんまり考えないで、ただ読みたい本を読んで帰るおばさんもいるんだけどね。

【No.1087】秋のおはなし会向け絵本…10月12日

最近、ブログにやたら絵本の花を咲かせていますが……。
きのう今日と、都内2つの書店で務めた「おはなし会」で使った本や持参した本。
どちらの会もパートナーがいるので、そのパートナーが用意してくれた本も含まれている。

この上の3冊はきのうのプログラムから。
企業秘密で、導入でどういう手遊びをしたか、途中の中休みで何をしたか、最後のお別れに何をしたかという紹介は避けることにしておく。ネット上で少し気の利いたことを書いたり、少しはましなアイデアを出したりすると、案外巧妙に持って行かれているなあと思えるようなこともあるのですよね(勘違い?)。まあ、そうやって、人の意識の奥底に潜入することが、銀河の彼方の遠い星から派遣された私の任務だから構わないのだが……。

『テディおちばひらひら』は、おなじみのグレイニエツさんのきれいな絵本で、サイズが小さめなのがちと残念。帽子はどちらをかぶるか、ズボンは何をはくかなど、問いかけをしながら読み進められるので便利に使える1冊。
これは、パートナーが読んでくれて、私が『ばけばけ~どん!』(童心社)という、きつねの子どもたちが果物に化けていく紙しばいで始め、その次に持ってきた。『ばけばけ~どん!』は、「ことばとからだであそぼう!」というセット紙しばいのなかの一作。8画面でさくっとやれてリズムよく始められる。

紙しばいと『テディ~』でトントンと楽しく運んできたところで、ムードを変えて、ファンタジー味が濃く、プログラム前半の核ともなる「肝本」を投入。それが『ふしぎなでまえ』。
くそ面白くもない(あらっ、ごめんなさい)童話や純文学作品などを書く作家や作家志望の人は、こういう作品を味わって、脳を活性化させると良いと思う。今、日本の絵本界期待の作家である、かがくいひろし氏の作品。1955年生まれで3年前にデビュー。学校の先生をずっとやってきたというのだけれども、教育界に身を置いていたとは思えないぶっ飛び方でいいですよね。いや、子どものなかにいたからこそ、みなぎってくるものがあるのだろう。
いもすけ団地の「じゃがさん」と「さつまさん」が、おなかがへったのでラーメン屋、おすし屋、てんぷら屋から出前を取ることにするのですよ。すると、一番先にラーメン屋の出前が届くが、空の皿とどんぶりがやってきて、「おれたちにごちそうしてくれ」と言い出す……。
着想の面白さに加え、読み手がメリハリをつけやすい展開となっていて、ちょっと擬音を利かせた文章もよく練られている。途中、暗くて怪しげな場面も出てきて、何を欲するかという子どもの生理にそぐう内容だ。ドスが利く自分の声にフィットする本に出合えて嬉しい。これは2日つづけて、子ども大人問わず、会場をわかせることができた。
忘れず、導入に「出前」という概念をさらり紹介して始めると良い。
ここで中休みに遊びを入れて後半へ。

後半の核は、パートナーが持ってきてくれた古い本で、私はまったく知らない本であった。絶版なので、都内の大型書店のどこでも見かけたことがない。
福音館の「かがくのとも」シリーズの『ピーナッツなんきんまめらっかせい』――これ、復刊しましょうや、福音館さん。落花生がどういう木に、どういう状態でできるかということがよく分かる、実に素晴らしい絵本だ。「かがくのとも」シリーズは好きでよく使う本があるけれども、これほどの本を知らないとはうかつであったぜい。
何とamazonで古書店が出品していて、どこも10000円の値がついている。絵本界のナボコフ状態である。そして、ヤフーのオークションでは「5000円即決」で何回か出品されている模様。amazonの該当ページはこちら

この優れた科学絵本のあとに、パートナー持参のちょっと軽めの楽しい絵本(秘密)を入れてクッションにしようかと考えていたが、時間もそこそこ経っていたし、そろそろおしまいに向けた方がよさそうな感じが子どもたちから伝わってきた。そこで、最後の本に進むことにして、大型絵本『にんじんとごぼうとだいこん』という日本民話で〆ることにする。
人参、ごぼう、大根がなぜそれぞれの色をしているかという由来話ですね。根菜であるし、お風呂に入る話なので、これからの季節にぴったり。ご覧の通り、和歌山静子さんの絵はくっきりすっきり遠目がきく。それが大型になっているので、イベント向けとして実に有難い。
という流れで、「食欲の秋」中心の絵本でまとめることができた。

問いかけるとそれなりの反応が返ってくる会で、絵本の良さを提示する読み方さえすれば、子どもたちが十分にそれを楽しんでくれた。本と子どものコミュニケーションが主役。私どもは黒子として、それなりのことをするだけである。
<この項つづく>

