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【No.1052】空で這いまわるのつづき…7月23日

『スカイ・クロラ』は文庫版で328ページまであるのだが、私が俄然面白くなったというのは290ページを過ぎてからであった。カンナミの正体が分かる段。
しかし、この本、やはりローティーンが読むのに芳しくない本ではないか。「10代に読むべき本」という帯を巻かれたような夏の文庫企画に並べて売る本じゃないっと、PTAのこうるさいおばさんは思いました。
「あんたたちが読んじゃまずいような内容じゃない」とぼくちゃんに申すと、「でも、ガンダムも人が乗ったやつをどんどん殺す。オレはよく知らないけど、DNAを操作するとか、コーディネーターとか出てきて……」という話が返ってきた。そういうアニメばかり観ているのか。

父をあやめた高校生が猟奇的な本を読んでいたとか、通り魔たちが「誰でもいいから殺したかった」とか……。聞いていて、私の本棚も猟奇的なもの混じり、息子もおとなしくて人を殺しそうには見えないけれどもシューティングゲームが好きだし、それと知らずして潜在意識に働きかけられるようなサブカルチャーに触れているわけだし。母親の小言でストレスも溜まるだろうし。
しかし、うちは何とか大丈夫だろうという自信は、夕飯後、トイレそうじをする母の背中を見せながら(意図的にそうしたわけではないものの)、そういう会話をしているということ。ぐうたらしながら小言を言うのではなく、額に汗して働いているところを見ているだろう、お前は……と達者に言えること。
また、「誰でもいいから殺したくなったら、まずお母さんを殺せ」と脅していることかな。

『スカイ・クロラ』の影響ではないが、「誰でもいいから殺したい」という人たちのために、そういうテーマパークでも作ってはいかがなものか、と。SF的なことを考えてしまった。
クローンをいくらでも殺すというのはできないし、道義的にまずいから、バーチャル世界で、そういう体験をさせる。裁判の場を経て、刑務所で服役体験。ここでさんざんな思いでもさせろ。さらにラディカルに付け加えるなら、処刑で死ぬ体験もさせろ。
しかし、テーマパークに行く金銭的、時間的余裕などない人が、そういうことに走るのよ。

こういった一連の事件の遠因は、やはり我々が作る社会のひずみだと言わざるを得ない。フリーター200万人はじめ将来不安が大きすぎる。仕事でダメでも、町内や職場で別の活躍ができて居場所があるという状況がなくってきている。そういう自己表現以前に、食うに食われぬ状況で、社会からしいたげられていると感じている人が多過ぎやしないか。
そしてまた、世のなかでちゃんとしているべきであるはずの人がちゃんとしていないでしょ。
「ズルしちゃいかん」と教える教育者たちが点数をズルしてるって、そのほか、各種の偽装やら性犯罪やら。そういう人がおいしい目に遭っているような社会、それにしいたげられている感じって、希望を見つけるのが難しいでしょ。
頑張ると報われるという約束がないもの。スターやセレブというレベルでなく、身近なところに「あの人、いいな」と思わせてくれる大人がなかなかいないもの。
いないから、大変でも意識ある人はそれを演じる大人でいるべきだし、演じているうちに、本当にそういう人になっていく。それを務めとすべき。と、自分もこのように自分を修正しながら、寝て起きるのだ。
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【No.1051】空で這いまわる…7月22日


ぼくちゃんが3時間ばかりで読み終えていたので、「子ども向けで読みやすいお話なのか」と思い、読み始めたのだが、お母さん、2日めに突入で、まだ数十ページ残っています。まあ、行間を読んだり、下手に絵を思い浮かべたりができない人生経験の浅さが3時間という数字に表れているのやもしれぬ(くやしまぎれ)。
それとも、シューティングのゲームをするように読み進めるという特異な読み方が、あの世代には装備されているのだろうか。200ページぐらいまでは面白いかどうか分からなくて、200ページを過ぎたら突然面白くなったという話であった。どういうことかと思ったら、200ページぐらいからシューティングが始まるので、なるほどと納得した。
「続編も読んでもいいなあ」と言っているので、何かバカらしくなって続編以降は図書館利用してもらうことにしたよ。
途中、「すわ、性描写かっ」と焦りましたが、古いハリウッド映画のように、かんじんのシーンはすっ飛ばされていて、そういう意味では「(主人公たちのような)永遠の子ども」向け小説と言え、ローティーンにも安心な本かもしれない。

