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【No.1045】白い翼で舞い降りる…6月28日

昨夜、ニュースをつけっ放しておいたら陸上中継が始まって、男子400メートル障害のレースを見る。
為末大――萌え~!

あまりにも鮮やかなレース展開に驚いた。
息子は、テレビ画面のなかに体が半分入っていた。近づいて見すぎるのはよくない。
なぜ、それだけ近づくのかというと、テレビを置いてあるリビングのスペースが床より30センチばかり高い畳の島になっており、彼はそこに座り込んだり寝転んだりして視聴するわけだ。
まあ、それはとうでもいい。

スタート直後から異常な飛ばし方だったので、ほとんどの人は「あんなに飛ばしていたら、ラストでがくっと失速するよ」と思っていたのではないかと思う。私もそうだった。
それが最後のハードルを飛んだあとも失速せず、2番手に抜かれそうになったところで、ぐんと加速をし、そのままゴールまで突き抜けた。
鳥肌が立った。

でも、レース後、スタンドに手を挙げて声援に応える彼の体つきや表情を見ていると、ものすごく精悍であり、「ああ、これは勝者になるのが当然の鍛え上げられたアスリートの隙のない体と心だ」と納得。それにしても、体の故障を抱えていたのに、本番であそこまで持って行けるものなのか。
花束を持ってきたかわいらしい女子高生に手を回すようにし、いっしょに取材のカメラに納まるのも、大人のアスリートならではというか何というか――地味めの陸上競技を大きく宣伝するものだろう。

『一瞬の風になれ』(この本、読んでいないけれども、たぶん面白いのだろう。本屋の賞か何か獲っているようだし……。サブタイトルが「イチニツイテ」「ヨウイ」「スタート」って、「フライング」「ヤリナオシ」というのはないのだろうか)という本もあったが、今そこに吹いている風に同化するというよりも、為末の走りは、まさに「一陣の風」というような力強いものであった。
新聞記事でインタビューを読んでいたら、スタート前に(行こうとする)自分を抑えられなかったというコメントがあったが、「行ける、行こう」という高揚感におじけづくことなく、機を捉え、それに乗じて勝負に出るというのは大切なことなのだと思う。ただし、それに裏づけされる経験、この場合は練習や鍛錬に自信が持てることが大切だ。

あたり前のことばかり書いているが、息子が約5年間(6年生のほとんどは進学準備のため休部/少年サッカーは休部後に戻れるのがよい。世田谷では、この復帰後に2ヶ月楽しめるよう、あちこちで卒業リーグを企画。ただし、チームとして育てるのにどうかという疑問はある。受験をしないメンバーもいるのだし)参加した少年サッカーの負けてばかりのチームで、きのうの為末ほどとはいかないまでも、鳥肌もののプレーを見せてくれたことがある。
<この項つづく>
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【No.1044】小説の間(あわい)に…6月26日

――つぎの日は谷を歩きまわって過ごしました。わたしはアルヴェロン川の水源のそばに立ちました。山頂からゆるやかにおりてきて谷をさえぎる氷河のなかに、その源はありました。前方には広大な山々の急斜面、頭上には氷河の冷たい壁が聳え、そこかしこに砕け散った松の木が見られます。帝王たる自然の栄光に満ちた謁見の間は、おごそかな静寂に包まれて、それをわずかに破るものは、轟々たる流水の音、どこかで巨大なかけらが落ちる音、雷のような雪崩のとどろき。またときおり積氷が山から山へと鋭い音を響かせて、不変の法則の無言の働きにより、まるで手のなかの玩具のように裂かれ、毀(こぼ)たれてゆくのでした。この崇高壮大な眺めが、わたしに受けとれるかぎりの慰安をあたえてくれました。それはありとあらゆる卑小な感情からわたしをひきあげ、悲しみをとりさるまではゆかなくとも、おさえ、静めてくれました。(森下弓子・訳P128-129)

つい先ほどまで、子どもが近くにいて、「あっ、これ、うまくいかねぇ。どうするんだ、これ」とか何とか、ある機械を操作していて、いかにも助けてほしいという感じで騒いでいたが、「ママは、もう勤務時間終えたからね」といなす。朝の5時台から数時間の家事に始まり、このような時刻まで対応できましぇん。
夜のわずかの自由時間ぐらい、静かに考えごとをしたり、日常から離脱できるものに触れて過ごしたいですからねえ。

バックパックをかついでひとり放浪の旅に出たい気にさせられる。「自分探しの旅」でも何でも、言い訳を見つけて……。行く先はどこかなあ……。とりあえず、高尾山でもいい、という気すらするよ。
まあ、それに代わる思索で、結構間に合わせられるようになったけれどね。

さて、上の引用であるが、一体何の本かというと、これです。

メアリ・シェリーの怪奇小説『フランケンシュタイン』。
創元推理文庫に入っているものを4月ぐらいに書店の平台で見つけた。3月に21刷になっている版なので、増刷ができたからということと、あるいは最近、この小説を下敷きにした海外小説の翻訳が出たからゆえの増刷ということなのか、そういった事情で「創元推理文庫の基本図書」というフェアの帯が巻かれて並べられていた。

ときどき出歩くときに持ち歩いているのだけれど、何か一気に読めない。深い内容というわけではないけれども、おどろおどろしい人造の怪物の話なのに、上のような描写があったりする。
人間は神が造ったものという教えが世のなかをまだまだ支配していた時代に人造人間の話だから、反宗教的、非社会的な内容と取られてしかるべきなのだろうけれども、とてもそうは思えない一節である。

人の真意がなかなか分からないように、小説家の意図も本当のところは分からない。この作品は無論、いろいろな意味で反社会的な要素が多く含まれているとは思うが、こういった部分を読んでいると、シェリーがどこかへ行ったときの思い出を、このような形で書いておきたかったから、それもあって執筆された小説であるようにも取れる。
以前、ある児童文学の作家と話していたときも、そういう話をしていた。「自分が知っている、あの町のあの丘や坂のことをどうしても書きたくて、そのために何か話をこじつけられないかと考えている」

そういう気持ちはよく分かる気がする。自分も、本のことよりも、本にかこつけて少女時代の思い出を書いたり、本にかこつけて日記めいたものを書いたりしている。ここでも、別の場所でも……。
本道よりも、そちらが大事という姿勢のとき、そのような余技の部分で、思いがけない反応があったりするものではないかと期待する。何か、そういう形にならない感じで、誰かに影響を与えるということも面白く感じられる。