【No.1086】『カナリア王子』復刊…10月12日


『くもの巣の小道』から入った私は、相変わらず、イタロ・カルヴィーノがSF作家だと言われてもピンとこなくて、「レジスタンスの作家だよね」という石頭の認識だが、その国粋主義の発露とでも言うべき、民話再話の仕事。

いや、今、絶版絵本の調べ物をしていて、たまたま福音館のサイトに行ってみたのだが、左の『カナリア王子』が復刊になったようですよ。
所収されているのは、「カナリア王子」「とりごやの中の王子さま」「太陽のむすめ」「金のたまごをうむカニ」「ナシといっしょに売られた子」「サルの宮殿」「リオンブルーノ」で、岩波文庫『イタリア民話集』全2巻とは違うものも入っている。確認できたのは、少なくとも「太陽のむすめ」「リオンブルーノ」。岩波文庫の原書収録一覧表で全部突き合わせようとしていたけれども、全部に当たるのは面倒なのでギブアップ。

『カナリア王子』は、自身で童話も書いていた安藤美起夫の訳。
ご参考まで、右の『みどりの小鳥』は岩波書店の児童書として出ているもので、岩波文庫と同じ河島英昭氏・訳だが、実は収録作品が文庫とは重ならないものがほとんど。

【No.1085】心に荒野をさ迷わせて(3)…10月11日

マッカーシー『ザ・ロード』のように子どもがつらい目に遭う小説、人びとがしんどい思いをする小説など、楽しめばいいはずの自由時間に何でわざわざ手に取って読むのか。
心が安らぐようなきれいな場所に出かけて行ったり、おいしいものを食べに行ったり、気の利いたものを買ったり、エステやマッサージで気持ちよい思いをしたり、友だちと飲み食いして騒いだり遊んだりすればいいじゃないかと思えなくもない。もちろんそういう楽しみも持つわけだが、「そうそう毎日楽しいことばかりなくても良い」とさえ感じるのは、比較的平和で物に困らないところにいる者の「エゴ」や「物好き」なのだろうか。

「違う世界を知りたい」という好奇心なのか、「感性を鈍らせたくない」という「きれいになりたい」と同じ顕示欲なのか、「確かなものをつかみたい」という熱意なのか、「思索が自己同一感をもたらす」という精神安定効果なのか、「芸術的価値に圧倒されたい」という人類への希望なのか……。
おそらく、そういったものすべてが渾然一体となっている。

折々に、道をよりシンプルにできる選択、苦を排除していく選択はあったのではないかと少しばかり悔いることもあり、だが、求めるものに近づくことでこうむった苦労を割り切れないわけではない。

求めていれば近づくことができる証しの1つとして、この本で得た価値観が挙げられる。
ここには、ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家オルハン・パムクの授賞スピーチが収められている(書影のリンク先にもごちょごちょ書いています)。

パムクは、この世の幸せからかけ離れていても、「いい人生」と言える生があることを述べている。その人自身が「幸福な人生だった」と感じられなくても、「いい人生」と思えるものがあるというのだ。
「幸福」と「いい人生」との間に断層があるという考えが私には、良き音に響いた。

では、「いい」と思えるには、どうすれば良いのか。
―-それは、持てるものを惜しみなく尽くすということなのではないだろうか。
書いていることが徐々に説教めいてくることが嫌なのだが、恥じずに書くなら、「力」そして「真」を尽くすことなのだろう。そのとき、自分にできることをきちんとやっておけば、たとえ選択に誤りがあったとしても悔いは残らないだろう。
もちろん、個人の選択というものはちっぽけであって、それが意図せず、人知を超えたところにある大いなる非業や悲劇に結びついてしまうことは少なくない。選択や行為の結果として、その苦さを突きつけられたとしても、できたことをきちんとやっておきさえすれば、「ああしかできなかった」と自分を納得させることはできる。納得できるとき、幸福からかけ離れていたとしても、「それでよかった」「いい人生だった」と思えるのではないだろうか。
そう納得できることが幸福だと思える、どこか禁欲的な人間もいるということなのだ。

心を敢えて荒野にさ迷わせる。さ迷わせれば、その先にこういう金の言葉が転がっていることもある。それは力強く人間を支える。
選んで、本を読んでいく。そしてそれに自分なりの「読み」を擦り合わせていく。
荒野の先に楽園を期待するのではなく、荒野で金を拾うというのはいいものですよ、とても……。

