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【No.1420】食事が楽しみと言える幸福

正月返上で(というか、ここ2年ばかり、すべての休日を返上している気が……)長い論文を苦しみぬきながら何とか書き上げる。
けれども、その後もほっとひと息つく暇などなく、ミッションは次から次につづく。

ミッションが多いというのに、今週、時間を割いていただけるチャンスありということで、急きょ「発表させてください」と名乗り出た。それで昨日と今日はこもってプレゼンテーション用のスライド作りに励む。

配信されてきたメールマガジン「[書評]のメルマガ」で林さかなさんの文章を読む。その後、彼女のブログ1day1bookに飛んでみて、家族そろってわいわいがやがやと食事する様子やら、人を支える用事の合い間に興味を持った本を読みながら生活の質を高めている様子やらを好ましく読む。

そういや、学校の生協以外、書店という場所にしばらく足を踏み入れていないな、とか、研究のために行けていない場所、怠っているつき合い、うっちゃっている用事などが多いな、とか、もろもろが脳内に点滅するが、「そうだ、どうやら自分は人間らしい幸福とは別の生活で、なすべきことを与えられているようなのだ」という自覚で、しばしの夢想から目が覚める。

昼ごはんは久しぶりに宅配ピザを頼んだ。
お弁当作りも含め、食事作りには割にしっかり取り組んでいるのだ(くたばっちゃいられないため、体づくりが大切)。
「ピザ、最初はいいけど、何枚か食べていると飽きてくる」と家族と話しながら、先週、社会学演習で仕入れたアメリカの教育事情の話を思い出す。
ひとつはホームスクールの件なのだが、ピザを食べていてよみがえってきたのは学校給食の業者にファーストフード業界が参入している件。Mクドナルド、Pザハット、Bーガーキング、Dミノピザ、Wェンディーズといったところ。給食予算が少ないと、人手や設備のいらないファーストフードが有難いというなるほどな話なのだが、しばらく前に見た「ナショナル・ジオグラフィック」誌に、貧困地域では安く買える食品がファーストフードなので、日常的な食事がファーストフードだという特集があった。
そうなると、朝食はなし、ランチが給食のファーストフード、夕飯には親に買い与えられたファーストフードなどという子どもも少なくないのかと思いがおよぶ。さらには、先般の平成26年度「国民健康・栄養調査」を受けて、厚生労働省が低所得者層の食事にコメントを出した件も思い出す。栄養バランスを考える余裕がないようなので、食事の内容を見直すというように健康への関心を高めてほしいという内容のもの。
マリー・アントワネットの「パンがないならお菓子を食べれば」的だという書き込みをツイッターで見かけたが、食事の件に限らず、想像力のおよばないような局面に置かれている世界各地の子ども、弱者、マイノリティについてしばらく思いをめぐらせる。




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テーマ : 伝えたいこと
ジャンル : 日記

【No.1401】静かにそっとしみわたれ

新しい職場と新しい学びの場に通い始め、「きつい」「大変だ」とひいこらしながらも、はや2ヶ月が行く。
「はや」と言うより「やっと」2ヶ月なのかもしれない。

どちらにおいても、私という異物が混じり込んだことで、ざらりとした感覚、何かちょっと調子狂うといった感覚を抱いている人も少なくないように見受けられる。
それでも、良いことか良くないことか、多少なりとも周りの人に自分がもたらしているようである影響というものをときどき確認し、不思議な気持ちになる。

例えば――
自分より目上の人を見送るときは、「行ってらっしゃいませ」という言い回しが癖なのだけれど、先日、物腰がとても丁寧で面倒見の良い職場の若い男性が、上司の外出するところに「行ってらっしゃいませ」と声がけしていて、「あれ?」と聞き留めた。
そう言えば、電話口で「〇〇してくださいますと、助かります」などという言い回しも、この青年、前から言っていたかな、どうだったかなと思った。この言い回しも、よく口にしているよ、私。