作者の森博嗣氏ってこのたび初めて知った。雑誌や社内吊りの広告などにいくらでも出ていたのだろうけれども、すごい売れっ子の小説家なんだなあ……と、興味がないジャンルって、そんなものです。
国立大学理系の准教授だって。教授でないところがまたカッコいいなあ、と著者紹介を見ていたら、何だ、私よりオッサーンじゃないか。
そういえば、1950年代半ばぐらいの生まれの人で、元学生運動の闘士、某大学で最後までテント張って座り込みしていたという人が昔知人にいて、最近までずっと年賀状のやりとりをしていたのだが、メカ好き、パソ好き、ゲーム好き。「はてな」で日記でもつけていそうなタイプで(「はてな」に集う人ってそういうイメージでしょ? 学生運動の時代の空気を引き摺ったオタク系。違っていたらすみません)、森氏もそういう感じの人なのかなあと想像した。

カンナミってクールでいいなあ。
こういう男と付き合ってみたい。誤解を恐れずに書いておくならば……。

「そう毎度毎度、行を改めるな、タコ」と言いたくなるような感じの、白さが目立つ版面だけれど、文体が乾いていて快適。
「ジャンパー」と書かず「ジャンパ」、「スクーター」と書かず「スクータ」という表記は、理系の論文を読んでいるような気分にもさせられ、そんなことでもウェットな感じが払拭されるのだなあと思う。
カンナミの上司であるクサナギのキャラは割に類型かなあとも思うけれども、そのようなことで多少は現実との接点も必要なので良しとする。
章ごとにあるサリンジャー『ナイン・ストーリーズ』からの引用。これはどうなんでしょう。ひとつの小説で、序詞として象徴的に何かが使われているというのは良いと思う。そのぐらいなら覚えておいて、折にふれ、どういう仄めかしか考えられるから。
けれども、やたら引用が多い小説って、いちいち何が暗示されているのか考えるのが面倒になる。ときに、「自分は、こんなに沢山の本を読んで書いているんだぜ」という作者の誇示でもなかろうが、「はく」をつける効果なのかなあと邪推したくなるような作品もある。言葉に言いたいことを代行させるって、スマートなやり方ではあろうけれども、どの程度それをやるかはなかなかに難しそう。

【No.1050】東京デート指南のつづき…7月20日


「世界報道写真展~2008~」と「昆虫4億年の旅」をペアで見たことの意義なのだが、前者が人間の営みの愚かさ、歪まずにはあり得ない社会のありようといったものを浮き彫りにしていたのに対し、後者が自然界の調和や美しくも不思議な世界を表現していたという対照性、それにより両者がより強く刻まれるということだろう。どちらも同じ地球の上で捉えられた瞬間である。
しかし、「自然は調和している」「自然は人間に比べて美しい」というのは安易な表現だ。昆虫を含む生物の世界には「捕食」による連鎖があり、これはこれで「戦争」「紛争」「暗殺」「虐殺」並みに厳しい世界でもある。

どういう話の流れなのか忘れてしまったが、13歳の男の子とカフェで話していたとき、自然環境における「犬の立ち位置」「人間の立ち位置」についてああだ、こうだとなった。人間は知恵があるから偉いと自分たちでは思っているが、どちらが偉いなどという判断を下さない犬の方が遥かに偉いのではないか、その犬は、ブリーディングにより人為的に個体数を変えられている…ってなことを語っていたのであるが、昆虫もまた、人間により保護され繁殖されることもある対象でもある。しかし、しかしながら……。

今森光彦氏の写真については、すでに多くの出版物も出ており、昆虫の表情や肢体の面白さや造化の妙が、きめの細かいプリントで再現されているのに感心させられてきたが、展覧会向けの大型プリントはまたひとしお驚異的な世界を体験させてくれた。
実は、報道写真でかなりテンションが下がってしまった。報道写真の順路の最後はやはり大自然が収められたもので、最後に希望や癒しになるものを、という企画者の意図はうかがえた。それにしても、あまりにもあまりな人類の現実にどよ~んとしてしまったのが正直なところ。
色鮮やかで珍しいプリントの数々を見て、こちらを後にしてやはり正解であった。十二分のわくわく感に浸された。

