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【No.1140】その分、長生きする…3月21日

世間的には3連休で、せめて箱根の温泉あたりでも行ければ良かったのだが……。
このところ息子が家族とは一切出かけたくないということで旅行の計画を立てさせてもらえないし、家人は年明けから繁忙で、この連休をはさんで長期出張中。
私は私で、連日それなりの用事があって対応して、今夜も今から食事の片付けのあとに仕事を広げようかと思っているところである。仕事も、もうちっとがちっと勤めに出て働ければ良いが、(パワーは充分であっても)年が年であるようだし、景気も景気であるので、このままずっとこぼれ落ちてくるような仕事を有難く受け止め、日銭稼ぎにいそしむ。日銭稼ぎなりに実績らしきものも出てきたので、それを武器として挑戦してみようかということも控えている。
また、仕事にはあまり関係なく、良い本を探しながら読んで書いて考えて、読みきかせもして、社会的な活動の充実も図りたい意欲はあるので、新年度に向けて、それなりの仕切り直しを整えつつある(真人間みたいなこと、書いているなあ)。

お彼岸ということで、もう一体何年前になるのか、ある女の子の結婚パーティーで、花粉症によるノドのトラブルと闘いながら、かすれた声でさせてもらったお祝いのスピーチを思い出していた。
そこで触れたエピソードなのだが、「深いイイ話」があるのだ。

彼女は、私が様々な印刷物の制作をしていたときに、同じ場所で働いていた同僚であった。年齢は私より2つ3つ下だったと思う。
「同僚」と言っても、彼女がグループ企業の本社プロパーなのに対し、私はその系列会社のプロパーであった。しばらく机を並べていたことがあり、あるとき、出身学校の話をしていた折だったか、彼女のお兄さんが、学生時代の私の遊び仲間であることが判明してびっくりした。おバカなサークルで大騒ぎしていたときの先輩が何とお兄さん、その人であったのだ。

そのお兄さんは体育会応援団風のいなせな人で、普段は人当たりがいい。だが、怒らせると物凄い怖そうな人であった。暴力団系の怖さに通じる強面になることもあり、ファーストネームもそれなりのびしっとした趣きあるものなのであった。
で、いつもその人は「俺の名は○○だが、妹の名は銀子」と言っていた。「そうか、妹は銀子か。さすがに釣り合いのいい名前だわい」と皆で感心していたので、机の隣で働いているみやびな名の女の子が妹だとは夢にも思わなかったのである。
おそらくそういういきさつがあったので、彼女のお兄さんも当然列席している結婚パーティーで祝辞という運びになったのだと思う。

私のスピーチは長めになってしまって申し訳なかったが、まずその偶然の巡り合わせについて説明をさせてもらった。
それから、お彼岸に結婚式をしたことがとても良かったのではないかということを述べさせてもらった。

ご兄妹のお父上は、しばらく前に亡くなっていた。中堅商社に勤めるビジネスマンとなった先輩が、郷里でひとりになってしまったお母上を東京の自分の家族のところへ迎えたという話を聞き、(それは今どきなかなかできない親孝行だ。さすがだな)と尊敬の念を新たにしていたのである。同居をする奥さんも大したもので、その人柄の良さは、毎年くれる年賀状で知っている。

のちに東南アジアの地へ長きにわたって家族と赴任した先輩は、会社の事業の基幹を担うバリバリの商社マンとなったわけだが、大学は2浪して入っていた。
「2浪は結構辛いものがありましたね。親御さんは何て言っていましたか」と、学生時代に尋ねたことがある。
すると、こういう答が戻ってきた。
「親父には、2年無駄にしたんだから、人より2年長く生きりゃいいんじゃないか、と言われたよ」
独特のカッカッカッという感じの豪快な笑いと共に漏れてきた言葉なのであるが、私は(そういう発想があるのか、やはり父親も豪快な傑物だなあ)と、いたく感じ入ったのだ。

この常識を引っくり返すような胸をすく言葉が、それからずっと頭に残っていた。
特に子どもが乳幼児のころは、自分の思い通りに好きなことに取り組めない。自分がこうして子どもの世話をしている間に、世間はどんどん動いて行ってしまう――そういった焦燥感は、多くの母親が抱えるものであろう。
そういうとき私は、「いいや、今できない分、どうせ自分は長生きするから、あとでやろう」と思ってしのいできたのである。それは今も同じで、やらなくてはいけないことに追い回される時、「いいや、どうせその分、私は長生きするから」と唱える。そうすると、つまらなく思える作業であっても、腰を据え、へこたれるどころか余裕ゆえの楽しささえ感じて取り組むことができるようになる。

