物語るにはまだ早い

「本のシャワーにさらす肌」の避難所

【No.1153】天からの賜り物…5月27日

「きょうはもうおしまい」と思って、夜ベッドの上で上体を起こしながら少しだけ本を読むことにすると、読んだ内容があまりに素晴らしく、「これがきょうという日だったのか」と驚かされることが過去に何回もあった。
昨日もそういう日であった。最もその予兆は午後にすでにあり、恵まれ物を受け取る準備は自分でしていたのかもしれない。
自分が何気なく書くものも、眠る前に少しここを覗いてみようと思った人に、同様の喜びを与えられるようなことができれば幸いだと思う。

 過ぎ去っていく時間、その正体はなんなのだろう、そう思って首をかしげるのは、子どももおとなも同じです。いちにちが、過ぎてしまったあと、その日はどうなるのか。わたしたちのきのうという日、楽しかったこと、悲しかったこともふくめて、その日はどこにあるのか。過去とそれにまつわるさまざまな気持ちを思い出すうえに役立ってくれるもの、それが文学です。物語をする人にとって、きのうという日は、いつも身近にあります。それは過ぎ去った年月、何十年という時間にしても同じです。
 物語のなかでは、時間は消えない。人間たちも、動物たちも消えない。書く人にとっても、読む人にとっても、物語のなかの生きものは、いつまでも生きつづける。遠い昔におこったことは、いまもほんとうに存在する。
(I.B.シンガー『やぎと少年』まえがきより/工藤幸雄・訳/岩波書店)

全部写してしまうわけにはいかないので、あと半分は写さないが、この後、シンガーはこの子どものための童話集を<おとなになる機会を持てなかったおおぜいの子どもたち>に献げるとしている。知らない人のために書いておくと、シンガーはポーランドに生まれたユダヤ人であり、1943年に移住先の米国に帰化した作家である。
1978年にはノーベル賞を受賞しているが、彼はイディッシュ語(「聖」なる言葉とされるヘブライ語に対し、民衆の「俗」な言葉であると、工藤幸雄氏のあとがきに説明がある)で書いた初めてのノーベル賞作家であった。そして、今、イディッシュ語を話す人はどんどん減っている。だから、イディッシュ語で書いた最後のノーベル賞作家になるだろうとも言われているらしい。
<おとなになる機会を持てなかったおおぜいの子どもたち>というのは当然、ナチによって迫害され、虐殺された子どもたちのことである。

この短いまえがきを読んだだけで、思わず泣けてしまった。
そして、シンガーという作家の偉大さを改めて確認した。 


上に並べた通り、シンガーは一般向けの文学作品も書き、子ども向けの童話も書いたのである。そして、そのどちらのジャンルにおいても傑作を残した。
どちらか1つのジャンルだけでも、傑作と言われるものを残すことは非常に難しい。しかし、彼は両方において、類いまれな傑作を残した奇跡的な作家なのである。
(『ショーシャ』『カフカの友と20の物語』リンク先には中村コメントあり)

まえがきの素晴らしさにつられて全部読んでしまった『やぎと少年』は、『お話を運んだ馬』のように面白おかしかったり奇想天外だったり、じんとしたところもあったりという素晴らしい童話集であった。『まぬけなワルシャワ旅行』も一昨年出た『タイベレと彼女の悪魔』(地味だけど質の高い作品を出しつづける吉夏社さん、グッジョブ!)も読みたいと思う。
それから、『やぎと少年』にはモーリス・センダックの見事な挿絵もついている。センダックもまた、ポーランドからのユダヤ系移民で、絵本作家として最高峰の1人である。代表作『かいじゅうたちのいるところ』は、5本の指に入れたい好きな絵本である。
<この項つづく>
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【No.1152】児童文学を評する難しさ…5月25日

3月に子どもの本のイベントの一企画で、荒川洋治さんが話すのを聞く機会があり、これがとても面白かった。
対談のホストが岡崎武志さんという、古本のガイドをよく書いているライターさん? よく知らないのだけれど……。