*きょうはひとりでまったりしているので、午後の仕事に行く前に、茶漬けすすりながらきちんと完結させられて、よかった。

【No.1084】ル・クレジオは苦手…10月10日



苦手ならスルーすれば良いのですが……。

ノーベル文学賞も日本時間の昨夜発表され、現代フランス文学の大御所ル・クレジオ氏が受賞。
さすがに、文学賞まで日本人で今年度は5人輩出――ということはなかった。けれども、まだ、平和賞が残っていますか。文学については、今、日本で受賞に値する人がいるかどうかは疑問。私、川端康成のほかに誰が受賞したかを思い出そうとすると、三島由紀夫に安部公房と思いついてしまうけれども、そうではなくて大江健三郎氏なのですよね。

ル・クレジオはパパがイギリス紳士で、ママンがフランスのマダムという、ご当人も素敵な紳士ですよね♪
でも、残念ながら、彼の文学作品、こと小説にはどうも相性が悪い。
唯一、読んで何か書いてみる気になったのは、『アフリカのひと』という上左端の父のことを書いた本。書影から飛んでいくと、紹介文があります。あまり大したことは書いていない気がしている。
その下の『黄金の魚』は読んでみたけれども、強烈な印象を残すものではなかった(私にとって)。つらい目に遭った少女の話が順当に書かれているという印象だけで、何か書くまでの心の動きに至らず。
そして、大著の『はじまりの時』、『偶然』は、何か文体(と言っても日本語訳でのことですが)に入り込んでいけず、途中リタイアしている。
もっとひどい話があり、先日たまりすぎた本を処分していたときに、日本では割に有名な方の作品である『海を見たことがなかった少年』の文庫本を迷いなく捨てました。未読のまま……。カバーを傷めてしまった上、古びてしまっていたので、ブックオフでも売れないだろうと考えた上での廃棄である。どうせ家族も読まないだろうとも思った。ごめんなさい。

今、調べてみて、下右端の『歌の祭り』というノンフィクションなら読めそうかもしれないと思ったけれども、200ページ余りの本で3000円もするなんて……と引いてしまった。図書館ででも借りようか。
できれば、河出書房新社で代表作の1つの『大洪水』をこの機会に文庫化してもらえれば、買いたいと思う。

ノーベル賞はやはり、結構動きますね。
昨夜bk1で見たとき、24時間内発送や2~3日以内発送のステータスだったものが、取り寄せステータスになっている。また、図書館の予約ステータスも見てみたら、最近刊の『はじまりの時』を中心に予約が入り始めている。
けれども、店頭に積むために出版社に注文が入っても、それが売れるかどうかが1つのハードルであり、さらに、読まれるかどうかがもう1つのハードルであることは言うまでもない。
読まないで捨てるという残酷な人間もいる(笑)。

本って、案外過酷な運命を負っているかもしれない。いや、私のような不届き者が、過酷な運命にしてしまっているのかもしれない。

◆募金目標額達成のお知らせ◆

【No.1075】でお願いしていた「岩田天晴くん(13歳中学生の男の子)が海外で心臓移植するための支援募金」について、本日8日(水)付で、目標の1億3850万円を達成したとのホームページ発表がありました。
詳しい情報は、 こちらでご覧になれます。
ご協力ありがとうございました。
引きつづき、天晴くんの手術の成功を皆さんとともにお祈りしたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。

やっぱり嬉しいよね。

【No.1083】心に荒野をさ迷わせて(2)…10月6日

なぜ募金活動のような社会的活動に関わろうとするのか。
それは1つには、喜びが限られている自分の生活に喜びを加えたいからだ。少しでも自分が関わっていれば、これから良い結果が出るたびに「嬉しい」と思える。
例えば、この募金活動には目標額が設定されている。それに到達したことを知れば嬉しいだろう。そして、この天晴くんという男の子が、生きたいと願う力で大変な手術に臨む。彼は必ず、その願う力でもって闘い抜くであろうから、手術の成功を知れば嬉しい。そして、体力を回復して退院すれば、それもまた嬉しいし、帰国報告を聞ければ嬉しい。元の生活に復帰したとなればさらに嬉しい。
「自分の生活のささやかな部分にほとんど喜びを見つけられない」と言うほど私は無能ではないつもりだが、日常生活のなかで、喜びというものはそうそう多いものではない。むしろ困りごとや不安ごとに振り回されている時間の方が多いかもしれない。だが、こういう機会に加わり、不謹慎ではあるが便乗させてもらえれば、明らかに喜びの機会は増える。