【No.1043】哀れな命名…6月25日

6月が、つまり今年上半期がもう1週間で終わってしまうとは……。総会屋の皆さま、ご準備は万端でしょうか(笑)。

天気が悪いということもあるけれども、今月はまるで遊べていない。ここに書いていることも、本のことや脳内のことやその日暮らしのことだけだ。
遊びに行く余力が正直あまりないのですよ。早起きお弁当作りになかなか体がなじめないで、夕飯を作りながら、あるいは夕飯後、翌日のお弁当用のおかずの仕込みをすることの大変さといったら、もう……。睡眠不足でへろへろですわ。50歳も見えてきているというのに、あと6年、もつのだろうか。
秘密だけれど、最近、さすがにアンチエイジングのためのサプリメントに手を出した。新聞に全面広告を出すような「せサミン」やら「ふラコラ」は恥ずかしいので、と言うより、「そこまで行ったら終わりでしょ」という気もするので、フィッシュコラーゲンペプチド含有量のもう少し低いソフトカプセルを若干量飲んでいる。ヒアルロン酸とスクワレンも配合されている。
1日につき10分間分ぐらい老化が抑制されているかも、されているといいな……というぐらいの効能でしょうかね。叶・白白(こう書くとまずいか←お子ちゃまは来ちゃダメよ、このブログ)姉妹のように、そのうちすっぽんでも食べているかもしれない。生き血を飲むのかな(うげぇ~~~)。

コラーゲンつながりだが、この本、図書館で試し読みしたのを、じっくり読みたいので入手した。

著者である海洋写真家の中村庸夫(つねお、スネ夫じゃない)氏は、やはり博識ですごい方ですね。水中の写真が素晴らしいと思っていたけれども、帆船の撮影でも世界的な写真家だということ。
マスターピースの数々はこちらの「ボルボックス」という事務所のサイトで閲覧可能。私、恥ずかしながら、こちらのフォト・エージェンシーは知らなかった。自分が制作の仕事をしていた当時は、まだなかったのかもしれない。
(ご本人も相当水準のイケメンです。『サンゴ礁と海の生き物たち』(誠文堂新光社)の著者近影が相当な笑顔でした)

この本がどう面白いかということを少し説明。
映画「ファインディング・ニモ」で、世界の熱帯魚ファンに人気が出たクマノミであるが、「隈之魚」「熊之実」「隈魚」という表記で分かるように、歌舞伎役者の「隈取り」から取られたらしい。
それはいいのだが、ニモはカクレクマノミという種類で、ハナビラクマノミというのが別にいるのよ。ところで、このリンク先の写真に対する世界じゅうからのコメントの数、すごいったらないですね。
で、このハナビラクマノミの英名がpink anemonefishというので、当然、アネモネのようにひらひら花びらのようなお魚だからついた名だと思うじゃないですか。
それが……。

――「ハナビラクマノミ」は花びらのように美しい、ということではなく、昔、水族館で飼育しようとした際に飼育方法が確立されておらず、花びらのように次々と散って死んでいったところから命名されたもの、といいます。(P151)

ということである。読んでいて思わず、「ひっ」と引いてしまった。まあ、コラーゲンを飲ませたところで、花は散るし、短命の生き物は冷たくなってしまうということなのだね。

【No.1042】至上命令…6月24日

最近の二酸化炭素削減に関する報道を聞いていると、それを至上の命令として動いている独裁国家にいるような気がするよ。

法人が行政に迫られて、数値目標を達成するために、何は何でも削減しようとあらゆる努力を図る姿がいじましく映る。
不用な植物を利用するとはいえ、航空会社がバイオ燃料を使うって、どうよ。ちよっと聞きもらすと、「燃料なしで飛ばせてみろよ」と言っているようにも取れる。

二酸化炭素について騒ぐあまり、他の温室効果ガスが忘れられている気がする。また、そもそも人間活動の総量に比例して増大すると思われる温室効果ガスを出さないためには(その昔、「エントロピーの法則」ってあって、あれ何かニセ理論という受け止め方がされていたけど、抽象化すると今の騒ぎと同質じゃね)、消費を抑える、ひいては活動をあまりしないで、どこかにじっとしているのが一番だということが忘れられている(笑)。これも極論に走ると、人口が減るのが良いという、別の急進主義につながりかねないけど……。
二酸化炭素を減らそうと動くことでもたらされる影響やら、他の諸活動とのバランスなどを広く見渡すことが必要なのではないだろうか。

これでまた、サミットで大きく花火を上げて、国民が二酸化炭素排出抑制を第一義に考える国家にでもなっていくとおかしいよ。国内で二酸化炭素を抑制しながら、中国はじめ経済発展が期待されるところに車を売りつけ、あれだけの人口の国で排気ガスを出させるようにして、どうする?
しかし、それも社員と家族の生活、関係諸企業、ひいては日本経済の水準を落とさないための「背に腹」だということは見えてしまうね。

いや、きょうはお休みのつもりで、すでに家の主たる場所に掃除機をかけ終わり、珈琲タイムとなっているのだが、掃除をしながら、「主婦業にこういう形で励むのは、電気を多く消費するな。のらりくらりして体を動かさないぐうたらな主婦の方が、エコ(これもなー。エコロジーとエコノミーがごっちゃに使われているじょ)に貢献していることになる」と思いついた。
洗濯機もがんがんに回し、昨夜はひと晩中、除湿機をランドリー・モードで稼動させておくという、悪魔のような電気消費者ですよ、私。息子の制服のポロシャツを乾かさなくてはならなかったからだが……(洗濯機の乾燥モードがどうもうるさいので、除湿機で量のある洗濯物を乾かす)。

では、なぜ掃除機をかけるかというと、部屋が欧風化したことが大きい。畳敷きばかりなら、昔のように、ふとんを上げたあとに、ほうきでしゃしゃしゃっと掃き出せば良いのだ。
和室というのはすごい伝統だ。くつを脱いで上がるからこそ、清潔が保たれ、限られた畳の空間で食べて、くつろいで、学んで、眠って……という生活が成り立っていた。
国民ひとりあたり6畳分の空間が望ましいというような感じで、2LDK、3LDKと計測し始めたことで、生活様式が転換した。畳1帖あれば眠れるのだ、それだけの場所しか専有できず人は死んで行くのだという腹のくくり方でもって、家族が寄り添って暮らしていたことの利点をしみじみ思う。うちも生活時間が(生活行動も)ばらけ始めたので、着実に個室化への道を辿っている。