人が本について話すのを聞くより、あるいは書いたものを読むより、本を読んでいた方がいいように感じるので、話を聞きに行くこともほとんどなくなってしまい、これも元々はお付き合いで出かけて行ったのである。内容にはあまり期待していなかったし、「現代詩の荒川洋治」という認識しかなかったのだが、荒川氏がものすごい文学の読み手であることを今さら知ったのであった。
そういや、朝日新聞に時々、文芸時評を書いていたような……。

荒川氏の村上春樹観など面白おかしく聞いて、そこでキャッチしたパレスチナ文学カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』をしばらくして読み「おお、やはりすごいものだ」と感心し、誰の何という作品が素晴らしいという情報を半分ぐらいは頭に入れて……。
それと、「今の若い文芸評論家は総辞職。本をいっぱい読んでいるのは分かるけれども、それを難しい言葉でこねくり回して書くから、文学が余計専門的なものだと見なされてしまう。文学は一部の愛好家のものではなく、生活していくための実学なのだ」「昔は若い人が読む本というのがあって、それは大人が読む本とは違っていた。今は若い時代に読む本というくくりがなくなってきて、それが読書界に大きな影響を及ぼしている」というような感じのポイントの話を非常に深く納得しながら、うんうんと聞いて帰ってきた。
「自分の場合は、本から得たエッセンスをちゃんとより良く生きていくための姿勢に反映できている」という自惚れでもって、「私は悪くない読者だ」と自画自賛しながら良い気分で帰ってきたのである。
荒川氏は話術の妙手で、独自の価値観を伴った情報が素晴らしく、終わった後はオーラを消して、一般人のようにして人ごみにまぎれサササッと、たぶんタバコを吸いにお茶の飲める店へと単身消えていく姿もお見かけし、ちょっとしたファンになってしまった。

文芸評論の難しさはさておき、私は、それより難しいところにあるのは児童文学評論ではないかと思っている。
児童文学評論の場合はまず、「誰のための評論か」という、スタートラインに立つ前のところから議論が求められるからである。
だって、児童文学は児童が読むものであるから、彼らにとって良い本の紹介がされることが望ましいのだが、実際には、児童文学評論は、児童文学を愛好する、あるいは子どもに紹介する大人のためのものとなっている。その辺がどうなのかという議論がまずは難しいところである。
その他にも問題はあり、愛好する大人のためのものだからなのだろうが、児童文学評論を謳っているような雑誌においても、それがただの感想文集になりがちなこともある。
つまり、たとえば宮澤賢治の特集号を組むとすると、「賢治文学をどう斬るか」という新たな視点が提示されるのではなく、「私にとっての賢治」みたいなエッセイばかり並び、おおよそ読む気にならない思い込み文集になってしまう(追記:これはもちろん、名の知れた物書きや有識者が集まって名文を読めれば良い企画だ。しかし、名も作品も知られていない児童文学作家や児童文学周りの人が書いてばかりでは仕方ない)。ざっくり書くと、これが児童文学雑誌の振るわなくなった原因であろう。その前にすでに、日本では、児童文学にほしかった才能がよそへ行ってしまったということもあろう。つまり、評するべき作品の長年の不作という現象である。

というわけで、荒川洋治氏と似た考えなのだが、「文学はもういいんじゃないの」ムードの村上春樹氏に児童文学でも書いてもらうと良いのではないかとも思う(今、思いついた)。

この児童文学を評する難しさというのは、実は下のカルヴィーノ『カナリア王子』とフォンベル『トビー・ロルネス全4巻』について書いていて、つくづく感じた(「評」というのは「草書評」であって、本格評論でないのは承前のこととして)。

『カナリア王子』は、児童向けの本だというところを捨てて、彼の奇想天外な物語の源となった大仕事、同時にイタリア文学やイタリアにとっての大仕事という点に逃げて紹介文を書いてみた(そう書くよりなかった、というのが偽らざるところ)。