それは、月々5000円の援助金をプラン・ジャパンに出すことも同じで、成長した子どもの写真とレポートが遠い国から届くことも嬉しいし、長い年月のあと、子どもたちへの援助という形で発展途上国の一地域に投下された資金が、地域の公共設備を整えたり暮らしの向上につながったりしたという結果を聞けることも嬉しい。
被災地への募金もそうで、復興のニュースに触れれば嬉しい。
また、医療機関でのボランティアも、ときどき望外の嬉しい報告を聞けたり、嬉しい状況に出くわせたりすることがある。
喜びを得ることを当てにして力を注ぐというのもみっともない話であり、ボランティアや篤志の本来的あり方に反する。そして、それらは必ずしも喜びにだけつながれるものではないこともあるが、総じて精神的充足は多い。「自己満足」というエゴは批判されても言い返せないが、少なくとも自分にとっては、時間やお金をそういうものに割くことが自分の存在に意義・価値を付加してくれる気がするのである。一日、一晩思い切り遊び、遊んだあとに一抹の寂しさを感じるよりも、静かに喜びにひたされていく方が自分には良いことが多いのだ。

いま1つ、気取って言えば、様々な社会的活動こそは、閉塞的な社会の状況を何とかしていく可能性だと感じられるのだ。
前にも、日本代表を応援するのに集まったサッカースタジアム満員の観客を、社会的な働きかけに転化していけば、まだまだ日本は行けるとか何とか、書いた記憶がある。
自由競争社会への転換で、日本の社会は、捨ててはいけなかったセーフティネットまで放棄したかのように感じられる。具体的に言えばワーキングプアの生活困難であり、手厚くどころか厳しさを増していく高齢者福祉、障害者福祉ほか社会的弱者への援助の削減などである。
これらは「自由競争になったから、個人責任になった」というように語られる。そこで私たち個人は、「個人責任だから家族単位で何とかしなくちゃ」と思い、他人構わず自分たちだけ安泰であろうと考えがちになる。しかし、個人責任というのは民間責任ということであって、エゴで何とかしろという話ではないのではないか。

今回の募金でホームページを見ていて感じたのだが、何かを感じた人が「点」となり「線」となって、明らかに全国規模でネットを形成している。「これはすごい」と思った。まさに「共済」である。
1000万を越す大口の寄付があったということで、それが何なのか確認していたら、前に同様の募金活動を行った団体が、余剰金で今も活動をしているのである。海外での移植手術を必要としている子どもたちへ、募金目標金額の10分の1を目安に寄付の判断をしているというのである。多くの人びとが出した浄財が、賢明な発起人たちの機転で、1つのセーフティネットから別のセーフティネットへとかぶさっているのだ。これにも言いようのない感激を覚えた。

偉そうなことは言えないのだが、行政が当てにできないとしたら、「行政が何もやってくれない」と文句を垂れているだけでなく、心ある人たちが有機的に結びつき、「助け助けられる」を繰り返して行くしかないのだと思う。地元というコミュニティだけでは限界があるので、エリアを越えたコミュニティを複数機能させていく必要がある、各人が自分の周りで……。ただし、これには資金と人的貢献が必要であることは確かで、それを「助け助けられる」のバランスで釣り合わせて行くことは大変に難しい。

というわけで、自分が信頼を置いている医療機関のボランティアグループ、息子がお世話になったサッカークラブ、読みきかせ仲間などを中心として、少しばかりネットを張ってみた。チラシを置いたり、渡したりというささいなことなのだけれども……。
結構勇気のいる行為なのだが、こういう話に嫌な顔をする人はほとんどいない。嫌なニュースや不安なニュースばかりがあふれている世の中だけれども、少し動いただけで意気に感じる人たちを確認でき、それがまた嬉しかった。
<この項つづく>

【No.1082】心に荒野をさ迷わせて(1)…10月4日


6月に出たコ―マック・マッカーシー『ザ・ロード』をようやく入手して少しずつ読み進めている。読み進めていると、やはり『血と暴力の国』も併せ読む方がいい気がして、先ほど注文しておいた。こちらの方は、「ノーカントリー」という題でコーエン兄弟が映画化して、2007年度のアカデミー各賞に顕彰されたことを今さら知る。最近、まったく映画のチェックができていないのだ。
「コーエン兄弟っていいんだよね」と思って、映画のデータベース・サイトで調べていたら、私って「ミラーズ・クロッシング」「バートン・フィンク」「ファーゴ」の3本しか観ていないじゃん。それぞれ1990、1991、1996年の制作であった。どれも劇場で観ている。さがせばパンフレットもあるはず。
――子どもを持ってから、一番削ったのは映画を観る時間かもしれない。限られた自由時間は、やはり本ということになる。

