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【No.1058】雑記あれこれ…8月4日

◇最近、朝と、時間が作れる午後の適当な時刻に、家の前の道のみならず、よその家の前の道までざっと掃いたあとに水をまいているが、気のせいか、バイクに乗ったお兄ちゃんたちの吸い殻のポイ捨てが減った。汚い場所にはポイ捨てしやすいけれども、きれいにしているとしにくいという話なので、周辺美化に努めてみているわけだ。何か『北風と太陽』の話みたい。

◇「ポニョかインディ・ジョーンズかスカイ・クロラか観に行かない?」と息子を誘って断られた週末(ヘコり←造語)。校外学習で3泊4日出かけていたから、しばらく家にこもっていたいそう。第1日曜はCSのほとんどが見放題だからということもあったみたい。
仕方なく、「海猿」というのを観た。基本を忠実に押さえた映画もたまには精神衛生上良い。海、きれいだったし、藤竜也がカッコよかったし、制服訓練ものはシビれるし。しかし、息子がああいう仕事を選ぶとしたら、心配でたまらない感じがする。

ずらっと並んだ訓練生たちが、お尻を女の子に見せるシーンがあって何か懐かしいものを見た気がしたのだ。ゆっくり思い出してみると、昔いっしょに遊んでいたバカどもが、合宿ということで中央道を下っていったときに、煽ってきた車に対して、あのようにお尻をむき出しにして窓越しに見せていたのであった。そういうことが二度、三度あった。
周りの車の人たちが面白がって見ていたのだが、大型トラックのドライバーたちも喜んでいた。長距離トラックのきつい労働については、今、冗談じゃないほど問題化しているが、目覚ましにはなかなか良い方法だ。夜の高速道路警らでパトカーで回り、警官がお尻を見せるといいかもしれない。

◇しかし、ガソリン代値上がりによる経費削減のため、高速を使わず一部一般道を走るという大変な話も多いみたいで、レジャーで車利用する人と違って、仕事で車や船を使う人は本当に大変だ。回り回ってすべてのものやサービスが値上げを余儀なくされていくムードが、年末までに、より一層広がるのか。
元々「日常はケチ、いざというときの金払いは割にいい」というタイプのお金の使い方の私も、総体的に渋め、渋めの出費になりつつある。それでなくても、春から大きな出費がつづいており、よくもっているものだと思う。自分の働き方を再び見直す必要も出てきているのではないかとも認識している。

世間もどうやら同様で、きのうの日曜、昼前に自転車であちこちに行き用事を足していたのだけれど、夏休みだというのに、たいていの家の前には車が停めたままである。
「ちょっとドライブでも…」「ちょっと離れたショッピングセンターへ買い物でも…」「ちょっとファミレスで食事でも…」という動きがぱったり止まっているのを肌で感じた。出かけないと、ガソリン代だけでなく家族の飲食費、ついついの衝動買いといった費用のすべてが節約できる。それって、家計に及ぼす効果が大きい。
たとえば、家族総出で車で買い物に出るより、母親(父親でもいいけど)が1人で自転車で買い物に出た方が無駄遣いは避けられるのだ。

うちも土曜にも子どもの学校があるようになったので、車はずっと停めたままだ。手放して、いざというときはレンタカーでも良いという気にいよいよなっている。カーシェアというのもあるらしいが、そこまでの利用すらなくなっており、運転の嫌いでない夫の気晴らしの道具程度に留まっているのだから、もったいない限り。このあたり、公共交通機関が近いのだし…。

◇Xデーがあさってらしいのだが、どうなのだろうか。
ミネラルウォーターはきょう宅配で6本増えて、計8本。少ない。うち、大胆にも災害の備えをほとんどしていない。
実はしばらく前、手回し充電ラジオ(携帯電話充電器付き)を買おうとして東急ハンズに行ったのだが、宮城の地震直後だったせいか、それのみならず、ほとんどの防災グッズが品切れ、品薄状態で、挫折して帰宅した。
非常用食品もほとんどない。私にキャンプ志向はあるのに、家人にその趣味がないため、キャンプ用品もない。
よく考えると、かなり怖い。明日の仕事帰り、少し見つくろって買い込んでこようかしら。
実は6~8日は仕事をよけて入れていないのだ。
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【No.1057】西欧とアジアの潮目…8月2日