――おっと、書いているうちに宅配便で、ごそっと届いてしまいました。楽しみながらの務めのための資料である。
珈琲が冷め始めたところで、洗濯機も止まり、干すという務めもできてしまいました。

[追記]NHK「クローズアップ現代」がちょうど二酸化炭素処理技術の最先端の特集であった。きちんと聞いていなかったけど、大気に排出する前に回収して、固い岩盤の下、地下深く埋めるって……。それが万が一、一気に噴出しちゃうと、空気中の濃度が濃くなって人が死んじゃうって……。
何かSF小説みたいだったよ。
ゴミの埋立てと同じ着想なんだね。二酸化炭素は、大気というゴミ捨て場に出されるゴミだから。そこがいっぱいになったら、別の場所に捨てる。

【No.1041】読んだら書いておく…6月23日

記憶力があまりないからこそ、ひとつことにこだわってじっくり取り組めず、次から次へといろいろなものに好奇心が向くので、どう考えても、記録をこまめに残した方がいい。
昔の知人に会うと、「あの時こういうことがあって、あなたがこういうことを言って、こういう結果になって……」という話になっても、それがよく思い出せないということがままある。
ここで昔語りをしたり思い出を書いたりしている時も、ぼんやり記憶の残像だけを頼りにしているから、かなり創作の域に入っているのではないかという気がする。

読んだ本の内容や印象というのも、長くは記憶に留まってくれないもので、オンライン書店に上げた文章を検索して、読み返したりしていると、「こいつ、浅いこと書いてやんの」と抹消したい気分になることもあれば、「へえ、なかなかいいこと書いているじゃない」と誰が書いた文章であるかを忘れてナルシーにも読みふけっていることもある。
この辺がまた、自己完結の自己完結たるゆえん。
読んだら書いておく、体験したら書いておくのは、将来への自分への問いかけでもある。

ということで、何年か先の、プリーストの新作を読む自分へ向けて、きょうは『限りなき夏』(国書刊行会)について書いておいた。プリーストの「分かりやすさ」と「分かりにくさ」が何なのかという分析、試論のとっかかりみたいなもののつもりである。

そして、先ほど長田弘『読むことは旅をすること 私の20世紀読書紀行』についても書こうとして始めたのだけれど、雨降りで走れないと、全身の血行が良くなることによる「ひらめき」に欠け、パラグラフ1つのところできょうはやめることにした。こんな具合……。

<『読むことは旅をすること』という題名には、「読書」と「旅」という2つの行為が含まれているが、両方に共通するのは、好奇心がその源にあるという点、そして、好奇心の度合いに応じて「広がり」や「深み」が追い求められ、成果が得られるという点だ。さらに言うならば、読書も旅も、今ここにある自分の軸というものを少しでもずらしていくことに通ずる。読書体験と旅の体験に誘われながら、素直に自分の軸をずらすことを受け容れるとき、大きなチャンスが訪れることがある。それは遠い「涯(は)て」のような場所に連れ去られるというものだ>
何を書くときも、若干の艶っぽさを出せると面白い、だから「さらす肌」なんだな……と思いつつも、正調・長田節に対しては、きちんと応じた方が良いと判断しての書き出し。

【No.1040】コーティングのつづき…6月22日

あっちをちょいやり、こっちをちょいやり、そっちもちょいやりという具合にいろいろなタスクに振り回されていると、影分身の術で1号から始めて分身をいくつか作り、それらを整理し担わせたくなる。
前にも、この1号、2号の発想については触れたけれども、「びわ1号」には、ひたすら本を与え、読ませ考えさせ書かせておく。
「びわ2号」は家事担当で、そうじ、洗濯、食事の用意、片付けなどをしっかりさせておく。実家の手伝いに関したこともこちら。
「びわ3号」は家族対応、夫と子と親の世話をさせ、「びわ4号」は社交やPTA対応、「びわ5号」はスポーツで鍛えたり楽しんだり……。「びわ6号」には美術・映画・音楽鑑賞関係、それが何か創造的行為に移行していくことも許す。「びわ7号」には何か専門的な研究でもさせてみたいし、「びわ8号」はボランティア係。「びわ9号」と欲張って、恋愛人格を付与する。さらに「びわ10号」はぼうっとしたり、昼寝したりでだらしなく過ごすことを命ずる。と、ここまで書いて、仕事をさせる分身を入れ忘れたので、それを「びわ11号」としておこう。

これが実現すると、weblogを11個も運営するのかという疑問が出てくるけれども(笑)、それはそれ、パスワードを共有して、共同編集ということで良かろう。

さて、こられをどう統合していくかということなのだが、ホールディング・カンパニーだと捉えるか、パソコンのOSだと捉えるのか、何かミッションのある司令室と捉えるのか……。
管理人格を置くとして、それに感情を持たせるかどうかが問題なのである。つまり、「きょうは7号が頑張って成果を出しているから、8号が何か言ってきても無視するか」というように、感覚的なところで裁量をしていくのか、これら分身の働きを数値化して冷徹に成果と報酬を評価していくのか。
そしてまた、管理人格には実体を与えるのか、与えないのかも問題となってくる。
そして、全部をひっくるめてコーティングしてしまうか、一個体ずつをそれぞれコーティングしていくのかも、よく検討していかないといけない。

【No.1039】コーティング…6月21日


最初はとても実用的な話になる。
定番絵本『スイミー』は、涼しげであるし季節物でもあるし、図鑑が2冊並んでいるのも色気ないので、レイアウト上の彩りで単に入れてみただけ。