『ザ・ロード』は、買おうとしたら初版と5刷のものが平積みになっていて、しばらくどちらにするか悩んだ。帯が痛んでいなかったということもあって、結局5刷の方にした。7月初旬に読売新聞に出た小野正嗣氏の書評が帯になっている。本の紹介としては助かる内容だ。だが、これは余談だが、「傑作」という表現は、プロは使うべきではないのではないかと思う。どう傑作なのかということをしっかり書き抜いたそのあとで、使うことが初めて許されるのではないだろうか。
同様にして、「とにかく」という表現でまとめに入る文章は嫌いだ(小野氏が「とにかく」を使っているわけではないけれども……)。
海外文学で5刷というのは、かなり当たったということになるのだろう。印象として、95パーセントぐらいの海外文学は初版刷りっ放しで在庫切れと共に姿を消して行く。在庫でとっておいてもらえれば御の字で、しばらく様子を見たら断裁処分のものも少なくないだろう。在庫は課税対象らしいので……。
それにしても、『ザ・ロード』がハードカバー、『血と暴力の国』が扶桑社文庫、これでビデオでは既に観た『すべての美しい馬』を買うとなるとハヤカワepi文庫だ。体裁が違うと、本棚に収める場所を見つけにくい。

米国でかなり売れた評判作であるから(200万部近く出ているらしい)、6月に出たときに、すぐに手に入れようとも思ったのだが、正直「ちょっと怖い」と感じた。終末的な世界をひたすら歩く父と子の話だというからだ。
子を持つまで、私には弱味と言えるものがないように感じていたのだが、目下のところ唯一の弱味は「男の子」で、いかにも男の子が苦しむ場面が出てくる本だということが分かるものを読みたくはなかった。
読み出してみると、やはりその感覚は大事にすべきだったかと悔いる場面がいくつも出てくる。それもあって、そして文体のせいもあって、夏目漱石を読むようなペース――つまり、日に20ページ程度ぐらいしか読めない。
この先、決定的な破滅が出てくると分かっているのならば読みたくない気もしている。その辺が気になったので、先に訳者・黒原敏行氏の「あとがき」をつらーっと表面読みしていたら、作者のマッカーシーは年を取ってから子を設けたというようなことが書いてあり、とりあえずは安心した。それならば、ここに出てくる子がひどい目に遭っても、何か希望につながる終わりを用意してくれているのではないか、と。
それを信じて、しばらく読み進める気になった。

上に海外での心臓移植を希望する男の子の募金情報を掲げている。
これも、チラシの写真の笑顔を見てしまったとき、まさに「男の子」という弱味を突かれてしまった。
こういう記事を掲げていると、「安穏と暮らしているどこかの奥さんが、ええかっこしいでやってるわ」と受け止めてしまう人もいそうだ(もっとも、続けてこのweblogを読んでいないと、書いている人間がどういう者かは分かりはしないだろうが)。
弱味を突かれたから協力したいという気もあるが、なぜこういう社会的な活動に興味を持つかということには他にもわけがある。
<この項つづく>

【No.1081】紳士の残酷…10月2日


ダレルの「アレクサンドリア四重奏」4部作の表紙は、もうすでに、ここに何回か貼っている。
数日前、やっと4巻をひと通り読み終えて感じたことには、当然のことだが、「4部作は4部読み終えるまで真価が分からない」。
先日、【No.1073】の記事で、第4巻の前半部分から気の利いた表現の文章を大量に写していたときとも、読後の印象がまるで変わってしまった。

このシリーズは、「小説読み」、こと「文学読み」を自負する人には外せない作品であり、20世紀文学の頂点の1つという評価に間違いはなく、そういう人たちが賛美しきりなのはよく分かる。私も豊穣たる文学世界をひたすらに賛美したい気持ちがある。
しかし、ある1つの切り口がふっと浮かんできて、それによってこの作品を再確認、再認識したとき――それがここ数日の読後のことなのだが、何かとてもひりひりと心が痛んで耐えられないほどに、たまらなくなってしまった。

その切り口とは、ダレルはどうしてこうも、むごい要素を入れて作品を書いたのかという点だ。
具体的に言うならば、身体の破損。

容貌や知性、才能、富に恵まれている男女の交情(肉欲という狭い意味ではなく、漢字の字義通りの意味で)を描いた小説である。彼は、そのなかの数人に、身体的な破損を与えた。
ある者は滑らかな皮膚を失い、ある者は片目の視力を失い、そしてある者は……。

この作品を知る人には、違和感があるように感じられるかもしれないけれども、「ゴッドファーザー」を想起した。PartⅡだったか、PartⅢだったか、記憶が入り混じってしまっているが、教会権力とも結託して「望月の欠けたることもなしと思えば」という栄華を極めたコルレオーネ・ファミリーで、誰かが「敵は愛する者から奪っていく」というような発言をしたかと思う。物語はその言葉通り、かけがえのない存在を次から次へと奪っていく。実のきょうだいや義理のきょうだい、懐刀、娘など……。
血で血を洗う粛清であるが、しかし、そこにはコッポラ独自の映像美学、映像詩学があり、観客はそれを確認しに、そして、気づかない深層の部分で、誰がどういう死に方をするのかを確認しに見に行くわけである。あれはあれで、「仁義なき戦い」として奪われていくことが「マフィア的調和」であり、さらに言うなら、「ハリウッド的調和」であった。