ずらり並べられた、撮りためられた卵の数々、幼虫の数々は人種のバリエーションを思わせる。人種間の調和は今のところ極めて難しい。だが、今森氏は自然だけに目を向ける写真家なのではなく、人と自然の調和をテーマに、『おじいちゃんは水のにおいがした』(書影リンク先に中村コメントあり)のような作品も手がけている。
知恵は破壊行為も行うが、調和を躍進的に進めることも可能だろう。それを実行する人びとの紹介もしているのだ。

見てきたのは昆虫の妙なる世界であったが、行き着いたのはやはり「里山」で、この概念はさまざまな「共生」「調和」に結びつく哲学的なものである。
完全な「孤」はあるのか。孤に閉じることなく、ある一つの環が別の環にリンクして層を成すのがこの世界であり、森羅万象であり、この宇宙なのであろう。環と環の関係を調和させるのか、歪めるのか、破壊してしまうのか。すべての現象がそこに集約されてしまう。

デート指南は、そのような思索にまでは誘えず、写真美術館のあとは渋谷卓球倶楽部、そして文教堂書店で夏読用に『時をかける少女』ほか2冊の文庫本を買い与える。
哲学、社会問題、世界観といった話題は人を選ぶので、ご用心。

【No.1049】東京デート指南…7月20日

「穴を掘って埋めてやろうか」というような惨憺たる1学期の成績評価がきのう戻ってきた。期末考査だけの結果はまずまずだったようなので楽しみに待っていたら、「1教科勉強し忘れた(はァ?)」という中間考査の赤点が響いたのと、芸術科目、技術家庭科などの評価が芳しくないのとで、お粗末な結果なのであった。

梅雨が明け、私学的にはきょうから夏休み到来である。昔からそうだが、「バカ」にも「優等生」にも等しく夏休みはやってくるんで良かったな~。と、正面切っては言わないですよ。
バカでも愛されることが大切なので、将来、気立ての良いお嬢さんに好かれることを願い、夏休み初日は、通学路の途中にある恵比寿・渋谷方面で遊ぶ。遊ぶというより、我が家流(私流)の教育だす。
気の利いた場所やコースを覚えよ、感性をしっかり磨け、話題を蓄えよ!!!

目的地は東京都写真美術館
ここで、琵琶湖の近くにアトリエを構え、「里山」という概念にこだわって「自然」「人」を撮り続けている今森光彦氏の「昆虫4億年の旅」という展覧会が開催中で、それが目当てだったのである。
出かけていくと、都内在住の小中学生は入場が無料、おまけに本日は「親子ふれあいデー」ということで、子連れの親は入場料が半額。今森光彦展だけではなく情報を得ていなかった展覧会が他にもいくつか行われており、それならこれも是非見せたいと、「世界報道写真展~2008~(WORLD PRESS PHOTO 08)」もいっしょに有難く見てきたのだ。

戦争、紛争、暗殺、反乱、虐殺、環境破壊、虐げられた人びと、犯罪被害者、無名のアスリートたちのスポーツシーンなど、きょうはそういうものを見に行くつもりではなかったので、覚悟がなく無防備のうちに生々しい世界の現実が目の前で展開され、ものすごい衝撃を受けた。
125ヶ国5000人以上の報道写真家が応募した80536点の写真のうち、入選した59人の作品の展示。なかには、日本人写真家・高木忠智氏の出品作品もあった。混んでいて見られなかったが、会場の一角では、ミャンマーで亡くなった長井健司さんの仕事をしのぶビデオも上映されていた。どこのガールスカウト団の子たちか、観客にはユニフォーム姿の女の子たちが何人か混ざっていたようであった。
写真の何枚かはこちらで見られる。ポートレートの単写真1位の「プーチン大統領」はどこかで見たことがある。また、「現代社会の問題」の1位、ゲリラや兵士が流れ込んだコンゴ東部ビルンガ国立公園で殺されたゴリラの死体が運ばれる写真は、つい最近出た「ナショナル・ジオグラフィック2008年7月号」で見たばかりであった。

昨夜、細田守監督のアニメ版「時をかける少女」を息子と見て、それはそれで非常に感激して見ていたのであったが、あそこで繰り広げられたように、一瞬が凍結した世界――これは最近出たSF作家プリーストの短篇集『限りなき夏』にも題材に使われていた――それが、世界の決定的場面を切り取った形で並べられており、不思議な思いに満たされる。
特に、爆風で破片が飛び散り、靴が宙に固定された写真。あれをカメラに収めるとはどういう覚悟の取り組みなのかという感嘆とともに、繰り広げられている現実の臨場感におののき、こちらの肉体と思考も凍結する思い。