学校の方では、中村印のレジュメがいつも同じフォーマット。
見出し部分には、子持ち罫という実にコンサバなものを使っている。
最後の部分には報告者からのコメントを記したコラムを入れる。ここには太めのリーダー罫を使い、所感のほか、調べてみたミニうんちくなど入れるようにしているのだけれど、ある言葉の語源が面白かったので記しておいたら、私の翌週の報告者が、たまたまなのか、やはり語義、語源を調べて載せていた。

この種の「ひびき」はネット上でもしばしば見られる。
少し珍しい言葉を引くと、それからしばらくして、交流とも言えない「水の交わり」程度の人が、偶然なのやもしれないけれど、同じ言葉を使っていたり、同じ対象に向かっていたり……。自意識過剰かもしれないけど。

ピーター・センゲが「学び合う組織」という表現をしているが、人が作り出す社会やネットワークの下位システムである小さな系の中で、そのようなかすかな影響し合うものがあるのは一般的なことだろう。
「これ、いいかもしれない」と受け止めたら真似して使ってみて、自分には合わないと思ったら身につけなくても良い表現や取り組み姿勢、知識や情報など。何回か折に触れて使っていくものが、いずれ自分らしい表現の中で生かされていく。
「伝承」と言うには、やや大仰であるけれど、そのように人は他者のレイヤーの上に自分のレイヤーをかぶせながら長い歴史の上を歩んできた。

名のある人の金言や名言だけが日々の言動を左右するのではなく、名もない人たちの小さな表現の試みが次々と積み重なりながら、潮流やうねりを作り出していくこともある。
こぼしてしまった水が、テーブルクロスに静かにそっとしみわたっていくかのように……。

【No.1395】きょうという日の覚書

目覚ましは5時20分に鳴るも、寒くてしゃんと起きれず5時40分に起床。
夫の弁当作りと朝食作り。いつものトマト入り野菜スープを煮込むが、材料は夕べのうちに刻んであった。
朝食、片づけ、ゴミ出し、洗濯物干し。
40分ほど仮眠。
二度めの洗濯でシーツのような大物洗いをしながら、トイレ2ケ所・洗面所のそうじ、部屋に掃除機かけ。階段他の床拭き。
神社へ正月飾りをお焚上げに持参。薄謝を渡し、神事を少し見学したのち、お参り。
帰宅して、昼過ぎに塾へ行く息子のため、カレーうどんの下ごしらえ。
母を連れ、徒歩で下高井戸シネマへ。「ベニシアさんの四季の庭」鑑賞。

ファミレスで昼食。いつも通り、母からいろいろネガティブな話を聞き、それを何とか前向きに考えられるよう、おしゃべりの相手。
少し遠回りして帰宅。
洗濯物の片づけ。シーツはベッドメーキング。
自転車で、図書館のブックポストに絵本・児童書など返却。
図書館と方面の違う商店街に出向き、スーパーマーケットで買い物。
帰宅して、午前中できなかった息子の部屋そうじ。風呂そうじ。
頼まれ事の書類を一枚作成。
夕飯の支度、明日の弁当のおかずを少し作る。朝食用スープの材料刻み。
夕飯、片づけ。

今ここ。BSでセリエAを見るともなしに見る。

たぶん入浴して、本を何ページか読むと、ばたんきゅーだと思う。

テーマ : 日々のこと
ジャンル : 結婚・家庭生活

【No.1382】雑記あれこれ

◇京王線の駅ホームには、朝日新聞写真ニュースの掲示板がある。
写真ニュースと言えば、昔、転校して複数通った小学校には、確かどこにも少年写真新聞社のものが掲示されていた。目に飛び込んでくる「切り取られた瞬間」のインパクトで報道写真の重要性を何となく感じ取り、それがあったせいだろうか、「将来はジャーナリストになりたい」と高学年で作文を書いた記憶がある。