左右の図鑑をオンライン書店bk1でオーダーするときに、フィルムコート加工を指定してみたのが届いたのだけれど、やはりいいですね、これ。
bk1の工作員ではないですが、あやふやな知識で説明すると、ここんちは図書館流通センター、略称TRCの一事業部なのである。TRCは図書館に納入する本の「装備」、つまり、ラベルを付けたり、帯を外して切り貼りしたり、表紙にポリエチレン(でいいのかな?)のコーティングなどを行ったり、新刊を選書して各地の図書館へ納本する、知る人ぞ知る優良企業(そしてほぼ専売……。帳合はトーハン)。
東急ハンズのような店に行けば、本の表紙にぺたーっと貼るコーティング材料は売っていると思うけれども、自分で貼ってうまく行くかどうか分からない。それでbk1に頼むと、1点につき120円の加工でやってくれるというサービスがあるのだ。材質も、つるりしているのではなく、少しエンボスが入っていて、いい感じだ。

あまり派手に宣伝していないけれども、この加工は市販品でもっと注目されても良い。
例えば私が今回入手した図鑑は、アウトドア関係の老舗・山と渓谷社の人気シリーズ「山渓フィールドブックス」の2冊。このシリーズはダイビング&シュノーケリング、バードウォッチングやきのこ・山野草採り、昆虫採集、花や木などの植物観察など、野外で遊ぶ人がターゲットの図鑑なのだが、「使う」本なので耐久性がほしい。表紙がコーティングされているって、多少の耐水性もあるので便利だ。
野外活動に持ち出すほかにも、工事現場で使う本やら、料理のレシピ集、ハウツー本のたぐいなど、耐久性がほしい本っていろいろあるのではないか。お店や待合室に置いておくムックやらマンガやら……。何かあちこちに営業して歩けそうですよ、私。
******
きのうの中途半端な話を少し補足すると……。
自分にも多少そういう嫌いがあるので、自己完結型の人間、とりわけ芸術家肌(イコール芸術家でなく、あくまで「肌」ね。つまり社会性をあまり気にかけない求道的な気質というか何というか)の人間に注目するし、そういう人に惹かれる。
それで、芸術にはほとんど関係のない、ある人のブログ(この呼称、実はあまり好きでないのね。響きが垢抜けないじゃない。それでたいていweblogと書くようにしている)を眺めていて、「おお、こういうジャンルでも、やはり技術水準が上がって行くと、限界を切り拓こうとポテンシャルに挑もうとする人がいるのね」と感じ入っていた。
ただ、そういう人の発信するものって、フレンドリー風に書いていても、どうしても自己完結している雰囲気が漂っていて、寂しいような感じもあって、それが何か嬉しかった。「同じ血を感じて」といったところかもしれない。

ただ、自己完結の良いあり方というのは大変に難しいとも思った。
元サッカー日本代表の中田英寿を例に挙げると、彼のW杯をもっての引退という幕引きは、私には「すげっ。偉大なる自己完結」という感じで好ましかった。本当のところはどうか知らないけれど、その自己完結――自分が「よし」と思った物語を、あまり周囲を省みずに完遂させてしまうということなのだが、そういう傾向を含めて彼の性格が良さそうだとはとても思えない。
でも、性格が良い人が好きというわけではなく、ある種の性格の悪さが好ましい、どちらかというとそういう方が魅力的ということもあり、性格の悪そうな中田が、誰にも文句をつけられないほど必死で走り抜き、武士のようにプレーする姿が好きだったのだ。
それが拝金主義のような「自分さがしの旅」なんかをテレビ番組にしちゃってさ(しばらく前に放映していたものです)、それも沢木耕太郎の『深夜特急』みたいな精神性に支えられた真の旅でなく、何でもありの旅なんかして、あの自己完結性はどこへ行ってしまったのだろうと残念であった。旅こそ、もっと自己完結的に結んでほしいものであったよ。
ファッションもなー。ファッションリーダーは、SMAPの草なぎくんみたいな子に任せておかないとダメよ。さりげなさがないといかにも成金だもの。タキシードも北沢豪やらラモスみたいに似合わないもの。
やはり一番似合うのは鍛えた肉体にサッカーのユニフォームなのだから、芸術家肌のプレーで、自己完結の物語を大切にコーティングしたままでいてほしかったなあ。自己完結の鏡として……。

何か、中田ネタにずれてどうでもいい話になりました。
ついでに言うと、最近の若い兄ちゃんのリリー・フランキー的な伸ばしっ放しの髪にちょびヒゲって、どんなもの?
あの清潔感のなさからだけ判断して、リリー・フランキーって読んでみたいとも思わないのよね。今ごろ「ウッドストック」やってんじゃねぇ、と言いたくなる。「ウッドストック」は劇場で2回にテレビで1回観ていますが……。
<この項つづく>

自己完結と影分身…6月20日

「現実世界でもネット世界でも無視されて……」という秋葉事件の犯人の言葉を聞いて、何かこう、ぞーっとしたものを感じているのは私だけではないと願いつつ……。発信する人だけでなく、ロムする人にも、何かこう、「(自分と同じ趣味や感性の人に)うまくつながればいいな」という「飢(かつ)え」ってあると思うし……。その飢えを少し歪んだ形で埋めてしまっているのがネット社会だという気もしている。

ジェノサイドに走った人のその言葉が引き金となって、中田英寿のおそろしくつまらなかった「自分さがしの旅」の番組のことやら、高学歴・多資格・高所得の中堅リーマンが何でまたこういう転身?というネット上の書き込みのことやらも思い出し、さらに何よりも自分のことをあれこれ考えながら、「自己完結」と「上忍レベル・影分身の術」について、きょうの後半はずっと思い巡らせている。

ここのところやりたいことが多過ぎて、平日睡眠が4時間半程度、それを補うのに、できる日は昼寝で1時間カバーという程度なので、昼間は意識もうろうとしていることが多い。
肌の回復も夜10時から深夜2時の間だというし、きょうはもう詳しい説明はせず、寝むことにしますわ。

いくつかのサイトやブログで、昨夜のサンゴの産卵の写真がアップされている。たとえばこちらは、プロの写真家であり、サンゴ研究家でもある方のブログで、昨年分も貼ってある。
夢でいいので、動いているところを見たいな。最近、寝入ってすぐ30分ぐらいの頃合いに、何かにうなされて目覚めることがままあるので……。