ひいひい言いながら、きょうやっと第3巻について書いた『トビー・ロルネス』。実際、ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア四重奏」の各巻について何か書くより難しいんじゃないの、これ……という感じ(アレクサンドリアについては、特に第3巻の圧倒的エジプト観、世界観に打ちのめされながら、それについてタイミングを得て書く機会を逸した。読後忙しくなってしまったことが悔やまれて仕方ない。再読ののち何とか第3巻以降も書きたいものである)。
草書評なりに、独自性や書く意味を模索しながら工夫、挑戦しているけなげな姿(笑)。これを受け止めていただければ、と願うのよね。

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【No.1151】面妖な本…5月21日


最近読んだ面妖な本を3冊並べたけれど、おお、かっこいいじゃん。

『地獄』という英国怪談中篇傑作集には違う作家の3篇が所収されており、そのうちのメイ・シンクレア「水晶の瑕」――どういうお話なのかはリンク先の紹介を読んでいただけば有難いとして、その話とシンクロするような出来事があった。

久しぶりに連絡を取った女友達が、しばらく前に転職していたのは知っていたけれども、業界も変わって転職していた。
何と、スピリチュアル・カウンセラーになってサロンを開業していたよ。
いろいろなセッションに参加したり、訓練を受けているうちに霊能が高まってきたというのだ。
実はその方面、私も少し興味を持っていまして、その手のサイトを開いて見ているぐらいなのだが、怪しげなところもあるカウンセリングだけれども、どうも彼女の施術は効果がありそう。
昔からそういうオーラ、つまり一緒にいると、こちらの邪気を吸い取ってくれるような癒しの力に満ちた人であったので、とても良い転職だったのではないかと思う。
「私もそうそう精神的に楽な人生を送っているわけではないので、そのうちお世話になるかも」というようなメールを出したら、その夜、遠隔何とかというのか、彼女が力を送ってくれているのではないかと思える感覚があった(追記:彼女の日記を読んでいて知ったのだが、きちんとしたヒーラーというのは、相手に断りなく勝手に力を送るようなことはしないそうである。施術になる場合は、予め相手に合意してもらうことが必要なのだそうだ)。

てのひらが縦に長い人は霊感が強いらしい。何の信憑性もない話だが、私もてのひらが縦に長く、霊感が強そうだと言われたことはある。
霊感ではなく、「気」が強い、「押し」が強いのだという話もある。

そういうスピリチュアルな世界のページをのぞくと、「カルマを浄化」「錬金術」「変容」といった用語が出てくる。こういうものを見て、「ああ、こりゃ、ダメだ」とぱっとひらめく人は、当たり前だがもうそこで扉は閉ざされている。閉ざされていることが、その人にとって良いということもある。
私の場合は、「どこかうさんくさい」という猜疑心もあるが、「面白い」という好奇心の方が打ち克つ。芸術的なものに惹かれる人間には避けて通れない要素であろう。
『地獄』に作品が収められている3人の英国人作家にしても、『白魔』のアーサー・マッケンにしても、世紀末から20世紀前半あたりに怪奇小説を書いていたような人、あるいはそれ以外の知識人は超常的存在や力を信じ、そういうことについて語り合ったり、ときには集会を開いていたわけであるし、その時代の英国に限らず、霊的なものはヒッピー文化やロック・ミュージック、現代アートなどにも響いている。

元々まじないや霊媒は原始的世界からつづいてきたものであり、いまだにそういう儀式、霊的体験を大切にしている民族、部族が地球上にはたくさんあるわけで、芸術に限らず、日々を善く生きたいがためインスピレーションの作用を当てにするというのは、「世の中が下向いてくるとスピリチュアルなものが幅をきかせる」という指摘とはまた違う次元で脈々と人類に受け継がれてきたことだ。