(本当は右端、フォースター『インドへの道』にしたかったけれども、書影ないんだ。
内容が同じトーンの本って、並べても違和感ないどころか、お互いにお互いを引き立てる装丁で驚かされることがしばしばだ)

アミタヴ・ゴーシュ『ガラスの宮殿』読書中。
すごい、すごすぎる。あまりにすごすぎて、途中でクールダウンしている。

何がすごいかというと、「西欧が植民地政策でいったい何をアジアに持ち込んだのか」ということを、自然と人びと、社会とを描いた壮大な場面のなかにぴしっと埋め込んでいることだ。始まってすぐにある、チークを運搬する象と象使いたち、その業務の管理の場面で、すでにして、そのような偉大な仕事をしている。
簡潔に述べてしまうと、「無為自然」「自然と共」に生きるアジアに、「自然を征服」して合理的に生きるという考え方を持ち込んだ――ということなのだが、ロレンス・ダレルやE・M・フォースター作品同様の風格を漂わせつつ、彼らが植民地政策の支配者側から描いたものを、被支配者側からきっちり返していると感じた。どちらも異文化の出合い、触れ合い、そして衝突、融合への模索という意識が底辺に流れていると言えるだろう。
余計なことも書いておくと、自然と格下の人間を服従しようという西欧中心の拡大政策・帝国主義の20世紀が引き起こした環境問題を、21世紀はアジア的な自然との共生思想で抑止していかなくてはなないという課題を負ってる。そのようにして100年、それにつづく100年を見ていくと、いたって現代人らしい思考を始められる。ただ、地球的規模で見るとき、環境政策に行き詰まった人間が燃料を失い、食べ物を失い、きれいな空気まで失って個体数を減らしていくのは生態系維持の上では必要とされることなのかもしれない。酸素をあまり必要としない生物が人間に代わって繁栄していくための準備なのかもしれない。ついに満を持してゴキブリの天下かっ!

ゴーシュは1956年生まれ。私とそう変わらない。尊敬!
すでに老境に達しているかのような円熟感がある。
カルカッタ生まれなのだが、デリー、オックスフォード、アレクサンドリアで学んだという。
この3ヶ所で学んだということで、アジア内部の異文化同士が出合い、さらにアジアと西欧が出合うというスケールの小説が可能になったのだ。オックスフォードでフォースター的視点、アククサンドリアでダレル的視点を獲得したのではないかという気にさせられる。そう単純なものでもなかろうが、各地で定点観測したことは無関係ではないだろう、この大作を生み出した素地に……。

『シャドウ・ラインズ』があまり話題にならなくて、とても残念に思っていた、でも、今はなくなった渋谷のブックファーストの海外文学売場で、一時期ずっと面陳にされていて感激して見ていた。本を知っている書店員さんがこの売り場にはいるな、と。
『シャドウ・ラインズ』は地味な版元から出ていたので、地位のそう固まっていないプロの書評家やライターたちはおそらく何かの提灯記事の方を優先したのだろうと解釈していた。そういう人たちは新潮社、河出書房新社、白水社、みすず書房、岩波書店などには「仕事をもらってお世話になりたい」ということで目配りを欠かさないだろう。「よいしょ、よいしょ」と書くけれども、『シャドウ・ラインズ』のような気概ある出版に対しては、よほどの余裕がないと手が回らないのよね。文芸評論という狭い狭い世界のなかでも、そのように帝国主義的状況が見て取れるような(笑)。
ゴーシュの評価は文学畑の人でなく、社会科学の視野もある人にきちんとしてもらいたいと思う。外交、ビジネス、国際貢献など、諸ジャンルで働く人たちにとって読み応えのあるものなので、「語りの素晴らしい大作」というような文学評価だけでは、作家の凄味が十分に語られていないと残念に感じている。