【No.1038】まだ先の夏…6月19日


この間、きれいなので買ってみた。
このように赤い(「私を見て」という自己主張の色)派手な花を買ったのは初めてだ。いつも、もっと楚々とした小さめの花、色も白か中間色がほとんどなのだけれども、ハイビスカスを入口にいろいろ楽しいことを思い出せそうで衝動買いした。毎朝、毎夕眺めて、ごきげんよくなれるのは良いものだ。
直径がかなり大きい花がつく。ハイビスカスって咲いたら4~5日はそのままかと思っていたけれども、1日半ぐらいでしぼんでしまうのですね。見事な花なのにもったいな~い。
行きつけの美容院にも置いてあり、かなり丈が大きくなっていて、冬でも咲いていた。もう少し、大きめで趣きのある陶器の植木鉢を見つけて年中楽しめるようにしようと思う。

きのう書影を貼った『砂の城』で読み残していた最後の1篇「大いなる波」――季節は夏でなく、冷たい風が吹く時季の漁村の話なのだが、あんまりすごい展開なので驚いてしまった。きょうになって、ゆっくり時間が取れたところで、これだけが残っていたとは……。「天からの恵みというものだろうか」と思わせられるぐらい。
その話の余韻にもっと浸っているべきとも考えたものの、「時間があるとき読んどかなきゃ」と情けない根性で、また、何冊か立て続けに良い本に当たっていると読書欲も旺盛になるので、やめときゃいい気がしながらもプリーストの短篇集『限りなき夏』(国書刊行会)に、ついつい手を出す。

半分読んだ。プリーストって、やはり面白い。
面白いけれども、2篇めの「青ざめた逍遥」って、最後の1行まで読んで、意味がよく分からなかった。
いくつか解釈できるということで良いのだろうと思うけれども……。たとえば、「ああ、運命に手を入れても、やはりこの人の人生は思い通りに行かなかったのか」という納得もできるし、あるいは、これはTo be continuedということで、彼が現実(無論、小説的現実)の世界に戻って日常を再開しようとしたとき、何かが変わっているかもしれないという読者の想像にお任せスタイルだと受け止めることもできるし……。
ただ、そういう解釈では、作者による序文にある「愛は支障なく伝わるものの、それをとりまく環境が事態を困難なものにしてしまい、最終的には永遠につづくものにさせている」という説明に合致しないではないか。相変わらず自分は恐ろしく読めていないのかもしれないとおののきつつ、それでも楽しめれば良いかと諦めるような感じ。

それから、訳がどうのこうのやら、これがどういうジャンルなのかやらということは、関心としてはあまり濃くないのだけれど、古沢嘉通さんていう訳者の日本語は、別の本でも感じたけれど、どことなく品が良くていいなあ……。どこがどうという説明はできないけれども、小笠原豊樹、小野寺健、土屋政雄といった文学者たちの訳文を読むときのような安心感がある、私には。それはつまり、原文がそういう雰囲気だということなのかしら。

【No.1037】内に秘めたる「うねり」…6月18日


この本――メアリ・ラヴィン『砂の城』(みすず書房/出してくる小説がどれもこれも渋すぎるぜ)の新版だが、いたって読みやすいのに、昨年のちょうど今時分、読みかけて読み通さずじまいだった。

今、7篇の短篇中、6篇を読み終えて、「あれ、このあたりまでは読んでいるんだよな」と思う(もしかして読み通していたのだろうか)。思うけれども、精神のコンディションが以前と今ではまったく違うせいか、別の本を読んだ気分。
前は、集中力がどこかに飛んでいて(たぶん子どもの塾通いサポートと自分の諸活動がうまく回せていなくて多忙で消尽していたため)、細部にまで気持ちが向かなくて、「アイルランドにも、こういう落ち着いた感じの作家がいるのか」という印象だった。だが、きちんと向き合うと、普通の人びとの内面に潜む感情の一時的なうねりというようなものが覗ける、すごい小説だという印象に変わった。

何せ、ロード・ダンセイニがロシアの小説家のようだと絶賛していますからね。ただものであるはずがなかったのだ。訳者が中村妙子氏であるし、質の低い作品であるわけがない。
それにしても、アイルランドって、国民の10人に1人くらいは小説を書いてでもいるのかと思えるぐらい、小説家が多い。名古屋の愛・地球博のアイルランド館でも、ケルト文化の装飾品や音楽(今のバンドと伝統音楽)の展示に混ざり、優れた作家の多い国だというパネルがあった。

まあ、誰がほめているやら、アイルランドがどうやらといったことは二の次である。問題は「普通の人びとの内面に潜む感情の一時的なうねりというようなものが覗ける」という特徴である。
私自身は、この「うねり」が抑えても抑えても、どこかほころびて外に多少なりとも噴出してしまうタイプであるが、長く人間社会を生きていると、「何でここで意気に感じないのか」「今の状況でプライドを傷つけられ、悔しくはないのか」「すきなのか嫌いなのか、はっきりせい」みたいにドツきたくなるような多くの人びとの反応がはびこっている気がして、そういう現実世界を振り返ってみると、内に秘められた「うねり」の存在を、ちらと見せたり、感じ取らせたりしながら紡がれるドラマの練り方に、ラヴィンは本当に長けた人なのだと感じる。

【No.1036】刑場まで持って行く…6月17日

午前中、新宿であちこち買い物に立ち寄ったあと、午後は某オフィスで珍しく手作業に従事。アルバイトの頼まれ仕事である。
いつもの仕事(これもアルバイトと言えばアルバイトだ。一応、自由業的ではあるけれども、実質)は、ひっきりなしに頭を働かせないと進まないので、浮かんでくる考えを押さえつけるのに苦労するが、きょうの作業は集中力はいるものの、多少は考え事もできて何か新鮮であった。

今後、どう働いて家事とのバランスを取りながら生きていくべきかを薄ぼんやりと考えていた。
正直、贅沢さえしなければ、そうしゃかりき働く必要はないのだけれども、しばらく先のこと、つまり家の相続税や妹との折半のことなど考えると(大したものではないのだが)、もう少しきちんと、つまりフルタイムで働くべきなのである。しかし、それをすると、感性的にもたないということも分かっているので、すでに何年も考えあぐねて年ばかり重ねてしまった。
「しおれた花は咲かないでしょ?」と先ほども、息子に言われた。ムカつく~!!!