スペインというと、現地でも触れたことのある文化芸術の豊かさ、食べ物のおいしさ、人びとの陽気さ、サッカーのスペインリーグやナショナルチームの魅力など、観光資源としての要素ばかりが強い印象だが、若者が何枚か写された写真があり、それが皆、子ども時代に性的虐待を受けた男女だというキャプションがあった。キャプションによれば「スペインの17歳未満の男の子の15%、女の子の23%が性的虐待を受けたことがある」そうだ。驚くべきデータである。
データに驚きながら、虐待で辛い思いをした経験がある男女の実在を示す写真――写真とキャプションの止揚効果について思い知らされる。つまり、片方が欠けてはダメだという相乗効果の高さということである。
このような酷い現実ばかりが並んだ写真展を中学1年の息子がどう受け止めているかが気になって、ときどき話しかけてしまったが、これを見たあと併設のカフェで食事をしていると「13歳は13歳なりの受け止め方があるので、話しかけられるのは余計だった」と言われてしまった(しょぼん)。

この展覧会、毎年行われているのか、それならば来年以降も通うと良いと思った。ただ、混んでいると、写真横にあるキャプションが人の動線の具合で見辛いので一考されたし。
休みの日、海へ山へ観光地へショッピングセンターへとレジャーに向かう人が多い中、見に来ている人たちが美術展鑑賞者とはまた違い、格別良識的で意識の高い層であることがよく分かり、独特の鑑賞の雰囲気があった。東京という街の底力を見せつけられた気がした。
それから、併設のカフェの名は「シャンブル・クレール」、つまり「明るい部屋」という。ロラン・バルトの写真についての文章をまとめた本の題ですね。感じ入った。上品なサンドイッチ、温かなサービス、居心地良いインテリアなど、それでいてすいている。恵比寿の避難所として良い。
<この項つづく>

デジタル・ストレス…7月15日

これまでだましだまし使っていたパソコンのACアダプターのプラグイン部分が、青い火花を出し、煙を噴いてついにダメになった。通常の使い方をしていれば考えられない状況だが、ちょっと人には言えない使い方をしていたのである。
爪楊枝まで使っていたって、考えられます?

新しいパソコンを買ってきて、諸設定のやり直しで泣きたくなる。文を入れていても「…」のような記号だって、とあるキーに登録してすぐに出せるようにしていたので、何かするたびに当分イライラしそう。

ネット接続も、回線最端装置が古いので、PC内臓のワイヤレスLANに反応せず、「そうか。前のPCに差していたカードで試してみればいいか」と気付くのに2時間、接続のためのユーザー名登録の際、自分の名前を漢字で入れていたが、「これってプロバイダーのユーザー名じゃん」と気付くのに1時間といった具合。
古いシステムに妙に新しいPCをのせようとすると、読んですぐわかるマニュアルがなく、昔だったらあったはずの段階が省略されて何段階か先に飛ぶようになっていて、何が何やらさっぱり。

『またの名をグレイス』の表紙装丁について貴重な情報をいただき、それを絡めながらビーケーワンの方へレビューを上げたいのだが、ごっそりエネルギーを持っていかれている。他にも、家のなかのことで、それはそれはいろいろと面倒事が続いており、弱ったな。
数年に1回は見舞われる、このデジタル・ストレス、PCユーザーである限り仕方ないのか。

【No.1048】枝打ちされる言葉のつづき…7月13日

グレイス・マークスがどういう生い立ちで、どういう動機の元に犯罪に関わったのか、あるいは本当に共犯者だったのか、本当のところはあまり詳しく伝えられていない。
グレイスが裁かれた裁判の記録があり、収容された監獄と精神病院の記録文書があり、懲治監時代にグレイスが語った話をまた聞きして起こされた、スザンナ・ムーディという作家の出版物があり、それらは矛盾だらけで「動かぬ事実」は少なかったという。
マーガレット・アトウッドは既知の事実はそのままに、矛盾を整理して「あり得たこと」に置き換え、示唆されたことや明白な食い違いについては自由な創作の領域と判断して、この小説を書いたという。
本邦(ん? いつの時代の表現?)で言えば「安部定物語」ということになろうか。
もっとも安部定は情痴に狂った女という定説であるが、アトウッドが創作したグレイスは、知性、そして清潔感を備え、「この女性が犯罪者だったのか」と思わせる人物となっている。