ポスコロ、ポスコロと言われる「ポストコロニアル」という言葉やら「アメリカ帝国主義」という言葉が便利に用いられて文学が語られてしまうようなことがあるようだが、現代のアメリカは「帝国主義的」であっても決して「帝国主義」とイコールではないわけだろうし、それと同じで、アジア・アフリカから出てくる文学を何でもかんでも「ポストコロニアル的視点で……」と述べるのはどうか。
「ポストコロニアル」から「南北問題(南北格差)」への移行を捉えながら、資本主義の行きすぎの帝国主義ではなく、資本主義の限界に行きつく自由主義を現象的に描いている文学を誰かがすっきり論じると良いのではないでしょうか。誰かやっているのかな。
まあ、私は評論ってほとんど興味ないのですが……。豊かな感覚で読んだものをクールな論理性で分析して、モーションを的確で美しい言葉で表現したような、そういう本の紹介者を探しています。

【No.1056】脳のない男…8月1日

去年出た本で、読みたいなと思いながら忙しくて見送ってしまったものが何冊かあるので、少しずつ読んでいこう。そういうことで、まず、薄くて読みやすいこの本から入った。

昨年4月に亡くなってしまったので、今年、どこかの中学受験の問題にでもならないかと思った…という話は以前書いた気もするが、そういう話は聞かない。
カート・ヴォネガット好きの現代国語担当教諭なんて案外いそうなものだけれども、問題文が作れなくてはならないし、複数教諭の合議ではかられるだろうし、第一、そういう場で翻訳ものが取り上げられることはあまりなく、ましてやSFが取り上げられることはめったにない。でも、息子の学力にまるで関係ない麻布中学かどこかの過去問を立ち読みしていたら、取り上げられていたような記憶がある。
「うーん、さすが、趣味を貫き通している」と感心したが、「そういうのを出してみちゃうチャレンジャーなところを見てね」という乗りが、保護者全般の受けとしてどうなのか。
受験問題はどうでも良い話だが、ヴォネガット逝去は、それだけ話題性のあることなのではないかと思われ、この類いまれなる知性の損失の大きさを、読んでみて改めて痛感する。

最も有害なドラッグが「化石燃料」――この指摘が痛烈な一撃だ。
いやあ、すごい。面白い。ずばり、ぴたりだ!とうなってしまった。

ところで、「国のない男」はこのエッセイの途中に出てくる表現なのだけれども、飲みながら軽いおしゃべりとして楽しむのに良いネタとして、「○○のない男」に、いろいろな字を当て込むというもの。

「国のない男」はいかにもSFらしい。同じぐらいSF的と思えるのは「脳のない男」。「能」じやなくて「脳」ね。
これが「首のない男」だと完全犯罪のミステリーかスプラッター・ホラーになる。「胴のない男」でも「指紋のない男」でも……。
「欲のない男」ならば、遠藤周作(物故者なんだけどね)が書いてくれてもおかしくないような純文学系の題。
「鼻のない男」ではゴーゴリのような幻想系の文学を想像する。
「毛のない男」になりそうだと危機感を抱いていた昔の友人が、「マツチョなハゲ」になろうと体を鍛えていると言っていて、「屈託のない男」で好ましいなと思った。

「愛のない男」――これは当然近くにいてはいけない存在なのであるが、年を重ねてくると「金のない男」、これがなかなか付き合うにはしんどい。それよりも決定的に眼前に現われてほしくないぐらい「氏ね」という感じなのは「品のない男」――これは男性の立場で「品のない女」を考えても同様であろう(つまり、こういうおふざけを書いていること自体、「品のない」ことなのだけれども)。
きのうBSでやっていた宮崎駿氏が手掛けた「ルパン三世」のアルバトロスの話。全裸の峰不二子ちゃんは全裸なのにいやらしくなく、品があってきれいだった。ゲストもそう解説していたな。最終回のものも見たかったが、最近早寝なので、それしか見なかった。最終回、どんな展開だったか覚えていないのよ。
ルパンや次元大介のように「子のない男」に「妻のない男」――これは最近少なくはないと思う。すると「女のない男」という言い方も成り立つ。「母のない男」は自分が年取りゃ当たり前なわけで……。
「家のない男」は段ボールにくるまって寝ていらっしゃいますが、捨てられた雑誌を拾ったり、または自立支援のための雑誌を売って稼いだりという、偉い「家のない男」もいるわけだ。
「車のない男」はエコというやつですな。
「根のない男」はデラシネ。「根気のない男」は根性なし。「毒のない男」は善良と見えて、必ずしもそうだとは限らない。「暇のない男」は多忙なのか、要領が悪いのか疑問なり。「隙のない男」と聞いて、武道家か忍者かと思うなかれ、伊達男だというケースもある。