そういう豪快な発想の父親のお子さんたちにふさわしく、兄は商社マンとして、妹は会社勤めを一段落させて米国に留学して、国際的に羽ばたいた。亡くなったお父さまも、彼岸が娘の結婚式で喜んでいることだろう。亡くなった人の冥福を祈るのに、今日の慶事は何よりではないか。そういうようなことを話した記憶がある。

「できることは先に伸ばさない。今すぐ取り掛かれ!」という考えがビジネス啓発書の類いには多いように思う。
それもまた1つの真理ではあろうが、何でも効率よく片付けていくという発想は、個人の命を縮める。太く短く生きたいのなら、そうすれば良かろう。だがしかし、効率を突き詰めてきたから、今のような社会の状態に至ったのであろう。
これからは、先々まで健康で生きていき、遠い将来のため、やりたいことに取り組むパワーを温存しておくということで、「その分、長生きをする」という発想に切り替えるのも悪くない。人だけでなく、組織もまた同様に……。
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【No.1025】陶酔の泳法(6)…6月4日

「のし泳ぎ」で検索してみたら、こちらにはイラスト動画、こちらにはコマ割り写真で、泳ぎ方のイメージがつかめるようになっていた。
のし泳ぎは水戸藩に伝わる水府流の一番重要な泳法だそうで、やはり速く泳ぐためのものでなく、武士(と言うより、おそらくは忍びの者)が敵に見つからないように水しぶきを上げず泳ぐ方法だと別のサイトにあった。そして、誤って船から落ちたときに、できるだけ長く泳ぐための術だとある。
水府流の母なる川が那珂川だそう。

夏の朝、敦賀で遊んでいたこと、そのときに起こったことを「本のシャワーにさらす肌」【No.1017】【No.1018】【No.1019】で書いたけれども、「のし泳ぎ」を教えてくれたおじさんに会ったのも、そういう夏休の一日の始まりの時間帯であった。
たぶん「元気がいいなあ」というような感じで声をかけながら、おじさんは私たちのそばを泳いでいた。その不思議な泳法が「抜き手」というのだと後で教えてくれたが、犬かきやら平泳ぎであっぷあっぷしているような私たちを見て、「海で泳ぐときにいい方法を教えてあげるから、見ていてごらん」というようなことだったと記憶する。
最初に「これは、知っているでしょ」と「立ち泳ぎ」をその場でやって、私たちが見よう見真似で従うと、「のし泳ぎ」と「抜き手」をどうやるのかを教えてくれたのである。結果として「のし」はすぐできるようになったけれども、頭を水面に出したままのクロールのような「抜き手」は何度試しても沈んでしまい、うまく行かなかった。今もできない。

その日、ほんのひとときを一緒に過ごしただけの、名も知らないその人に、私は水に寄り添って泳ぐという喜びを実感できる泳法、一生の財産となる泳法を教わったのである。以来私は、海でもプールでも、「ああ、泳ぐって何と気持ちの良いことなのだろう」とうっとりしながら「のし泳ぎ」をしてにこにこしている。そして、そのときに、いつもかすかに敦賀の海のことを思い出している。

今の時代は、少女たちにおじさんが近づいて行こうものなら不審者に取り違えられかねない。だが、昔はこの「地域のおじさん・おばさん力」というものが、子どもたちの育つ環境で大きく機能していたということが、この一件でも明らかだ。ちょっとした知り合いや、よく知らないおじさん・おばさんが、言葉やその土地の習慣、文化、風俗などについて事あるごとに知恵を授けてくれる場があった。
よく考えてみると、古式泳法という日本の伝統の技術が、あのような形で伝承されたということは類い稀なことだったと思える。