しかして、この4部作でふいに出てくる身体的欠損の場合はどうか。
ダレルが目したのは「小説的調和」かというと、そういうことではないのだろうと感じる。
小説の舞台の中心はアレクサンドリアであり、エジプトの内奥にも行くが、ギリシアの島にも飛ぶ。くくってみれば地中海世界である。
容貌や知性、才能や富といった要素は、私には現代版「真・善・美」であろうと取れる。つまり、ギリシア的世界の至高価値が「真・善・美」であったのに対応して、現代的な至高価値、とまではいかなくても、重きを置かれる価値が容貌、知性、才能、富といったものだということである。
ダレルはそのような完璧に近いギリシア的世界、幸福であるギリシア的世界を、パンドラの箱から飛び出した数々の卑俗なものや邪悪なものを集めて、解体にかかったのではないか。その象徴が身体に与えた破損だと思えるのである。
何のために?
確信は持てないけれども、今のところ私が出した解答は、「まぼろしのように美しい世界を還俗するため」ということである。、結局それは、第1と第4の物語の小説家志望の青年、ダレルの化身である青年のイニシエーションということになろうか。
夢見る青年が現実にリンクしていくとき、人はそれを「大人になる」と言うわけでしょう?

イニシエーションのために身体の破損を用いるのは「死」を用いるより残酷であると思われるし、「大人になる」ことを書くこと自体、ある意味、とても残酷ですよね。

[追記]うん、きょうの文章はちょっと池澤夏樹氏に読んでもらいたいような感じ(笑)。いや、どうせなら、訳者の高松雄一氏に……。
この解釈、どうでしょう、と。

【No.1080】目についた秋の新刊絵本中心に…10月1日

朝、家を出るときは書店に立ち寄るつもりはまったくなかった。重い荷物を少し遠くから引き上げてきて、一部某所に設置するという用事があり、残り分もそこそこ重いのに、絵本、海外小説、SF文庫各1冊をつい買ってしまい、さらに地元駅で食料品を買い出し。
この間の日曜、立ちずくめのご奉仕を長時間したあと、やや癖になりつつある右ひざ靭帯の違和感もあるので休養しようとして、きのう今日を休養日に当てるつもりが、「やはり体力はありす過ぎるかもしれない。このパワーは真っ当に社会に還元していかないといけない」と自覚した。

しかし、朝は弱い。もう半世紀近くを生きようとしているのに、血圧が低い。初夏の検査では上が100を切っていた。毎度のことなので驚くには及ばないけれども……。下が60台で間があいているから健康は健康なのである。健康だが、朝の機嫌はすこぶる悪い。
5時半起きでお弁当と朝食を作るというのが結構しんどく、最近、7時半から8時ぐらいまで、再び横になってから仕事に出かけたり、諸活動に入ったりするという悪い癖がついた。先日、午前中に予定がない日は、目覚めたら10時ぐらいで焦り、掃除を適当にごまかしてしまった。

左端の『ネコとサカナ』を買ってきたのだ。なぜ、『ねこはしる』『きつねのおきゃくさま』と並べたかというと、ベストセラー『あらしのよるに』シリーズもそうだけれども、「食うか、食われるか」――つまり、「捕食」の関係で、「食欲の秋」という線で面白いかなあと思ったのだ。
『ねこはしる』はハンディサイズの童話本で出ているけれども、これは24画面の紙芝居。24画面は、ちょっと厳しいように感じる。現物を見ていないので紙芝居としての処理がきちんとできているかどうかも未確認。
『きつねのおきゃくさま』は泣ける「自己犠牲もの」の定番で、前に紹介文を書いたけれども、もうそのリンクは切れてしまったみたい。
話が前後するが、『ネコとサカナ』の訳者は「100万人のキャンドルナイト」の呼びかけ人代表の辻信一氏。
それから、『ネコとサカナ』で、最近読んだパワーズ『われらが歌う時』に大切なモチーフとして使われている「魚と鳥」についてのことわざを思い出した。