知性や清潔感が受け止められる「語り」を、作中でグレイスにさせているのである。そして、語りを引き出すに必要なのはインタビュアー、この役を精神科医サイモン・ジョーダンという創作した人物に務めさせ、彼にもまた日常生活を破綻させかねない私的領域を与えて小説を進行させていく。
<この項つづく>

【No.1047】枝打ちされる言葉…7月10日

女性が赤い花を見て、
「これ、きれいね」
と、あなたに話しかける。

そのとき、そこに咲いている花の美しさを一緒にめでて、「ああ、素敵」という感覚を共有しようという気持ちがあったにせよ……。
言葉にされなかった意識にどういうことがうごめいていたのかは判然としない。
「このバラよりも、前に南の島で見たハイビスカスの方がずっときれいだったわ」
「こういう花を100本ぐらいまとめて買って、プレゼントしてくれないものかしら、この気の利かない男」
「赤もいいけれど、私の好みではないのよね。もっとさりげない、主張のない薄いピンクが好き」
などといったように……。

これが映像の1シーンだとすれば、彼女の表情や目の色から、その花の美しさだけに集中しているのか、ほかのことをいろいろ考えているのか、その瞬間にあまり満足していないのかが多少は分かる。
しかし、「これ、きれいね」という文字だけがあるとき、例えばそれが写真添付のメールで来たときでも構わないが、「これ、きれいね」という肝要なことを伝えるために、枝打ちされてしまった意識や思い、感情といったものがまるで分からない。

「だから、女は分からないからイヤなんだよ」やら「言葉って難しいですね」やらと落とし込む話ではない。

こちらの本の話である。
「女囚」の物語なのだけれども、「女囚」って、日活ロマンポルノ的響きがあって、何やらエロい?
実際、ここに書かれたグレイス・マークスという19世紀半ばに殺人事件で逮捕された女性は、看守やら精神鑑定担当の医師やら、周囲の男性たちを血迷わせるようなこともあったらしい。

『またの名をグレイス』の上下巻、むちゃくちゃクールで行けてる装丁ですよね。インパクト強い女性の顔の表紙で、下の表紙を思い出した。

捨てられて保健所に捕獲された犬の写真である。詳しくは、左の書影リンクに説明あり。
右の書影は復刊されたときのもの。
<この項つづく>

小さく感激…7月6日

用事を足したり買い物をしたりして、渋谷方面や新宿を経巡り、午後に数時間出かけて5時ごろ帰ってくると、ひとり留守番をしていた息子(家人は休日出勤)が冷房をつけていた。
「(オレはつける必要はない、と言っていたのに)何、やっぱり観念したの?」と尋ねると、「いや、外から帰ってくる人が暑いと気の毒だと思って、4時前ぐらいには戻るんだろうと、その前ぐらいからつけていた」と言う。ほほォ。
気が利くので驚いた。

買ってきたものを片付けたり、洗濯物を取り込んだり、夕飯前だというのに、久々のトップスのチョコレートケーキ♪(かれこれファン歴も30年、正方形のサイズがいつのまにか出ていた。1000円ちょっと。お誕生日やクリスマスはもう、あのぐらいの大きさでちょうどいいや)を切っておやつに食べようとしていると、多少は期末考査の勉強をしているらしい息子が再び現れ、「あとで時間があいたら、ちょっと教えて……」
――どうしちゃったの?
この言葉遣いやら態度、急に大人びて洗練されちゃいましたよ。
調子の良いタイプではないので、何か買ってほしいためのリップサービスでは決してないのだ。
夜になって、「あとで時間があいたら」と相手に気を遣えたことに対し、しっかりほめておいた。それで、そういう言葉遣いをあの品の良い学校で、先生に指導を受けたのかと訊くと、そういうこともないらしい。

私がよく、よその年上の子がこういう態度を取って立派だったとか、あの子のこういうところは素晴らしいとか言っていたのが情報として蓄積され、ようやく出力され始めたのだろうか。
子育てにごほうびや花まるをもらった気分……と思って、いや、違うと考え直す。
おそらく彼自身が何かに目覚めて、自分の人格、人品を作り始めたのではないかと思う。