人類――しかし、スピリチュアル・カウンセラーたちが口にすることで私が一番面白いと思うのは、「地球外生命の魂を持つ人」というものである。
『白魔』のアーサー・マッケンもそうだが、ロード・ダンセイニもそうだろう。あるいは、幕末〜明治を暗躍したというベルギー人のモンブラン伯こと白山伯もその種の人だったのかもしれない。明らかに、この世のものではない魂を持っていた人だったのだと容易に思える。

では、地球外生命ならば宇宙人なのかというと、どうもその表現はしっくりこない。だが、人間という肉体は確かに地球上のものであっても、霊魂というものはすべて「地球上」に縛れるものではない。いかなる俗人、俗物であろうと、死して霊魂、霊的存在になれば、それはすべて地球外の存在になるのだと言えやしないか。

幻想文学や怪奇小説を読むというのは、あるいは、まじないや霊的生活から切り離された現代の人びとが、知らずのうちに、そういうものを求めているということなのやもしれない。
霊気が満ちた自然を相手に仕事をしたり、そういう場所で暮らしているという人は、果たして幻想小説を欲すだろうか。その必要はないのではあるまいか。

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【No.1150】10代の置かれている場所…5月7日

何か「子どもの日」に向けた統計で、全人口に占める子どもの比率が都道府県別で11〜14パーセント程度で、子どもが珍獣化しているって?
うちでも1匹飼っていて、それを伝えると「やっべぇ。やっべぇ」と申しておりました。
「将来、社会を支えていく」ということについて、私のときには考えられなかったほど鋭敏に感じている様子。
こないだも真顔で見つめられ、「介護はオレがやらなくちゃいけないの?」と訊かれた。
「大丈夫。お母さん、お父さんを看取ったあとは、贅沢な施設に入るお金はたんまり残しておくから」とは請け合えなかった。

「10代が置かれた場所」って、10代と言っても10歳と19歳では、30歳と60歳ほどに違いはあるだろうから、都合の良すぎる見出しなのだけれども、見出しってそういうもの(目を惹くためのもの)だから……。

どちらも映画の原作であり、ヨーロッパの本というぐらいしか共通点はないが、「10代」というテーマでくくれないこともない。
『エル・スール』は、スペインの小説。女の人が少女時代について語るのだけれど、亡き父へ向けての語りとなっている。主に父親から受け継いだ「孤独」の資質について内省的に語る。

どこに生まれようと、10代は成長する年代であるゆえに、自分というものが確定できない。自信が持てずに、自分という存在を模索しつづけている。それも最近の調査で、自己肯定感の持てない若者が多いということらしいのだが、そればっかりは時代がどうのこうのではなく、自己肯定感が持てないのは当たり前という気がする。
ただ、遊ぶのに忙しかった昔の子はあまり内省的になる時間がなかったけれども、外を駆け回るスタイルの遊びが消え、家で数少ない友だちやきょうだいと遊ぶ今の子は、自分について考える時間が増えているのではないかという気もする。それも閉塞的に……。やはり時代の傾向か。
この辺、内山節氏『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社新書)にも書かれていた、生命の自然との一体感がなくなったという点にもつながっているのかとも思う。内山氏のこの新書、新書とはとても思えない、昔の中公新書ばりの濃い内容である。

『教室へ』はフランスのノンフィクション。
コレージュと呼ばれる中学校でフランス語教師をつとめていた著者が、教室や職員室の日常をひたすら綴った記録。
感想や見解、主義主張が省かれて潔く書かれている。それが痛快。
パリ19区という移民が多い地区だけに、フランス語の学習は困難を極め、さまざまな子が集まっているので、こぜりあいや問題が絶えない。
「何がどうだ」と断言されていないので、教育についてああだ、こうだと話をしたい人たちが叩き台にするのに非常に良い材料だと思う。

話が飛んでしまうけれども、昨年、東京都写真美術館で見た「世界報道写真展」で、スペインの若者たちが撮られている写真があった。幼いころに性的虐待を受けたのだという。
スペインでは、子どものときに虐待を受けた経験のある人が3割だか4割だか、尋常ではない数がキャプションとして付いていて驚いた。10代以前の話なのだけれど、子どもを取り巻く環境の困難って、自分が考える以上に世界には満ち溢れてしまっているのだと愕然とした。