「学のない男」はどうなのか。昔は学はあった方が圧倒的にいいと思っていたものだが、最近は生活力や運があるのが良いと思う。「運のない男」「ツキのない男」は小日向文世氏が主演しそうなドラマの題に適。
「靴のない男」の話は、語学研修でホームステイしたときに読んだような……。ええっと、誰の短篇だったか忘れてしまった、Dead Man's Shoesだったっけ。
「華のない男」は入閣するような人にもよくいるけれども、地道に仕事に取り組めばいいのだろうし、「愛嬌のない男」「限度のない男」よりもよほどましかもしれない。
「歌のない男」はつまらなそうだが、「体力のない男」、いや、それ以上に「向上心のない男」はまるでつまらなかろう。
「希望のない男」――これは閉口ものである。

「背のない男」でも、「脂肪のない男」ならばいいんじゃない?
というわけで、切りがないのでこのくらいにして、「オチのない男」に〆させることにしましょうか。

[追記]「用のない男」――これが一番ムゴいねえ。

【No.1055】じごくに おちたいかたは どなたかな(3)…7月31日

「あったとさ あったとさ
ひろい のっぱら どまんなか」

調子の良い「おはやし」めいた言葉で展開していく『きょだいな きょだいな』というこの絵本は、読んでいて読み手が気持ちよくなっていく本だ。
『声に出して読みたい日本語』というような本がベストセラーになったけれども、古典には音読のリズムを意識したものが多く、そのリズムに身を委ねているとスッとする効果がある。それと同じ。1日10分でも、腹の底から大きな声を出して歌うと気持ち良いように、歌うように読むのも気持ち良い。
したがって、講談社の「おはなし隊」の事業でも、この絵本をプログラムに入れている人が多いようだ。
しかし、読み手が自分の気持ち良さを求めて、読みきかせの場を利用するのであれば、それは大きな勘違いというものである。その意味では、読みきかせは芸術活動ではなく、聞き手に奉仕する行為なのだから……。芸術は、不幸にしてその時代、その場所に鑑賞者がいなくても、芸術家が思う通りにやって良いことなのだと思う。

話がそれたが、この絵本が全国巡回バスの事業でもよく利用されているというのは、あとで知ったことで、私は子どもたちが一緒に「おはやし」を口にすれば、一方的に話を聞かされているストレスが和らぐと思って急きょ取り入れたのであった。

「きょだいな ピアノ」「きょだいな せっけん」「きょだいな でんわ」などが、このおはやしにより呼び出されて次々と登場するのだけれど、その電話のところで、ダイヤルのゼロゼロゼロ番を回すと、相手がこう答える。

「ふっ ふっ ふっ
こちらは じごくまち
えんまだいおうちょうの うけつけ
じごくに おちたいかたは どなたかな」

読みきかせって、街頭紙しばいのように大仰な「ふし」をつけ過ぎてしまうと、絵本の間近にいる子どもたちは引いてしまう。しかし、この日は、大人数で広い会場のイベントであったし、相手が幼児ではなく小学生なので、中島みゆきか小林幸子かというこぶし回しで思い切りやれそうだと思い、ここのネームの部分はドスを効かせてやってみた。
前の方に、少し読むたび、ひと言ふた言口にする元気で反応の良すぎる男の子たちがいたので、この場面にさしかかると、声を大きくして、いかにもおそろしげに「ふっ ふっ ふっ こちらは じごくまち」とやってみた。

しーん。

しかし、しばらくの間があって、その元気な男の子たちが、「やばいよ。やばいよ。これは、やばいよ」とこそこそ言っている。それを確認しながら「えんまだいおうちょうの うけつけ」。これですっかり黙ってしまった。
たたみかけるように「じごくに おちたいかたは どなたかな」