夏休みもねえ、いろいろに誘うのだけれども、学校で移動教室に4日間行くので、旅行など行かなくていいと、もう遊んでくれないみたいなんですよねえ。

揺り戻し…7月4日

一昨日書いたことを改めて読み直すと、テレもあるのか、「大切かもしれないけれども、何かつまんないこと書いていたなー」という気もしないでもない。

普通、日常生活のなかではわざわざ口にしないですっとぼけていることであるし、すっとぼけているうちに自分でも見失うことである。
かしこまって書いてしまうと、それは簡単に言ってみると、非常にダサかったりイタかったりするわけだ。

「書く」というのは、思索に寄り添う行為だけれども、書いてみると、すっとぼけてしまえることをしばし留めることになる――とても不思議な行為だ。こういう思索の流れについて改めて考えてみると、「自分に素直」という意味がよく分からなくなる。
こないだまで肌寒かったときと、きょうのようにカッと暑くなったときで気分が違いますね。嫌なことがあったり、良いことがあったりするだけでも気分に違いがありますね。そうなると、自分のよりどころはズレる。素直に対峙すべき自分が、そこにいたはずなのに、今はもうそこにいない。
根本的なところでは決定的な違いがないかもしれないが、多少の価値観の変化が日々、そのときどきにある。
針がどこにブレたときにどのように書いたものなのか、過去のログを他人様のweblogのように読んで、そこを読み解くようなことがある。

それが何なのだ……ということは書いて閉じない。そういうことがある、という、そのような話だけ。

Let's twitter…7月2日

サミットを控えて厳戒体制の都心にはあまり出たくないけれども、読みきかせボランティアの日なので、渋谷方面へ。
オリンピックをやるとしたら、お祭りだからここまではピリピリしないのか。でもテロの危険がないわけではないので、それ相応の警戒体制は敷くだろう。
――何も東京でやってくれなくていいよ、オリンピック。

この厳戒の雰囲気と、日を追って頭に蓄積される、不況、雇用問題、非正規雇用者(私もだ)だけでなく年金生活者、母子家庭、障がい者などの報道からくる社会の閉塞的な感じ。週刊文春が新聞広告で、ぼんと花火を上げていた「今度出るボーナスは使うな!」というような記事の見出し。
きのう歩いた新宿にも、きょう歩いた渋谷にも、影を落としている気配が察知できる。

アトウッドの『またの名はグレイス』は、最近の現代文学がよく取る姿勢である「確かなものは何もない」というやつで、訳者の解説も参考にすれば、「人の記憶の不確かさ」「物語の語り手の信用できなさ」「時代の波の不連続性」といったものが特徴のようである。
このアトウッドの小説のことやら、きょうひとりきりで対応していた、乳幼児たちへの対応、重度の障がいのあるティーンエイジャーへの対応やら、私たちの都市が(おそらく)これから未曾有の不景気に向かって行く様子やらのことを考えていて、「確かなものは何もない」というスタンスではいけないのだっ!と強く感じた。

日常にもっと確かなものを見つけて取り組んでいかないと、きっとこれから持ちこたえられないよ、この社会は……。
当たり前すぎるほどに当たり前なのだが、各人が、自分の取り組むこと、与えられた仕事、自分でやるべきだと思うことにコツコツ励んでいくしかないだろう。
「あ、あいついつもしっかりやっている。何かいい、信用できるじゃない」と認めてもらえるように……。

ブログの毎日更新レベルでも、バーゲンで良いものをゲットするでもいいんだけどさ、朝のうちに、隣の敷地にまでちょっと入り込むぐらい玄関先に水を打っておくとか、子どもの世話をまめにしてやるとか、しんどい仕事も気を抜かず手を抜かずやり通すとか、しっかり食べて身の回りも片付けておくとか……(マズカイヨリハジメヨ)。
そのようにしっかり生きる人の数を増やして、ちょっとやそっとのことでは崩れないと思える世のなかにして乗り越えていくしかないのだろう。戦後の荒廃のなかから、我々の祖父母世代、親世代が真面目に気丈に頑張ったように……。
不確かなものを不確かだと確認しているだけでは、状況は好転しないし、かえって人の不安を煽るだけだね。

アトウッドの次は、確かすぎるぐらい確かな小説を読もうと思っている。

読書週間…7月1日

weblog更新にかまけていると、小説があまり読めないので、きょうからしばらく本読みと、その感想書きに、もう少し意識的に取り組もうかと思う。

「白い翼で舞い降りた」王子さまのおはなしは、大切に書きたいので、おいおい……。

豊富な読書体験やら文学的キャリアを背景に本について論じる人は多いと思うのですよ。けれども、「どう? 私って、こんなに文学のことに通暁していて、作家たちとも親交があり、特別に聞いたことが多いの」という調子で構えて書く感じの人の文章がどうもピンとこない。多少、ためになることはあったとしても……。無論、読書界の仕組みとしては、そういうご意見番は必要だと思うけどね。