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【No.1149】装釘萌え…5月6日

その昔、六本木WAVEや渋谷CISCOなどで、ロック系のアルバムを1〜2ヶ月に一遍、3〜4枚ずつ所謂ジャケ買いしていたことがあったけれど、本に関しては「ジャケ買い」というものはそうない。
しかし、4月の頭だったか3月の末だったか、「この本、結構高いなあ(本体2600円)」と感じつつ、どうしてもその場で手に入れたい衝動に駆られ、新宿ブックファーストの海外文学新刊面陳棚からさっと持ち去ったのが(いや、万引きじゃありませんよ)、下の『ブルターニュ幻想民話集』(国書刊行会)なのだが、この書影では何がそんなに良い装釘なのだか分からないですね。

何がポイントだったかというと、これ、竹尾あたりで扱っていた洋紙の何ていう銘柄だったか、墨を流したような柄の洋紙なのだが、そこにタイトル他が金で箔押しされている。「海外文学系で箔押しを久しぶりに見た」ということで胸がきゅうんとなりまして、どうしても手ぶらで、その場を立ち去り難くなった。

それで、このカバーを取ると、本体表紙には古いヨーロッパの本からでも取ったと思われる不気味な図版の数々が洋紙と同系色で印刷されており、そちらのタイトル回りとデザインあしらいはスミ色。不気味な図柄は、帯にも利用されている。
そして、実は私、箔押し萌えとともに「約物」萌えでもありまして、「約物」というのは今で言う絵文字、携帯電話に絵文字として入っている記号のようなもの。◆やら【】やら☆などです。
これをJISの標準記号ではなく、デザイナーがオリジナルで利用しているような凝った装釘が好きで(杉浦康平門下の工作舎のデザイナーたちの得意技)、この本では目次のページに、ブルターニュの旗の一部で使われている約物なのだろうか、特殊なものが使われていて、それも良い。

かんじんの中身の民話はもちろん面白く、物語以前の、人が話したままの「再話」という形態で、フランス版『遠野物語』となっている。これをチロチロ読み進めている。
それで、装釘者の名前を確かめていなかったのだが、2週間ぐらい前に見たら、「白井敬尚形成事務所」だって……。
「あれっ、白井敬尚って、知っている名前だ」と気付いた。以前の仕事仲間のご主人なのであった。

いまだに年賀状を彼女からもらっていて、それがいつも彼女が趣味で育てている山野草を写真に撮り、それをあしらったもの。デザインはこの白井氏がしているのである。
結婚するときに、「頑固なデザイナーだ」と言っていた。「何で結婚式に行った記憶がないのだろう」と思ったが。彼女たち、最近話題になった雰囲気の良い某ガーデンで家族だけで食事会をしたのであった。人のプライバシーはどうでも良い。そういうお洒落な人たち……という意味合いではある。

このジャケ買いのとき、私は本を1冊だけ買って帰るというのがどうも苦手なものだから、「何かもう1冊、コーディネートして買って帰るぞ」とお洋服を求めるときのような真似をした。この場合、コーディネートの要素は色である。
「水色っぽい表紙、水色っぽい表紙」と店内を探し歩き、結局、表紙のなりの良さと共に内容が面白そうと思えて買い求めたのが【No.1145】に書いた、旧ソ連での連続殺人事件を扱った『子供たちは森に消えた』の文庫本なのであった。

紙を扱っている竹尾は素敵な商売をしていると思うので――
ショールームである見本帖本店はこちら
昔から、デザイナーご用達の青山見本帖はこちら
息子が卓球用品を買いに行く高田馬場の「国際卓球」に初めて行ったとき、店の雰囲気が何だか青山見本帖に似ているなと思った。店舗設計者が同じなのかな。地球儀専門店やら、こういった専門店に気軽に足を運べるというのは、東京の人間の贅沢だとつくづく思う。

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