しーん。

保護者の方たちからは、「そんなに怖くしてしまうと、今夜、子どもたちが悪い夢でも見ないかしら」というような空気が伝わってこないでもないぐらい、しーん。
主催者やスポンサーの視察の方たちからも、「怖がらせたら、本の楽しさを伝えるという主旨に反しますね。どう収拾してくれるのか」というような空気が伝わってこないでもないぐらい、しーん。

しばらく間を置いて、先ほど来と同様、「あったとさ あったとさ」を喚起する合図を行い、みんなで弱々しい声で、それを口にしたときの安心感。
集団のわらべ唄遊びで、急に鬼がわっと襲いかかってくる――長谷川摂子さんの文章は、そのような日本的な、交感神経に訴え、それを成長させる、大切な要素を含んでいる。言う間でもなく、子どもの心身の成長に必要な要素だ。

大人に怖い話を聞かせてもらうとか、手をついで丸くなって唄っていたのが、「わっ」という掛け声とともにほどけて一目散に走り出すとか、十分に遊びを体験しておかないと、おそらく予想できない年齢で、予想できない場面に、「わっ」とあふれ出してしまうのだよね……、邪気が。
ごっこ遊びって大切です。
本は生身の遊びには及ばない部分もある。しかし、恐怖、挫折、苦悩、寂寥、悔悟、屈辱など、自分が味わうマイナスの感情を、別のケースで表現してくれているから、自分のマイナス感情を客観視できる能力を育ててくれる。そこにつなげていく助けをするのが、こうした活動に片道1時間自転車こいで参加する意味ということになるのかな。

【No.1054】じごくに おちたいかたは どなたかな(2)…7月26日

講談社のこのバス、立派なことに島しょ部にも出向いている。沖縄では5巡回しているし、何とわが愛しの奄美大島、ここの瀬戸内町という、空港からは2時間近く離れているのかな、加計呂麻島を望む風光明媚なその町に行っているのだ。
10000回の記念誌というのが出ていて、それをきのう講談社のご担当にもらったのだが、表紙の学校の写真に「瀬戸内町立」という文字が見えたので、もしかして……と思ってなかを見ていたら、やはり奄美大島であった。そこでちゃんと、いもとようこ氏のアマミノクロウサギの絵本を読んでいるのだ。
いいなあ、子どものお弁当作りのない8月ならば、利尻でも佐渡でも小笠原でも、八重山でも、もちろん奄美でも屋久島でもどこでもボランティアに行っちゃうよ、と勝手に考えていた。

私の持ち時間は15分ということだった。
最初にスポンサー絡みで、手洗いに関する紙しばいを隊長さんが読み、それを受けて、嫌味ではないが泥だられになる『どろんこどろちゃん』、掛け合いで読み進められる『きょだいなきょだいな』、そして次へ海ものつながりでバトンを渡せる『いわしくん』という流れで組み立ててみた。
『いわしくん』の後は、隊長による大型特別製紙しばい版『イカタコつるつる』である。長新太、やっぱり面白い、と思い、アトリエで手を動かしていた長先生のことをしんみり思い出したりもしていた。『きょだいなきょだいな』の画家・降矢奈々さんとも残念な経緯があったけれども……。
そんなこんな、いろいろな経験があって、「会」に自分なりのエッセンスを注ぎ込むのは自己満足的ではあるけれども、生かせる「思い」があって良いのではないかと感じる。
自転車で現地に向かうときも、少年サッカーの付添いであれこれ訪れた場所を通り、懐かしみながら振り返りつつ走った。そうして、小さい子に本を読んであげることの意味を再認識しながら発酵させながら(暑すぎて体が発酵しそうであったが)、始まりまでを過ごすのが良い感じなのである。

『いわしくん』はいい絵なのに、書影がないんだよなあ。本の情報はこちら

本当は2番めは『うみへいくピン・ポン・バス』にしようと決めていたのだが、始まる前に待ち時間が多少あったので、子どもたちはやや疲れ気味と見て取り、おはなしを一方的に聞くだけは厳しそうと判断して差し替えた。他にも何冊か持参はしていた。