自由業的仕事はほぼストレスフリーであるし、ボランティアをしたり、弁当を比較的丁寧に作ったり、多少の文化的時間を持ったりする余裕があるので捨て難い。しかし、そのような甘きに流れていていいものかどうか。

どういう道を選んでも「後悔」に結びつく可能性もある。
つまり、何かを打破するために「やるか、やらないか」という判断なら、やらない選択よりも、やる選択の方が良い気がするが、いずれか1つという選択はとても難しい。
でも、まあ、結果的に、本が読めなくなったり美しいものに触れる時間が減ったりすると気が狂うかもしれないので、気が狂わないようにするには道が限られてくるのだろう。

こちらに開設した「物語るにはまだ早い」は、18日かかってカウンターが180ばかり。「本のシャワーにさらす肌」の方は、相変わらずクローラーもいっぱい来ているので400~500ページビューあって、それがきょうは700になっている。
どうしたのかと思って、検索ワードの記録を見たら、「陸田真志」がいっぱいあった。
あわてて夕刊を見直すと、宮崎勤に気を取られて読み飛ばしていたが、池田晶子と往復書簡を交わしていた彼の刑も執行されたのではないか。

この本は、私のbk1への投稿第1号である。
こちらの記事は、死刑執行が確定したという日に書いたもの。
陸田は池田晶子の死を知っていたのだろうか。知っていたなら、どう受け止めたのかを知りたいものだった。
それと、記事の方にも仄めかすように書いたが、世間に隠し通したと思しき例の件について、どのような整理をしたのだろうか。

【No.1035】満月のつもりで…6月16日

夜9時前に走りに出ると、南西の方に見えた月が「満月に少し欠けるぐらいか」と思ったのだけれど、調べてみたら、満月は16日の木曜で、まだしばらく間があるのだった。
渋谷ファイアーストリート近くの白山眼鏡店WALLで「美術館で絵を観るとき用に」とあつらえた眼鏡では、空がうまく見えないのかもしれない。最近、視力がまた落ちてきているからなのかもしれない。

満月に近いつもりでいたので、♪ムーンリバー♪のメロディーを思い出しながら、また『国家の品格』で有名になりすぎてしまった藤原正彦氏が、まだそう有名でない時代に奥さんと訳した『月の魔力』も思い出しながら、「サンゴの産卵ってそろそろかしら。死ぬまでに一度は見てみたいものだな」と思いながら走っていた。


昼間、晴天洗濯日和だった東京は、夜気も何となく暖かで、自宅から900メートル程度の公園に行き、1周800メートルぐらいなのか(前は400メートルぐらいかとずっと思っていて、10周走ったこともあるのだけれど)、それを1周走ったところで、すでに体は十二分に温まり、汗をかいて脳がぼうっとしてきて、ランナーズハイ状態。薬物に頼らなくても、このように健康的に脳内に狂的状況が訪れるというのは、非常に良いのではないだろうか。

その状態で、満月と言えば人狼伝説だと思いつき、ナスターシャ・キンスキーが美しいだけで、展開がちゃちかった映画「キャットピープル」のこともぼんやり思い出す。デヴィッド・ボウイが主題歌を歌っていたので、前はレコードも持っていた。
人狼と言うより、私は「人狐」なのだ、ロンドンのB&Bで親しく話したフロント係が、翌朝メッセージを残してくれたときにも、「Dear Miss Fox」と書かれていたのだと、つらつら思い浮かべていく。
すると、ちょうど明かりの横を走ったとき、地面に影がくっきり映ったのだが、そこからしっぽやたてがみがにゅうっと生えてくるのが見えた。

【No.1034】読みにくい空気を読む…6月14日

こないだの日曜につづき、きょうも都内某大型書店でおはなし会を務める。
「じゃあ、来週の日曜の父の日には、みんなお父さんを大切にしてあげてね」って、子どもたちに大うそをついてきたことに気づく。
父の日って、明日じゃない。……まず~い!
ギャラリーに大人のお客さまたちも大勢いたのに……。

前回も今回もそうだったけれども、ペアの仲間(スクーバ・ダイビングでは「バディ」と言うようで……。バディって、世田谷にある有名な体育会系幼稚園が併設された子どもスポーツクラブの名称でもある。少年サッカーの有名チームでもある)と始まる前に、「きょうはこの本とこの本を組み合わせて、こういう流れで行きましょう」とプログラムをある程度組むのだけれど、いざフタを開けてみると、そこに来てくれた子どもたちの年齢や性別、雰囲気によって決めていたプログラムの流れではまったくダメなことがあり、始めた途端に、使用予定本を切り替えたり、読む本の順番を変えたりする。
この空気を読みながらの現場対応ができないと、おはなし会というものは子どもたちに喜んでもらえない。2回つづけて、空気の読み取りによる対応に、相当勇気が要った。
<この項つづく>

ご報告…6月13日

いろいろ試してみて、「本のシャワーにさらす肌」の管理画面に何とか入れるようになりました。
一部の方には、お騒がせしてご迷惑おかけしました。

当面、こちらのログは、何かあったときのバックアップとして、時間差更新していきたいと思います。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

【No.1033】穏やかな内耕…6月12日


小説と並行させて読書中。
詩人・長田弘氏の既刊エッセーから旅の記録を集め、手を入れた大巻『読むことは旅をすること 私の20世紀読書紀行』(平凡社)である。森本哲郎氏の『空想紀行』を思わせるサブタイトル。贅沢な本を、ある方からご厚意で送っていただいた。
平易で読みやすい文章だが、長田氏が1970年代から半生をかけて旅して思索した記録なので、内容が濃く、少しずつ読み進めては、土地とそこに深く関係した作家や詩人の生きざまについて考えさせられている。

若き日、長田氏は北米のアイオワ大の客員詩人として、そこで研究生活を送った。アイオワ大出身のフラナリー・オコナーについての文章が所収されている。オコナーと一緒に学んだ人物から聞き得た話にぐっと詰まり、また、オコナーがカポーティをそのように評価していたのかという意外な記述もあって、文学好きには魅力多い本だと思う。
ベンヤミン、ガルシア・ロルカ、オーウェル、ポール・ニザン、パヴェーゼ、アフマートワなど、かなり渋めの文学者、作家たちが取り上げられている。