私の場合は、教養とキャリアがまるでない分、豊富な人生経験があるので(笑)――元遊び人として、世間の荒波をどっぷりかぶった人間として、現生活者として、そういう実感の部分と読書体験を重ねて、小説の価値を捉えてみたい。端正ではなく、やくざな「須賀敦子」風とでも言うか……。
その点をもう少し意識的にやってみたいのですね。草書評という形でもって……。

とか何とか言いながら、早速バーゲンに参戦。
ヨシノヤで、ちょっといいサンダルがあったので、履いてみて迷って棚に戻すとすぐに、「それ、いいかしらっ!?」と、私よりさらにおばさんの人がさささーっと持って行った。私が試し履きしているのを見て、目をつけたのだ。水虫でも持っていて、伝染せると面白かったのに……。
その人、脚の甲のところの肉が、皮のクロスした隙間からむっちりはみ出していて、「どうも違和感あるわ。ダメかしら、ダメかしら」とさんざん店員相手に話しながら歩き回り、私があきらめて別の物を買っている間、ずっと往生際悪く履き続けていた。私に買わせないように、妨害していたんじゃないのかっ。
「ちちちっ、このくそばばあ(あら失礼)」と思いながら、きのう書いたマーガレット・アトウッドの表現について思い出した。
実は、別の場所でも、70歳は下らないマダムに、ブラウスとスカートのツーピースを目の前でかすめ取られた。「おば(あ)さんのブランドじゃないでしょっ!」と喧嘩を売ってもいいけど、高楊枝の武士のようにじっと耐えましただ。
僭越ですが、私の方が似合ったのではないかと思いますよ~、あっかんべろべろばばあ。

[追記]お弁当のおかずの備忘録weblogの方は、マメに更新したいとは思っている。

【No.1046】優しさのかけら…6月29日

ノーベル文学賞を獲ってもおかしくないと言われているカナダの作家マーガレット・アトウッドの『またの名をグレイス』上巻(岩波書店)をまもなく読み終わるところ。
1843年にカナダで実際に起きた殺人事件の犯人として30年服役したグレイス・マークスの内面や、彼女を取り巻く人物たちの言動を再現してみようという小説である。

世間的には「妖婦だ」「精神異常者だ」とされている彼女の心情吐露や語りと、彼女を研究対象にしている精神科医の内面が、この上巻の後半になって対照的なものとして描かれている。
つまり、「どちらが正常なの?」と次第に違いが分からなくなってくるパターン――まるでヘルツォーク監督が撮った「カスパー・ハウザーの謎」のラスト・シーンのように、社会的地位がある人が内面では病んでいて、実は異常者なのだというパターン……何か、これは現代日本では、よく見られることなのかもしれないと思いつつ、そのパターンが貫徹されるのか、それとも、アトウッドのことゆえ、一転、二転の引っくり返しがあるのかどうかが楽しみ。

アトウッドはときどき、毒のある表現を入れるので、そこが魔女的とでも言うべきか、ひとつの魅力だと思う。毒のない作家など、作家じゃないとも思うけどね。

――優しさはたやすく手に入るものではないので、この世ではかけらでも貰える時は貰ったほうがいいのです。(佐藤アヤ子・訳/P179)

「優しさのかけら」という見出しで、この記事を読み始めた皆さんが期待したのとはまるで違う、冷徹な表現ではなかろうか。
そして、この言葉から数行あとに、こういうことも書かれている。

――たとえ私の方が黙っていたとしても、情けないことですが、両方で罵り合いになるにきまっていました。自分より強いものに対してあからさまに罵り返すのは、間に塀がない場合はつねに間違いです。(P179)

「女流」などという言い方をすると、このフェミニズム作家の逆鱗に触れそうであるが、こういう表現こそ、女の空恐ろしさ、頭の良い女性の怖さではないかと私には思えるのですよ。
多くの女性は、ここに書かれたようなことを本能的に悟って行動する。しかし、作家たる彼女は、そうした無意識的な部分を言葉にしてしまう。勇気がいる取り組みだと思える。

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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