小学1~3年生の子どもが50人くらい、大人が20人超ぐらいで結構数の揃ったイベントだったので、かなりインパクト出し気味の読み方をせざるを得なかった。本当は、前の方に、ちょっとした事情絡みの子がいて、その子のことを考えると、もう少し、さりげない感じの読み方や選書をしたかったのだけれども……。
「話したくてたまらないんだっ」というタイプの元気な男の子たちが前の方にいて、そういうタイプの子には、自分の子どもの小学校で読みきかせをしていたときに、何回も対応しているので、「よしっ。あそこで絶対、黙らせてやる!(笑)」というポイントを用意することにしたのだ。

それが「じごくに おちたいかたは どなたかな」という、『きょだいなきょだいな』の一場面だ。
<この項つづく>

【No.1053】じごくに おちたいかたは どなたかな(1)…7月26日

講談社が1999年に始めた「全国訪問おはなし隊」という事業、500冊ほどの絵本を積んだ特殊仕立てのバスがあちこちを巡回しながら、希望する子どもたちの団体に「おはなし会」を届けるというものだが、それがこの5月で10000回を達成したということ。創業90周年事業で、「子どもの読書推進」という狙いだけがあり、それがいろいろな経緯でキャラバンカー巡回という形に練り上げられ、現在は2台のバスが1ヵ月に各1つの都道府県を目安に回っている。
この人的サポートをしている団体が(財団法人)出版文化産業振興財団という、私に「読書アドバイザー」という民間資格を付与してくれた団体で、私、10000回を越えて初めて、きのう本の読み手のボランティアに参加してきましたわ。

こういうバスなのだ。
もう1台は青色で、現在北海道を行脚中ということ。
シャシーはトヨタダイナのハイブリッド車。トヨタもスポンサーであり、ドライバーを日本通運、ヤマト運輸が提供。きのうはライオンの担当者たちも来場していて、キレイ・キレイというハンドソープをおみやげに配っていた。日本パン工業会も資金提供しているようだ。

写真がよくないが、側面の扉が、まるで本が開くように観音に開く作り。そして、折り畳み式の階段が出せるという、設置を見ていてなかなか面白い車体。
扉の折れる部分あたりにはBOSEの小さなスピーカーがついていて、階段を上がってなかに入ると、下段が本棚、上段が面陳できる棚になっている。
本棚のついた車は、前に学校販売を行っている図書館流通センターの、真ん中に通路があり左右が棚でウォークスルーできるバスに入ったことがあるが、これは何せ、ブルーナ、ムーミン、いもとようこ、『あらしのよるに』などの絵がついているので、子どもたちは「来た、来た、来た」という感じ。

場所は世田谷区の砧南小である。岡本あたりの豪壮な邸宅街を控え、自然が豊かで、本来の世田谷らしい土地柄。多摩川沿いの二子緑地に近い世田谷の南端になるが、世田谷最北部あたりに住む私は、直線距離で約7キロ、実走は片道約8、9キロを自転車で往復して、絵本を3冊読んできた。
バスには、このイベントのプロデューサー、コーディネーターである「隊長さん」が乗るのである(はてなのランクをずいぶん落とした「切り込み隊長」ではないですよ)。最近隊長さんの1人になった人はアドバイザーの先輩で、書店や医療機関の読みきかせでご一緒させて頂いたり、お世話になったりしている人だ。
きのうはその人とは違う方で、なごやかでゆったりとした雰囲気が魅力の新藤隊長。
隊長さんといっしょに本を読むボランティアは半日の研修会を経て誰でもなれるので、ご興味のある方は、お住まいの地域を巡回される機会にぜひご参加を!
<この項つづく>

前夜の興奮…7月24日

今月は医療機関のボランティア2回、書店で1回だけ読みきかせを行っている。

明日もちょっとしたイベントに参加予定。
おはなし会がうまく行くかということより、子どもの弁当作りをさっさとこなして、7時半に家を出られるか、そして一体何キロあるのか知らないが現地まで自転車で走破する予定で、雨に降られないか、迷わず行けるか、途中で自転車がパンクしないかなどが心配。
本がうまく読めるか、子どもたちに受けるかという心配はまるで吹っ飛んでしまっていて、「あ~、無事に約束の時刻までに着けるといいのだけれど」と、緊張と興奮。

暑いから体調も心配した方がいいか。
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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