アイオワ関係で、こんな一節を見つけた。
――普遍的人間なんてものはいない。人間はなべて、どうしようもなく限界の人間であるということ。あるいは、自分の限界の体験を生きる人間であるということ。
この何でもないただの真実を、まっすぐ引きうけられるかどうかが、すべてであるということ。(P193)

ある黒人との会話から到達した思いを吐露した部分なのだが、こういう掘り下げを読んでいると、比べるのもおこがましいが、長田氏の人間の器があまりにも自分とは違い過ぎて、打ちのめされる。
内面に下りていくという作業は、私も心がけて行おうとしていることだが、どうしてもラディカルに必要以上に痛々しくやってしまう。このように穏やかに慎重に、かたまりをほぐしていくように掘り下げられることを羨ましく思う。

【No.1032】冷凍睡眠…6月11日

伝説的復刊本だというアンナ・カヴァン『氷』を一度読み終えて、もう一度ぱらぱら要所要所だけ読んでみた。それで、きょうはこの本のことで頭をいっぱいにして、考えたことを書いてみて投稿する。終末世界を描くのに、何で「氷」を利用したのかという考察が中心。
オンライン書店bk1の書評は、以前1600字制限だったものが3000字まで可能となり、引用文も心おきなく使えるようになったはずなのに、いざ投稿しようとしたら字数オーバーで、「あれっ? そんなに書いたかっ」と思い、カウントしたら3600字だって……。原稿用紙9枚分も、よくもだらだら、と。
苦労して削りに入った。さして内容もないことを簡潔に書けないって、一種の病気だという自覚もなきにしもあらず。このぐらいの分量になるなら、序論・本論・結論の三部構成でかちっと書くべきだ。

途中、冷凍睡眠のことを思い出した。ハインラインが書いたSFの傑作『夏への扉』に使われていたガジェットだ。
この小説、青年とユニークな猫との交流が面白く、気になる女の子のために冷凍睡眠で時間旅行を試みるというストーリーの後味がさわやかで、10代のうちに読むべき本という気がする。

そこから、冷凍睡眠ということで、いろいろ思い浮かべる。
「この人、年を取ったら渋みが増してより一層素敵になるだろうな」と思える人物が、またしても子ども関係の人脈で現れたので、例えば自分がその人を待つとして――と想像を始める。でもね、それじゃあ、ノーマルでつまらない。
これがたとえば、40歳の男性が7歳の少女、それも昔、自分の恋人だった女性の娘が大人になるのを待つという話でも、そうは面白くない。どこかで聞いたことがあるような話だ。
それでふいっと浮かんだのが、3人の子を持つ美しい女性の言葉で、彼女が前に「お兄ちゃん(彼女の長男のことです)大好き。結婚したいくらい好き」と言っていたこと。若くして出産して、その子とともに自分が成長してきたと思えるからの大好き発言だったのだが……。
そのようにして大好きという意識的なものがなく、冷凍睡眠から目覚めたとき、それと知らずして我が子に恋をしてしまうという近親相姦的な物語にすると、かなり行けるのではないか、と。
行けるというのは小説として……なのだが、私の場合、それを実作につなげていくつもりはなく、このようにプロットを書きながら、「そうだ、そうだ。あれはそうして……。そこがこうなって」と夢想していると、すでにもう書いた気になって満足があり、さあ、それじゃあ、別の小説でも読もうかということになる。

お付き合いのあった絵本作家でも、「ラフスケッチを作ると、さーっと本絵のイメージが出来上がって、それでできた気になる」と話していた人がいた。

先般鬼籍に入られた童話作家の小沢正氏もそういうタイプの人だった。
会うたび珈琲専門店で2時間ばかり話していると、「たとえば、こんな感じで……」と、ずいぶんいろいろな物語をしてくれたっけ。でも、オリジナルの原稿は滅多上げない不思議な作家だった。
そもそも児童文学者なのに『ゲド戦記』『指輪物語』などのハイファンタジーは読んでいないというようなことを言っていて、ヘンリー・ジェイムズの話などしていた。正に、氷の世界に閉じ込めたいような、得難い知性だったのに……。
『めをさませトラゴロウ』は、日本児童文学の紛れもない金字塔である。

【No.1031】読み通さなくてもよい本…6月10日

昨年後半から今年の春にかけて、子どものお受験対応と自分のちょい仕事や活動との両立ですっかり小説が読めなくなり、卒業と入学のバタバタもあって、それがさらに続き、ようやく小説を読み通す時間が少しできたところで奄美への「島熱」を患った。相変わらず、文学作品へのトライのペースが落ちたままである。
何をしているかというと、読むより眺めている本が多くなってしまった。奄美の自然や文化を撮った古い写真集の類いを漫然と眺めている。ときどき、思い出したように、島尾敏雄がミホと採集した『奄美の伝説』(角川書店/日本の伝説23)なぞ読んで、島の奥深さに感心ばかりしている。
そういうなかで、この本も見つけた。奄美でなく沖縄の本だけど……。

20年ほどかけて作られた沖縄347ビーチの名鑑である。
このように一つひとつをつぶして大全を作っていくという作業は、次から次へと興味関心が移り変わる私のような輩には決してできない作業であるがゆえに、ひれ伏したい気分。詳しい内容はbk1の方に投稿しておいたので、いずれ書影リンク先にアップロードされるでしょう。
こういう実用書の類いは、好きなところをぱっと開いて読んだり眺めたりで、根を詰める仕事をする人が緊張をほぐすのにいいですね。

ところできょうになって初めて気づいたが、この星空の背景――右上のStarchartのところをクリックすると星座が出るし、ドラッグしながら星空にお絵描きもできる。大して複雑なものではないが、テンプレートにもいろいろあるのだなあと思いましたよ。

【No.1030】構築するそばから…6月9日

アンナ・カヴァン『氷』――250ページほどなので、すぐ読めそうな気になっていたが、とてもとても……。ほぼ万人が楽しめるアーヴィング作品の次に読む本ではないわな。読者を選ぶ小説だ。

展開されるイメージを我が物とするために、書き手のビジョンに同調しようとして読むのだが、あるいはそのような読みが間違っているのかもしれない。うまい立ち位置が見付からないまま、作者のイメージを追っかけていき、引き摺られていくだけの情けないありさま。