『パンプキン』は千葉茂樹氏の翻訳ということもあり、注目。去年出た『りんご~津軽りんご園の1年間』や『しょうたとなっとう』のような「できるまで」を紹介した写真ノンフィクション絵本の海外版。ハロウィンは最近、幼稚園行事で行うところも増えたみたいだが、ハロウィンに使うかぼちゃが育つまでを描いている内容がしっくりくるほど定着度があるのかどうかは疑問。日本のノンフィクション絵本とやや異なり、ファンタジー味が少しあるのに惹かれた。この本を検索していたら、関連本で『ハロウィンのランプ』が出てきた。日本の作家だが、登場人物には外国名をつけているみたい。
『いとしのおばけちゃん』『おばけやしきなんてこわくない』は、やはりハロウィン関係でこの時期出たものと見受けられる。
私、タブローは抽象画が好きなのだが、絵本に関しては、デフォルメが強いものはどうも苦手である。これはおばけだからまだ良いのだが、タイポグラフィも使われており、読み聞かせにはあまり向かないと見た。
『おばけやしきはこわくない』は、おばけ屋敷に潜入した子が、こわい話をしているおばけたちから身を隠して「こわくない」と言いながら中をうろうろしているのだが、最後に意外なものにこわがってしまうというオチ。絵は個性あり。小学低学年ぐらいが一番楽しめるかもしれない。園児さんたちは、こわがる子も多いと思う。

『パパがやいたアップルパイ』は絵がいいのだが、言葉の展開がいまひとつではないかという印象。季節的には、まさに今にぴったりなのだけれど……。
『あなたがだいすき』は、割に新しい出版社なのか、去年もちょっと目を引く絵本を出しているコンセルという版元の新刊。親がいかに子を愛しているかという、割によくありがちなテーマを扱ったもので、そうベタベタせず、いかにも「泣いて」風でもなくまとめている。
『ゆめみるリジー』は『ネコとサカナ』と同じ出版社で、同じようにオーストラリアの児童図書賞に顕彰されている。中身を見たことがなかったのだけれども、すごくいい絵だった。今までにあまり高い評価をされているのを見たことがない(私が知らないだけなのかも)。児童書出版社の協会に名を連ねてないと、チェックからもれてしまうのだろうか。おそらく、出版社でも評論家に献本を熱心にしていないせいだろう。

『ゆめみるリジー』については、ちょっと気になることがあった。扱っているのがオーストラリアの開拓最前線、つまりフロンティアの一家の話なのである。
野中の一軒家の暮らしを描いていて、想像を絶するような孤絶感、寂寥感が根にある。日曜なのに近くに行ける教会がない、買い物に行く市もない、子どもが通う学校がない、したがって遊び友だちもいない。リジーはそれらを全部、想像で補うという展開だ。
そこには、オーストラリアのフロンティアならではの特殊事情が背景にあるのではないかと感じた。つまり、オーストラリアの評判を下げる意図ではないが、この国でフロンティアにいた人たちは、米国とはやや事情が違いますよね。「ならず者」として、英国にいられなかった人たちが、初期の移住者には少なくなかったという歴史があったはず。政治犯やら。
オーストラリアの作家ピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』という小説を思い出したが(ケリーは時代が異なるけれども)、このあたりのことをオーストラリアの教育ではどう教えているのかと考えた。その辺のこともあって、こういう絵本の形で出てきた点に意義があるのならば、ただの「社会から隔絶した一家の深い絆の話」という受け止め方では足りない。そういう意味でのオーストラリアの評価を知りたい。……いや、ネットで検索すれば、何かに当たるかもしれないですけどね。
絵本って、そのように国や民族、社会の特殊性を知っていると厚い評価ができるものもあるのではないかと感じる。絵がどうだ、話がどうだ、両者のバランスがどうだ、翻訳がどうだ、誰に向いた内容かといったことばかりでなく――日本の絵本評はほとんどがそこで終わっているという印象だが、誰かがもっと広い視野で「位置」「価値」を論じてもいい気がするなあ。私にはできんけどね。

【No.1079】小さい秋をさがして…9月30日

年末までに世界経済が滝壺に向かって落下していくような気配が漂うところ、こういう絵本たちを、はたして自分が乗る小さな笹舟に積んでいけるのかどうか。せめて、小さな秋のぬくもりを今のうちに楽しんでおこう。

この『おはなし会プログラム』というのは、所属団体JPIC(出版文化産業振興財団)の関連NPOで出したもの。どのプログラムが誰の案かという記名はないが、87名の協力メンバーに名を連ねている。幼稚園、小学校、学童クラブ、書店、育児サークル、高齢者施設向けなど、さまざまな状況を設定した選書が、季節ごとに分けられ掲載されている。