そういえば、やはり「本のシャワー~」の方に書いた体験ダイビングの記事のところで、「この柳腰」という表現を使ったら(もちろんおふざけ的に)、「自分で『柳腰』はないだろう」的なチャチャを入れてきた古い友人がいる(何かぴんと来ないのだけれど、ときどきくれるメールに、なかなかユニークで大きな事業の諸々に携わっていることの報告があるビジネスマン)。
「柳腰」という言葉を「蒲柳の質」という言葉と共に教えてくれたのも、名も知らない地域のおじさんであった。敦賀の次に移った日立の町で、夏休みの前後、毎日毎日学校帰りにショッピングセンターに通い、同じ場所で1日3~8本のホームランアイスを食べつづけていたことがあった。中学2~3年のときに、友だち2~3人と食べられる本数を競い合って……。
そのショッピングセンターで働いていた人だろう、背広姿のおじさんが、手相を見てくれたことがある。それが案外よく当たっていたが、その人が「柳のような体つき」ということを言ってくれたのであるよ。確かに「柳腰」ではなく、「柳のようにほっそりとした」という表現で、微妙にニュアンスは違う。

――このようにして、私に構って、生活の知恵や雑学、技術、伝統を教えてくれた人たちに、今、深い感謝をしている。おそらく多くの人はもうすでに、此岸ではなく、彼岸に泳ぎ遊ぶ人たちであろうけれども……。

【No.1024】陶酔の泳法(5)…6月3日

体で覚えた「技」というものは、なかなか忘れない。

幼稚園の頃(幼稚園、4つも行った。世田谷で1ヶ月、四国の高松の仏教系で通園拒否をしてミッション系に移り、卒園は岩手は盛岡の白百合)はハサミを使うのに苦労したが、今は久しぶりに持っても思い通りに切れる。
自転車に乗れる人はブランクが何年かあっても、乗れなくなることはない。スキーも数年前久しぶりにやってみたとき、まるでダメかと思えたけれども、それなりに滑ることができた。
それから……、エッチなことにも触れておこうかとも思うけれども、品良く止めておきますわ。

そして、のし泳ぎ――
これがどういう泳ぎか説明してみる。頭の右側を水につける。だから左斜め上の空を見上げることになる。
右手は進行方向へ伸ばし、差し出すように伸ばしたその手を戻す。伸ばして戻して、伸ばして戻してを繰り返す。左手は、ひじを曲げながら水をかいては元に戻し、かいては戻しを繰り返す。手の動きに関して言えば、平泳ぎで左右の手同時に行うことを、役割を分けて行うというような感じになると言えよう。足は、正式なのはどうなのか知らないけれども、私は所謂カエルキックをしている。平泳ぎと同じ。
この泳ぎ方をしていると、顔を水につける必要がない。そして、顔をつける平泳ぎのように、首や背骨がこってくるようなこともない。
一番かんじんな特徴は、これが競技用に早く泳ぐための泳ぎではないので、ゆっくり、ゆっくり優雅に水を切って行けばいいということである。

私が泳ぎを覚えた小学生のころ、つまり昭和40年代は、水泳をするときにゴーグルをつけるなどということはしなかった。そういうものは、ごくひと握りのおしゃれな大人、当時珍しい渡航の経験があるような人が持っていただけではなかったかと思う。それから、競技に携わっている人。まだ、一般的ものとして普及していなかった。
だから、塩素の匂いが強烈なプールでも、眼に何の保護もなく、水中で眼を開けて泳いでいた。しかし、さすがに海となると、眼を長く開けつづけることは困難である。
そこで、のし泳ぎや立ち泳ぎに代表される「顔を水につけない泳ぎ」が重宝なのである。

プールや海で疲れてくると、私はこの泳ぎをする。本当は、この泳ぎ方でずっと泳いでいたいのであるが、人に「何よ、その泳ぎ方」という目で見られると少しバツが悪いので、公衆の目がある場所では、なるべくノーマルに泳ぐようにしているわけだ。
しかし、のし泳ぎに切り替えた途端、「ああ、やはり、この泳ぎは最高だ」と嬉しくなり、水面に上げた顔が緩むのを感じる。「うーん、気持ちいい」と、ついにこにこ、いや、にやにやしてしまうのである。
これがプールで高いところに座っている監視員に見られ、偶然目が合ってしまうと、「何だ、コイツ」という表情に変わるこもある。

のし泳ぎは、顔をぬらさずに済み、四肢に負担がないということで、水になじむ泳ぎ方、特に海になじむ泳ぎ方である。もっと言えば、水に抵抗することなく、水と一体化することのできる泳ぎ方なのである。私は、この「技」を夏休みの敦賀の浜辺で教わった。もう35年もの昔……。
<この項つづく>
プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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