きょう電車を待つ間、明大前駅で眺めていたのは、福島原発への潜入ルポについての一枚。
先月21日の朝刊一面に出ていた内容で、汚染水が23万トンもたまってしまっている上、今も毎日数百トンずつ増え続け、収拾のつかない状況にあるということ。廃炉にできるのは2050年ぐらいという、気の遠くなる現実。

たとえ廃炉の作業に目途がついたとしても、周囲にまき散らかされた放射性物質がクリーンになるわけではない。人々の記憶から遠ざかりつつあるけれど、生物の遺伝子への影響を考えれば、終わりなき災害と言える。

炉が冷却し切れないから大量の水が使われつづけているのだろうし、使用済み核燃料1500本が4号機建屋内にあって、撤去しようにも誰もそこに近づけない様子なら、2050年という目安にしても、現実的な見通しなのかどうかがよく分からない。

2050年まで生きていられれば、私は90歳だ。あの春、高校生になった息子は55歳になるのか。
そう考えると、この現実が極めてSF的だと、何というリアリティのなさなのかと愕然とさせられた。
これから30万トン、50万トンと敷地内に作られるタンクにたまっていく汚染水を、例えばスペースシャトルで搬送し、どこかの星の一画に埋め立てることを考えてみる。考えたところで、その発想が「模倣」に近いことに気づく。
首都圏で使うための電気を福島や柏崎で作り、そういったはるかなる電気のふるさとから、送電線で流しつづけていたのである。首都圏で使うものを首都圏で作っていなかった。
おまけに処分場として、六ケ所村の核燃料サイクルも計画中であった。

「うちさえよければ、よそはどうでもいい」という伝統的な内輪意識、ムラ意識が、「どこかの星」と発想した自分の中にもこびりついている。そういった意識の後ろめたさは、スーパーマーケットで食材を買うのに、10代の息子が食べるのだからと、できるだけ東海以西や北海道等のものをカゴに入れようとするたび、引き摺っている。

原発周辺だけではなくとも、雨水溜まりの検査でホットスポットとして挙げられた場所が近くにあるなら、水の循環や移動する生物の体内に取り入れられることで、放射性物質は遍在化していく。
「食育」が学校教育の現場を中心に普及し、「地産地消」が奨励されてきた経緯があっても、その理念が、未来ある子どもたちの肉体にとって大きなダメージとなるケースもあるはずだ。
地域コミュニティを崩壊させない、それぞれの故郷を復興させるといった社会的価値・経済的価値の実現のため、ヒトという生物体の安全が押しやられていることはないだろうか。その切り口での語り伝えが不足してやしないだろうか。

廃炉にできるまで、再び大きな地震がくることはないのだろうか。そんなことも気になる。その可能性を放置するかのように、東京に大きなイベントを招致することは、果たしてどうなのかとも考える。
<この項つづく>

テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

【No.1376】「驚きが新しい知識につながる」と言う人

この前の年越しには、確かバルガス=リョサ『悪い娘の悪戯』(作品社)を読んでいた。とても刺激的な年越しだった。

今回は、海外小説2冊を少しずつ読み進めていたため、双方の登場人物の多さに、米国人とイタリア人の名前がシャッフルされて「よせばよかったのに」状態。果たして、どちらも最後まで到達できるものだろうか。
その2冊を読むのに、読みさしにしていた本を先ほど読了。聞き書きの名手・塩野米松氏の『木の教え』(ちくま文庫/単行本は草思社から刊行)である。



暮れの27日、仕事帰りに新宿のデパートに回り、汁椀を買い求めた。
越前の漆器である。
越前は、オタマジャクシ型をした福井県のあたま部分。子ども時代、そこにある武生市に2年暮らし、そこからオタマジャクシのしっぽに当たる若狭の敦賀市に移って2年暮らした。知っている土地の伝統工芸品を手に入れることには、ちょっとしたときめきがあった。