かなり来ているよな、この小説……と思えたのは、構築するそばから崩落していくこの感じ。それがやはりカフカ的なのだ。某独裁国家における不条理な出来事、どこへ辿り着くか分からない展開といった表層的な物語の類似ではなく、その「構築するそばからの崩落」が、読む者の内面に与えるI miss it.という感傷。日本語に直すとどうなるのだ。寂寥感? ニュアンスが少し違う気がする。寂寥よりも、もう少し軽いタッチ。

時節柄、「構築するそばからの崩落」という評価はこそっと行っておくのが良いような空気。
ましてや、「人の滅びを美しく書いてある小説」という自分の好みのことは控えておいた方が良い空気。

カバー袖の「冷たい熱狂を引き起こした」という紹介文の表現がいい。私も過去に何回か、このような矛盾する言い回しを使ったことがある。すごくよく分かる表現で、ビリビリ来る。
さっきまで、麻酔を打たれた唇がしばらく元に戻らず(合法ですよ、もちろん。歯科治療である)、覚め始めるとビリビリしていたのだが、「冷たい熱狂」って、どこか麻薬中毒的な感じをよく捉えている気がして……。

【No.1029】温度ある人の声…6月8日


亡くなった人のご冥福を祈る。
それなのに不謹慎かもしれないが、今日みたいな猟奇事件があると、どうしても思い起こされるのが津山の事件のことで、それをモデルに書かれた『八つ墓村』、そして『夜啼きの森』だ。津山のケースも年が近い。22歳の青年だったらしい。
昨日、不謹慎なことをここに書いたがために、共鳴するような感じがあって薄気味悪い。
昨日だったか一昨日だったか、三日月を見た気がしたので、今夜は何かが起こりやすい「新月」の晩ではないと思うが……。気になるので、あとで確かめてみよう。

ソビエト連邦時代に迫害され、断絶に追い込まれたロシア正教の聖歌集を聞いている。何か知らないけれども、「洗われたい」という感じがしたため……。しかし、対訳を眺めていると、「見棄てたるのか」「忌み者」「我が霊よ、何ぞ悶え、罪を重ね」などと書いてある。

先週は、医療施設で10代半ばの重度の障がいを抱えた子に、目の集中が持ち続けていることを確認しながら、ささやくようにゆっくりと3冊の絵本を読んだ。
今日の午後は書店のミニイベントのおはなし会。そして、今週末もまた、別の書店のおはなし会へ出向く予定だ。それぞれに何をどのように読むのか、難しい。
今日の場合、事前の打合せでパートナーと決めていたプログラムの流れを、本番でがらり変えた。いつも女の子が多い会場で、小さめの男の子、しかも、あまり本に慣れていない感じの男の子が多かったからだ。どの本を選び、どのように集中力を持続させるかは、相手の様子や顔色を見ながら瞬時に判断していくしかない。

言葉の内容がよく分からない人、まだ夢のなかに住んでいる幼い人たちなどに、伝わっているかどうかの確認をいちいちせずに読む機会が少なくないので、温度ある人の声が、ゆったりと丁寧な言葉を発しているとき、それが何か「安心感」をもたらすものとなって相手の内側に染み入っていくのを感じられるときがある。その感じだけを支えに読むことがある。
もしかするとはなはだしい勘違いかもしれないが、物の分からない赤ちゃんに一所懸命話しかけるお母さんの声と同じで、「働きかけること自体に意味がある。その結果は今すぐにではなく、いつか出る、……かもしれない」と確信できるような反応が得られることがある。

精神状態が異常な人に、音楽やら読みきかせやらは効果があるのかと問われれば、そのようなことはよく分からない。分からないが、25歳の荒ぶれに対し、近くにいたら、例えばもし鉄格子越しに対面するとしたら、どういう本を読みきかせすると相手の心が変化するのだろうかと、愚にもつかないことをしばらく考えていた。
何なら新聞記事だっていいのかもしれない。その声が、温かで安心できる響きのあるものでさえあれば……。

【No.1028】私が見た殺人犯…6月7日

ある物の管理業務関係で用事がいくつかあって、それでもせっかくの梅雨晴れなので洗濯を大量にして、図書館でおはなし会用のかみしばいも探して、朝顔の苗を買ってきてプランターに植えて、はやツルのための竿までセットして……。
ずいぶん働いたなあ、と満足ある日。けど、本を読んだり、きれいなものにはあまり触れられなかったなあ、と残念な日。

2回目の外出の帰り、踏切を渡ろうとしたら、カンカンと警報が鳴り始めた。
すると、向こうから歩いてくる人がぱっと目に入ってきた。
長身でがっしりした体つきの男性。スポーツ刈りに、レイバン系の金のフレームのサングラスをしていた。うっすら黒の縦縞の入ったグレーのスーツ。どう見てもカタギではなく、かといってマタギであろうはずもなく(いや、案外、マタギや木こりの息子なのかも)、引退した野球選手にも見えなくはない。

カンカンと鳴っているのに、その男はどこからともなく軍手を取り出して、両手に通した。
そして、やおら腰をかがめると、本人の大きなこぶしの2倍ぐらいはあるかと思われる大きな石を、線路の間から拾い出したのだ。
――拾い上げた瞬間、目が合ってしまった。
それでもカンカン鳴っているから、足早に渡るしかない。すれ違うとき、おもむろに石をカバンにしまっている様子が見て取れた。
「急いだ方がいいですよ」――もちろん、そんな声はかけない。

何、あれ……?

瞬時に思いついたのは、その男がマンションの一室で、男か女なのかは分からないが、ある人物の後頭部を、その石で思いっきり殴りつける場面。殴ったあとに、軍手をはめたままの手で相手の首を締める。
金のもつれか、恋のもつれか、あるいはプライドを傷つけられた恨みとか……。
「ああ、踏切に隔てられて良かった」と思う。
後ろから追いかけられ、石で殴られることはよもやあるまいな……と、少し斜め後ろを振り向いて確認してしまった。そのあと、自転車でさーっと帰ってきた。

ミステリーの一場面のようだと、目の前の世界がぐらつくような奇妙な感覚がしばらくあったけれども、別の事情によるオチがあるという可能性も考えた。

「あなた、そんなに漬け物が食べたかったら、帰りに、この桶に合う適当な大きさの石を見つけてきてちょうだい」と、妻か情婦(「いろ」と読んでくださいね)に言われているというもの。
プロフィール

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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