この本をパラパラめくったり、出版社ホームページで新刊情報を確認したりしながら、「今月は中秋の名月にちなんだ月の本、敬老の日にちなんだおじいちゃん、おばあちゃん本でしのいだが、さあて、来月の書店おはなし会は何で行くか」と考え始めたところなのである。
下にずらずら並べた本は、「一般書店の児童書売場で季節感を演出するのに並べられる本」「ぱっと見て、かわいい、きれい、面白そうと思ってもらえそうで、売り上げにもつながりそうな本」という視点で拾い上げたものがほとんど。
表紙印象なので売場作りをするには役立つとしても、これがそのまま読み聞かせに使えるわけではない。
また、店主や店員の価値観を示して対面販売を行える児童書専門店のラインナップとも、アートっぽい絵本が好まれ絵本通に評価される絵本とも、学校図書館協議会のような権威で評価される絵本とも異なるだろう。私が医療機関で子どもたちに読む本とも、重なる部分があるけれども、異なる部分もある。
同じ「絵本」と言っても、かように微妙な縄張り的なものがあると分析する。そして、実は、自分が好きな本ばかりというわけではなく、大して気のない本も含まれている。
どういう縄張り内であっても、本に触れる人が「その人なりの自分にとっての1冊」が見つかれば良いではないか――というのがスタンスなので、「絵本というもの、こうでなくてはならない!」という宗教がかった思い込みは持たずに関わるようにしている。つまり、「玉虫色」ということですね。

下に「いもほり」という秋の行事もあるが、左のきつねのきっこちゃんの本『やまこえ のこえ かわこえて』は、「お月さま」という切り口でも使え、「秋祭り」という切り口でも使える。ただ文章は、書店のようにざわついた場所で読むにはやや長い。じっくりお話が聞ける環境向け。小学低学年の10分間ぐらいの読み聞かせにも向いている。昔はご夫婦で共同制作されていた小出保子さんの絵は、ひょうひょうとしたところがあって好き。
右の『ころわんがよういどん!』は新刊。しかし、世田谷でやるときは、運動会が春なので使えない。「ころわん」は『かくれんぼころわん』も紅葉や落ち葉の背景なので秋向き。2~4歳向けかな。

『どんぐりとんぽろりん』は10月に新装で出るみたいだが、いつだろう。ちえっ、まだ使えないのか。これは昔出た版。
才能あふれる絵本作家いとうひろし氏の『おちばがおどる』は落ち葉で作られた力作であり、その価値が大きい。ごく短い言葉が添えられていて、読み聞かせの現場ではいまひとつの受けであった(おまえが読むの下手くそなんだろ、と言わないでおくれ)。もっとも、場所が違うと反応が違うので、再度トライしても良い。
『あかいはっぱきいろいはっぱ』は、きれいなので並べてみた。読み聞かせというよりは、ひとりで眺めるのに適した本と受け止めている。

ハロウィンを意識して、「魔女」に持ってくる切り口もある。『まじょのおとしもの』『ちいさな魔女リトラ』――この2冊は地味な表紙ですね。
左の油野誠一氏と右の広野多珂子氏は好きな画家。中身は……、まだ見ていません。ごめんなさい。広野さんは、『魔女の宅急便』の続編でおそらく不本意にも絵をつけることになったので(最初の本の挿絵画家が描けなかったため)、オリジナルの魔女本を出したのだろうか。余計な話ですね。

『りんごがドスーン』は1975年刊なのだが、先日、今年の1月に45刷で出ているものを見つけ、なつかしいと買ってしまった。今月、ある書店で読んだが、ごく短いのでリズムよく会を進行させるのに有難い1冊。かじられたりんごが「傘」にもなる。雨の多い時期に使うのも一つの手。
『ちゃくりがきぃふ』『干し柿』は小学生向け。ただし『ちゃくり~』は読む技術が結構いる。緩急に気をつけ、はなし家のようにメリハリつけてやらないと白ける。『干し柿』は、年輩の人が日本の食文化を伝える意味でも活用できる。

「食欲の秋」と考えれば、ありとあらゆる食べ物絵本が使える。『サンドイッチ サンドイッチ』という新刊も福音館から出た。遠足に絡め、おべんとう」という切り口でもまとめられる。
左端『いろいろじゃがいも』は『いろいろごはん』『いろいろたまご』などもあるシリーズもので、2~3歳ぐらいの小さな子から使え、いろいな料理を確認するなら、小学中学年ぐらいまで他の本との組み合わせで使える。真ん中のいもとようこ氏『おいもをどうぞ!』のかわいらしさは私には程遠い世界だが、見栄えして良いですよね。右端『ねずみのいもほり』は大型絵本で出ていて、これが集まる子に応じて使えるかどうかを見極めてから、やるようにするつもり。

[追記]『干し柿』は、「干す」「天日の恵み」ということで、『あじのひらき』『せんたくかあちゃん』などとブックトークのネタにもなる。ここで『北風と太陽』というように展開すると説教くさくなるが、オゾンホールのことを持ち出して地球温暖化につなげていくと、現代的な流れのプログラム作成が可能だと思う。
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
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