漆器コーナーで何種類かが値下げ品になっていて、私が選んだのは一客が2000円ちょっと。
お高いのか、そうでないのかはよく分からないが、いくつか見比べた中で、価格の割に品が良い。かといってハレの日のためにしまい込んでおかなくてはもったいないという豪華さかげんではなく、正月の祝い膳(というほどのものでもないけれど)にのせた後、日常使いにして毎日の不愉快がなく「元が取れる」と判断したので購入を決めた。

その翌日28日は仕事納め。何か書店に寄って「本の買い納め」もしないといけないような気にさせられたので、前から買いそびれていた白水Uブックス2冊を手にし、レジに行こうとして、『木の教え』に目が留まった。

これもまた、よくあるジャケ買いである。どう見ても、中身にマヌケなことが書いてなさそうな面相だし、塩野米松氏という書き手の評判は、子どもの本の世界の方から聞こえてきていた。
しかし、よく考えてみると、前日に「椀」という木製品を買ったことがかなり強く意識の底にあったのだろう。

中のページもめくらず、カバーの内容説明にあった「法隆寺を千三百年以上も持たせてきた宮大工の秘伝」「木に教わり、山に叱られて学んできた木の文化や自然観を振り返る」といった文言に動かされ、ささっとレジに持ち込む。その時、面識のあるノンフィクション作家・山村基毅氏の『森の仕事と木遣り唄』(晶文社)という著書の一冊、氏が敬愛する宮本常一の著作のことも頭によぎった。

『木の教え』には、あるべくして「椀」や「漆」の記述もあった。
椀を作るのは木地師と呼ばれる専門家で、木の丈夫さや紋様のことを考え、丸太から木を取るということである。しかし、確か我が家のものとなった椀には、木の部分は中国産だというシールが貼られていた。
丸太からの取り方には「横木取り」と「縦木取り」があり、この本には、そういうイメージの浮かびにくいところにはイラストが添えられている(ルビも振られているから、中高生のテストや入試問題にもお薦めできそう)。
あにはからんや、どこかミステリじみていたのは、漆についての記述であった。漆を集めるのは「漆掻き職人」というそうなのだが、この漆掻きには何でも「殺し掻き」と「養生掻き」という二種類の木の傷つけ方があり、樹液を取る。

殺さずに取り続けるほうがいいように思いますが、養生掻きでは取れる量が少ないのです。そのため、現在日本で一番たくさんの漆を集めている岩手県浄法寺では、ほとんどが殺し掻きです。
(P136-137)

この漆を集めている場所が「〇〇山」とか「〇〇農園」だったら良かったのだが、お寺さん、それも「浄法」という名のお寺さんだというのに「殺」という字が使われているものだから、「ひいいいぃ」と一瞬、たじろいだのであった。

何だか「このようにして、木という植物のいのちをいただきながら、私たち人間は暮らしている」というような気がしてきて、良書推薦めいた落としで文章をくくりたくもなるが、この本の最初には、独特の価値観が紹介されていたのであった。
本文の書き出しは次のようになっている。

木は二つのいのちを持っています。
一つは植物としてのいのちです。
[中略]
もう一つは木材としてのいのちです。
木は伐り倒された後に、木材としてのいのちを得ます。
(P16)

この考えは、「落ち葉は秋という季節に生まれてくるものだ」と言う、絵本作家の平山英三・和子夫妻の思いにも通じる。
「木材としてのいのちを得る木」という見方で驚きをもたらしてくれた塩野米松氏は、故郷の秋田県角館での木との思い出にも触れている。この文庫本には記載がなかったが、東京理科大学で化学を学んだ人だという。
科学技術の合理性・論理性に学んだ人が、失われていく伝統文化や技術の知恵と工夫に触れ、「聞き書き」という地道な作業で残していこうとするものを、もう少し読んでみたいと思う。

テーマ : オススメ本!!
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

中村びわ

Author:中村びわ
2004年から2011年まで書いてきた
「本のシャワーにさらす肌」
http://biwa.blogtribe.org/を、
こちらに引き継ぎます。

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